四季の歌と暮らす

 年齢ごとに「一度っきり」の四季と、
旬(しゅん)のヨコハマを味わう「くりごとの集」です。

本来の自分に気づく

2018-09-30 06:52:07 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『定年で現役を離れ、体もあちこちいうことをきかなくなってくると、自分の人生には、もうなんの希望も残っていないといった寂しさをかこちがちになります。しかし、人はどんなに年をとっても、最後まで成長し続けるものなのです。

昔からインドでは、長子が家を継ぐと家長は家を出て林中に住み、瞑想をしたり遊行の旅に出る習慣がありました。これまでの一家を支えるつとめを終えて、自分がこの世に生を享けたことの本当の意味を見つける“本業”に打ち込むわけです。

定年も同じです。これまで若さと健康に寄りかかり、仕事に追い回されて、つい忘れがちだった「本当の自分」を見つける最後の仕上げに取り組む「出発の時」と言えましょう。

道元禅師は、「生死の中に仏あれば生死なし」とおっしゃられています。仏とは悟れる者、永遠の生命を自覚した人、ともいえましょう。

それを自覚したときに生老病死を超えた自分の真の命が発見できるのです。 すべてをあるがままに受け入れ、善意に解釈して、感謝と報恩に生きる一日一日をめざしたいものです。』

庭野日敬著『開祖随感』より

 

コメント

組織の力

2018-09-29 06:46:40 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『「異体同心なれば万事を成ず」と日蓮聖人は教えられていますが、サンガの力は、まさに異体同心の力と言えましょう。

お城の石垣は、丸い石、三角の石、四角の石、大きい石、小さい石と、さまざまな石を組み合わせることによって、地震にもびくともしないものになっているそうです。ちょっと考えると、規格どおりのそろった石を積み上げたほうが、整然として、立派な石垣ができ上がるように思えます。

いろんな組織や会社などでも、初めから粒のそろった人ばかり集めれば、より能率が上がるように思うのですが、それでは大きな力にはならないのです。性格も能力も違っている人が集まって、それぞれが所を得てうまく組み合わさり、心が一つになると、どんな事態に直面してもびくともしない組織になっていくのですね。

立正佼成会の力の源も、考え方も、個性も、立場も千差万別の人が、一つの目標をめざして力を合わせることができたところにあります。伸びる会社は上意下達だけでなく下意上達もうまく行なわれて、上司も部下も一つになって生き生きと動いています。リーダーの仕事は、さまざまな個性を集めてその心をどれだけ通い合わせられるかにあるといえましょう。』

庭野日敬著『開祖随感』より

 

コメント

実行あるのみ

2018-09-25 06:17:28 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『信者さんに心から慕われている支部長さんがおられて、その秘訣をお尋ねすると、「私は『○○さん、おはよう』『○○さん、おはよう』と、一人ひとりの信者さんの名前を呼んで、明るく声をかけるように心がけているだけなんですよ」と答えられたそうです。

この支部長さんは、初めて道場に見えられた方でも、すぐに名前を覚えて声をかけられるのです。そのことの大切さを、どなたかの本で教えていただき、そのとおりに実践されているのだということでした。

お釈迦さまは、「だれもが自分がいちばん大事。そのことを知ったならば、自分と同じように人を決して傷つけてはならない」と教えられていますが、「仏性礼拝(ぶっしょうらいはい)」を口をすっぱくして説くよりも、どなたにもひと声、声をかけてあげる実践のほうが大事です。

「商売は儲けようと考えてはだめだ。会う人会う人を大事にする。私の成功の秘訣はそれだけです」と、ある会社の社長さんが言われています。商売の要諦をズバリと言い表わした言葉といえましょう。』

庭野日敬著『開祖随感』より

 

コメント

受け止め方の根本

2018-09-23 05:31:29 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『「はい」という返事、「ありがとうございます」という言葉が、いつでも、どこでも、スッと口から出てくるようになれば、信仰者として合格だと思うのです。

どんなときも笑顔を忘れず、大きな声で明るい返事ができると、心がガラリと変わってしまうのです。その心の持ち方が船の舵のような働きをして、幸せなほうへ幸せなほうへと、人を運んでいってくれるのです。

法華経は、この世の中に次々に起こってくるものごとの、いちばんの肝心かなめはなんであるのか、どうしてそういうことが起こってくるのか、その見方の根本を教えてくれて、それにもとづく受け止め方、人とのかかわり方、そして、人間の本当の生き方を教えてくれます。

「こんなすばらしい道を教えていただいて、もう毎日が楽しくて、ありがたくてたまらない」という心になったら、それが成仏だといってもいいと思うのです。

「幸せとは『ありがとう』と言えることだった」と言われた方がおられました。感謝できる心、それが人生のいちばんの宝だといえましょう。』

庭野日敬著『開祖随感』より

コメント

釈尊のような方になれる可能性

2018-09-17 06:23:10 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『「日蓮はかねどもなみだひまなし」というご聖人のお言葉があります。その日蓮聖人の涙は、法華経に遇うことができて必ず成仏できることを保証されたわが身のありがたさに打ち震える涙なのです。

