四季の歌と暮らす

 年齢ごとに「一度っきり」の四季と、
旬(しゅん)のヨコハマを味わう「くりごとの集」です。

他人の支援あれば百人力

2017-03-28 05:19:35 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『一人の力には限りがあります。お金も身分もなかった秀吉は、「十人の力を借りれば十人力、百人の力を借りれば百人力。人の力を借りるには、人を喜ばせなくてはならん」と、ひたすら人を喜ばせることに心をくだいたそうです。それで、あれだけの大仕事を成し遂げたわけです。

 では、どうしたら本当に人を喜ばせることができるかです。佼成会を始めた当初、私は牛乳屋のおやじさん、妙佼先生はイモ屋のおばさんでした。けれども、人さまをお救いしたい一心で、ただひたすら相手のことを考えて尽くしました。苦しんでいる人を見ると、車に乗せてあげる。後押ししてあげて、仏さまの教えに導く。しかも、なんの見返りも一切求めないのです。すると、人が必ず集まってきてくれるのですね。

 相手の喜ぶことだけを考えていると、相手に何かしてもらいたいといった要求もなければ、不満も生まれません。こちらに感謝や尊敬を求める気持ちがあると、こんなに面倒をみてあげているのに、何ひとつ返してくれない恩知らずの人だ、などといった不満が頭をもたげてくるわけです。これでは、どんなにしてあげても、人が慕い寄ってくるわけがありません。』

 

庭野日敬著『開祖随感』より

 

コメント

プラスのイメージを描け

2017-03-26 05:52:56 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『大勢の人の先頭に立つリーダーは、あくまでも「この仕事をやりぬくのだ」という意志、そして、「これは必ずやり遂げられるのだ」という確信が、なによりも大事です。それが、周囲の人を引っ張っていく力の源泉だからです。

 リーダーは、みんなに新たな一歩を踏みだしてもらう、その先頭に立つ人です。これから始める仕事の可能性は半々であっても、出発点で「この仕事は果たしてできるのだろうか」と迷うと、天秤は失敗のほうに傾いてしまうことが多いものなのです。

 かつて「ミスター・ジャイアンツ」と呼ばれた長嶋茂雄さんは、ここぞという見せ場で必ず打つといわれたものでした。その秘訣について長嶋さんは、「そういう場面でホームランを打つ自分の姿を、いつも頭に描いていることです」と話されていました。「打てるだろうか」「いや打てないかもしれないな」などと迷わないわけです。

「この仕事は必ず成し遂げられる」と信じる力が、天秤を可能性のほうに傾けるのです。

信仰の世界も同じです。「この教えどおり行じれば、必ず救われます」と言いきれる人でなくては、人は救えません。』

 

庭野日敬著『開祖随感』より

PS 私はよくゴルフでOBが出ました。OBラインが迫っているコースのドライバーや谷越えのアイアンが悪い方向へ飛んでしまうのです。

これは、マイナスのイメージがOBを招くのですね。

コメント

仏さまは見捨てない慈父です

2017-03-23 06:55:26 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『夫婦仲がこじれた上に、子どもが急に乱暴になって「これが自分の子か」と恐ろしくなるような言葉を親に投げつけてくる。「もう、どうしたらいいのか分からなくて……」と訴える方がいました。しかし、そうして追い詰められ「自分の力では、もうどうにもならない」とせっぱ詰まって初めて、人の言葉を本気で聞く気になってくるのですね。

 仏さまは「一切衆生はわが子。私が必ずみんなを救護(くご)してあげます」とお約束くださっています。それなのに、どうしてこんなつらい目に遭わされるんだろう、と恨みたくなることも人生にはしばしばあります。次から次へ不幸が重なって、「神も仏もあるものか」と捨てばちになりかけるときもあります。しかし、仏さまは決して私たちをお見捨てになることはありません。

 苦しみを与えられるのも仏さまのお見守りで、いまこそ自分をしっかりと見つめて、自分を変えなくてはならない時だ、と教えてくださっているのです。崖っぷちに追い詰められた時こそ、正念場です。また、その時こそまわりの人が声をかけてあげなくてはならない大切な時なのです。』

 

庭野日敬著『開祖随感』より

 

PS 不都合なことをも仏さまからの叱咤激励と感謝で受け止める。自分を変える、これが仏法による本質的な救われ方です。悟りです。

 

コメント

記事のタイトルを入力してください(必須)

2017-03-23 06:52:58 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『夫婦仲がこじれた上に、子どもが急に乱暴になって「これが自分の子か」と恐ろしくなるような言葉を親に投げつけてくる。「もう、どうしたらいいのか分からなくて……」と訴える方がいました。しかし、そうして追い詰められ「自分の力では、もうどうにもならない」とせっぱ詰まって初めて、人の言葉を本気で聞く気になってくるのですね。

 仏さまは「一切衆生はわが子。私が必ずみんなを救護(くご)してあげます」とお約束くださっています。それなのに、どうしてこんなつらい目に遭わされるんだろう、と恨みたくなることも人生にはしばしばあります。次から次へ不幸が重なって、「神も仏もあるものか」と捨てばちになりかけるときもあります。しかし、仏さまは決して私たちをお見捨てになることはありません。

 苦しみを与えられるのも仏さまのお見守りで、いまこそ自分をしっかりと見つめて、自分を変えなくてはならない時だ、と教えてくださっているのです。崖っぷちに追い詰められた時こそ、正念場です。また、その時こそまわりの人が声をかけてあげなくてはならない大切な時なのです。』

 

庭野日敬著『開祖随感』より

 

PS 不都合なことをも仏さまからの叱咤激励と感謝で受け止める。自分を変える、これが仏法による本質的な救われ方です。悟りです。

 

コメント

理屈の不平より情の感謝で

2017-03-21 07:14:34 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『「法華経の一偈一句でも聞いて一念でも随喜する者は、必ず最高の悟りを得て仏になれることを、私が保証します」と「法師品」で仏さまは約束しておられます。

 信仰は不思議なもので、ほんのわずかしか教えを知らなくても、「ありがたい、ありがたい」と言っている人は、次から次へ功徳を頂戴できます。

ところが、あれこれ理屈をこねる人は、隅から隅まで教えを諳(そら)んじているようでも、なかなか功徳がいただけません。どこに原因があるのかというと、理屈だけの人は感激がないのです。それで打ち込み方が違ってくるわけです。

 教えの一句でも、感激を持って受け止める人は、その教えを行じることに自分を燃やし尽くします。自分を燃やし尽くせる人は、周囲の人をも燃えさせることができるのです。ですから、まわり中が功徳だらけになってしまって、もう、ありがたくてたまらなくなるのです。

 素直な心で一瞬の感激ができるか、いたずらに理屈をこねまわして、行がおるすになってしまうかの違いで雲泥の差がついてしまうわけです。』

 庭野日敬著『開祖随感』より

 

PS 果報は如是因による実践。つまり自分次第です。

 

コメント

不平が自他をスポイルする

2017-03-15 05:05:40 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『「口は禍の門」といいます。うっかり口にした言葉が、災難の元になるわけです。『懺悔経』ともいわれる『仏説観普賢菩薩行法経』には、「舌根は五種の悪口の不善業を起す」と説かれ、また八正道の「正語」の教えでも、妄語(もうご=嘘)、

両舌(りょうぜつ=二枚舌)、悪口(あっく=わるぐち)、綺語(きご=いいかげんな言葉)など、

すべて自ら禍を呼び寄せる元になる、と戒めています。とりわけ修行の妨げになるのは、不平を口にすることではないでしょうか。

 不平というものは、いったん口から出すと、その言葉によって自分の不平不満が倍にも三倍にもふくれ上がっていきます。

そればかりでなく、まわりの人にも悪い影響を及ぼしてしまうのです。自分の口ひとつで、なにもかもつまらないものにしてしまうわけです。これが自ら苦をつくりだす「苦語」です

 それとまったく逆に、どんなことにも満足して、それをいつも口に出して言うことにしている、という方がおられました。毎日の奥さんの料理でも「うまい、うまい」と口に出して言うと不思議においしくなるものだといわれるのです。

同じ口から不平の言葉が出るか感謝の言葉が出るかの違いで、人間関係も環境も、まるで違ったものになってしまいます。』

 

庭野日敬著『開祖随感』より

 PS 感謝を選ぶか、不平不満を選択するのは自分、自分次第なのです。因縁果報の「如是因」です。

コメント

よき習慣をつくろう

2017-03-09 07:03:41 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『たとえば柔道の投げ技にしても、また野球のバッティングやゴルフのスイングにしても、「こうやるんだ」と教わって、すぐ、そのとおりやれるものではありませんね。毎日、繰り返し繰り返し練習して自分の身について初めて、試合でその技が出てきます。

 信仰も同じで、理屈は一度聞けば分かりますが、それを本当に自分のものにするには、毎日毎日の行が欠かせません。とかく人は、その気さえあればなんでもできるように錯覚しがちなのですが、習慣の力の大きさを忘れてはならないのです。

よい習慣も悪い習慣も、それが身につくと、人の意志も、判断力も、その人の人生までも支配してしまいます。よい習慣が身につくと、ことさら意識して努力しなくても、やすやすと事が成っていきます。逆に、悪い習慣がついてしまうと、自分の意志に反してずるずると引きずられていってしまうのです。

 毎日出会う人、出合うことに対する見方、考え方、行動が自然に教えにかなうようになっていく習慣づけがどんなに大切であるかが分かります。習い性にしてしまうその訓練の場がサンガであり、道場なのです。』

 

庭野日敬著『開祖随感』より

 