このお言葉は、佐渡に流されて再び生きて帰れるかどうか分からない日々の中で著わされた『諸法実相鈔』の中のお言葉です。その流罪の地の生活は、刑場の近くに建てられた、わずか畳二畳分の、壁はくずれ落ち、雪が降り積もって消えることがないというお堂での毎日でした。しかし、日蓮聖人はその流罪の大難さえも、法華経を身に体して読ませてもらえるお手配と受け止められているのです。

この経に「如来の全身います」とあります。本当の感激をもって法華経を読むと、仏さまが目の前で一語一語、私たちに語りかけてくださるお声が聞こえてきます。欲得にとらわれ、毀誉褒貶(きよほうへん)に振り回されて些細なことで一喜一憂していた人生観がガラリと変わってしまいます。人間として生を享けることができた喜びに、じっとしていられなくなってくるのです。この大歓喜を生じてこそ人は作仏(さぶつ)できるのです。』

庭野日敬著『開祖随感』より

 

コメント

苦しみが自分を救う

2018-09-16 04:56:09 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『自分の思いどおりにならないからといって、その人をじゃまもの扱いするようでは、まだ本物の信仰者とはいえません。「この人は嫌なんだ」という見方を、一度離れてしまわなければならないのです。

「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふというは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり」という道元禅師のお言葉があります。

自分のものさしをつくって、この人は好きだけども、あの人は嫌いだ、健康はいいが病気は嫌だ、好景気はいいが不景気はごめんだ、と決めつける見方を捨てて、すべてを仏さまのおはからいと受け止める。

難題は自分のゆがみや足りなさを教えてくれる大切な宿題だと考える。そうなってこそ本物です。

難題から逃げずに真正面からそれと向き合うのは、苦しみが伴います。しかし、そこを乗り越えると、不思議に思いどおりにならなかった相手や問題が、いつのまにか変わってしまっているのです。平穏無事に毎日が過ぎるに越したことはないように思えますが、そういうときには、真剣に自分を見つめ、人生の意味について考えることがなかなかできないのです。』

庭野日敬著『開祖随感』より

 

コメント

二の矢は受けず

2018-09-08 09:01:48 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『人の苦しみの大部分は、この先どうなるか分からない、という不安感がつくりだすものといっていいでしょう。

たとえば子どもが四〇度もの熱を出してひきつけたりすると、「もしものことがあったらどうしよう」と動転して悪いほう悪いほうへと考えてしまいます。「いや、心配ありませんよ」とお医者さんが診断してくれると、とたんに苦しみは半減します。

個人のことだけではありません。いま社会全体が大きな変動期に直面して、さまざまな不安が次々と起こり、お先真っ暗の思いでいる人が、たくさんいます。

お釈迦さまは、「教えを聞いた者と聞かない者との違いはどこにあるのですか」と問われて、「苦受の第一の矢を受けた上に、嘆き悲しみ混乱して第二の矢を受けてしまうか、一の矢は受けても第二の矢を受けることがないかの違いである」と教えられています。

第二の矢は、自分の不安がつくりだすのです。どんな事態に対しても、その苦をまっすぐに見すえて心を大きく揺るがせることがなければ、かりに第一の矢を受けても、傷はごく浅くて済みます。受けた矢を逆に飛躍の契機にしていくことができるようになるのです。』

                                               庭野日敬著『開祖随感』より

 

コメント

口に出して実行

2018-09-06 09:46:40 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『一念発起して事を始めても、じきにくじけてしまう弱さを、だれもが持っています。「こんなことを続けていても、どうにもなるものじゃない……」と、怠け心に勝手な理屈をつけて、自分に負けてしまうのです。

ですから、いったん思い立って目標を定めてスタートしたら、後戻りできないように歯止めをつくっておくのが、事をやり遂げる秘訣です。

自分の心の中で「こうしたい」と思っただけでは、それはただの願いです。ちょっと困難にぶつかっただけで、じきにくじけてしまいます。ですから、人さまの前で言葉に出して「私はこれを必ずやり遂げます」と約束する。口に出して仏さまにお約束する。それが誓願です。

法座で自分の決定を話させてもらうのも、ご命日に説法をさせてもらって精進をお誓いするのも、誓願なのですね。その誓願を仲間のみなさんが見守ってくださる。お手本を見せてくださって怠け心に引きずられそうになっても、気を取り直して立ち直る力を貸してくださる。それがサンガ(同信の仲間)のありがたさなのです。』

庭野日敬著『開祖随感』より

 

コメント