コメント

全てをプラスに受け止める

2017-03-08 06:49:22 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『私が立正佼成会の会長になったのは31歳の時でした。頭も黒々としていたのですが、50年余も説法してきますと、屋根もだいぶいたんでまいりました。しかし、これは自然現象ですから、ちっとも苦にはなりません。

 今日まで、人さまに一心にご法を説かせていただいてこれたことがなによりもありがたくて、その日その日に起こったことを日記に書いたあとに、「今日も楽しく終わった。ありがたいお手配だった」と書き加えるのです。

こうして毎日の変化を感謝で素直に受け止める生き方が、そのまま「生老病死を度(ど)し涅槃を究竟(くきょう)する」ことだといってもいいのではないか、と私は思うのです。

 年のわりに老けこんでしまう人と、とてもその年には見えない人とがいますね。その差が、年とともに開いてきて、五十歳を過ぎるとプラス・マイナス十歳以上になるといいます。それは気力の差が大きく影響しているように思えます。

どんな変化も感謝で受けようとする心から、謙虚さ、優しさ、楽しさがあふれてきます。幸せの源泉は、そのへんにあるのではないでしょうか。』

 

庭野日敬著『開祖随感』より

 

コメント

誰にでもあてはまる法則

2017-03-06 06:40:53 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『立正佼成会創立五十五周年を迎えて、法華経に遇いえたときの感激が、昨日のことのようによみがえってまいります。

 私の恩師の新井助信先生は、孔子さまの教えに心酔されていた漢学者でした。その先生が法華経を勉強されて、「これは万人を住まわせる大建築だ。それに比べると、孔子の教えはよく整えられた盆栽ともいえよう」と感嘆され、「法華経は、さまざまな教えのすべてに、そのところを得させ、すべてを生かす教えだ」とおっしゃって、講義してくださったのでした。その新井先生の講義をうかがって、私は「これだ!」と全身が震える思いがしたものでした。

 私はそれまで、六曜の法則、修験道の荒行、姓名鑑定など、人を残らず救える道を求めて遍歴してきたのですが、ついに、そのすべてを包含して、しかも百パーセント人を救うことができる教えに出遇えたのです。

まさに手の舞い足の踏むところを知らぬ感動で、もうじっとしていられなくなってしまったのです。』

 

庭野日敬著『開祖随感』より

 

コメント

いやな出来事もプラスに

2017-03-05 06:28:26 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『何か事が起こると、「さあ大変」と言うのが口癖になっている人がいますが、いつもお話しするように、私は逆に、難問がくると「これは、おもしろくなってきたぞ」と自分に言い聞かせるのです。そこの紙一重の差が大事だと思うのです。

 さあ大変と思うと、腰が引けてしまいます。反対に、「ようし」と心を決めると、すぐ行動が起こせるのです。行動を起こせば、必ずどこかに道が開けてきます。それで自信がついてくるわけです。

 創立記念日を迎えて心によみがえってくるのは、恩師の新井助信先生に「仏教は苦滅の道」であると学んで、「どんな苦も救うことができる教えを見つけたぞ」と、躍り上がらんばかりだった当時の感動です。その苦滅の道のかなめは、自分に不利なこと、つまり逆縁をも仏さまのご功徳であり、善縁なのだと受け取れるようになることにあります。

 その考え方で、私はなにごとにも対してきました。それができなくては、本当の宗教者とはいえないと思うのです。とりわけ幹部のみなさん方に、そこのところを、しっかりと心に刻みつけておいてもらいたいのです。』

 

庭野日敬著『開祖随感』より

 ◎立正佼成会は今日、79歳の誕生日を迎えました。開祖さま、脇祖さま、先輩の皆様の法華経を暮しに実行されたお陰さまでございます。創立は昭和13年3月5日、当時会員は30数名だったそうです。合掌

コメント

我見をやぶる

2017-03-02 04:54:51 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『「妻の前で、間違っても他の女性のことをほめないことにしているんです」と言う人がおられました。ご主人のお母さん、つまり奥さんにとってはお姑さんの料理をほめても、奥さんが自分へのあてつけのようにとって、ひがむというのです。

 女性のひがみとはちょっと違うかもしれませんが、人の喜びをわが喜びとし、人の苦しみ悲しみをわが苦しみ悲しみとすることは難しいことなのですね。人の苦しみに同情することはできても、人がほめられたり、抜擢されて昇進したりするのを心から喜んであげるのは至難なことなのです。口では「おめでとう」と言いながら、心の中は「あの人がほめられるくらいなら、私だって」という思いがわいてくるのです。

 人は自分では気づかずに人のアラを探す虫眼鏡を持ち歩いているといいます。自分よりかなりすぐれた人を見ても、「まあ、私と同じくらいかな」としか見えない。自分と同じ程度の人は、はるかに下のように見えてしまうわけです。

 人の喜びをどれだけ喜べるかが、自己中心をどれだけ克服できているかのバロメーターになるのではないでしょうか。』

 

庭野日敬著『開祖随感』より

 

コメント