四季の歌と暮らす

 年齢ごとに「一度っきり」の四季と、
旬(しゅん)のヨコハマを味わう「くりごとの集」です。

仏像で心を癒しませんか

2020-10-29 08:17:44 | 生かされて今日

 神奈川県立歴史博物館は旧横浜正金銀行本店の重厚な建物で、JR関内駅の馬車道にどっかと腰を据えております。今コロナ感染の不安のさなか、混濁する世相にタイムリーな特別展を開催しております。

「相模川流域のみほとけ」展です。11月29日まで開催。

さして期待はしていなかったのですがとても感動し、心を洗われました。

先ず入口におわします千手観音像に目を奪われました。海老名市にある龍峰寺の鎌倉時代の重要文化財です。3メートルほどの精緻な尊像です。42本のおん手、頭の上に組んである細腕は小さな仏を差し上げておられます。

思わず合掌させられる迫力がありました。ぐるり前後左右を仰ぎ見ました。昔の仏師の技は信仰に裏付けされて呆然とさせる威光が刻まれていました。

 夢窓疎石など高僧のお像に腰をかがめ仰ぎ見ると、ぴたりと視線が合いたじろぐ迫力です。「何をふらふら迷っているんだー」と喝を入れられました。

「玉眼に覗きこまるるそぞろ寒」駿

近在にお住まいの方々は是非訪問され癒されて下さい。今こそ釈尊のお出ましの時と思いました。

 ついでに初めて新築のピカピカ横浜市役所をのぞきました。カジノ好きな林市長のハコもの行政の威容に暗澹としました。「港の見える丘」が「カジノの見える丘」にしようとはこころざしの低いこと。その上に桜木町駅の広場にロープウエーを建設中です。市議会は市長の暴走を止められないのですか。市議会の自民公明の見識を疑います。議会が行政権力に無力なのはいづこも同じ秋の夕暮れですね。

 

 

 

 

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自分に都合よくではいけない

2020-10-27 07:26:38 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『嫁姑の問題は、一筋縄ではいきません。その嫁姑のあり方の機微について巧みに話される先生が、「講演が終わったあとで、お姑さんは、この話をぜひ嫁に聞かせたかったと言ってこられ、お嫁さんは、うちの姑さんにぜひ聞いてもらわなくちゃ、と言ってくるんですよ」と話されていました。

同じ話を、どちらも耳の痛いところは飛ばして、都合のいいように解釈して聞いているわけです。そして、「なるほど」と自分の心に残ったところだけを覚えているのです。

 経典に「法を聞くことあらん者」とある、その「聞く」という言葉は、自分の才覚を一切抜きにして仏さまのお言葉どおりお受けすることで、都合のいいところだけつまみ食いするような聞き方では、聞いたことにならないのですね。その言葉の意味を本当に理解し、心に刻みつけ、実行するのが「聞く」ことです。自分がうれしくなるような結果をいただくと大喜びするけれども、意に反する結果だと、「こんなに精進しているのに」と不平が出るようでは、本当に聞いているとはいえません。

 どんな結果にも仏さまの説法を聞き取り、素直にそれをお手配と受け取れてこそ、「法を聞く者」となるのです。』

               庭野日敬著『開祖随感』より

 

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人を動かす智恵

2020-10-26 05:33:22 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『ある会社の社長さんが、こんな愚痴をこぼされていました。「朝礼で、遅刻をしない、むだを省く、自分が社長のつもりになってほしい、と口をすっぱくして言っているのですが、まるで反応がなくて、もうお手上げです」と言われるのです。

 どうして社員の反応がないのか。だいたい社長さんの朝礼の訓示というのを聞いていると、会社の都合だけを押しつける訓辞になっていることが多いのですね。上からの押しつけを感じると、人は内からの意欲がわいてこないのです。

 清水の次郎長親分のことは、みなさんもよくご存じだと思います。あまたの荒くれ男に慕われて、街道一の親分と名をとどろかせたその大親分に、ある人が、「大勢の子分の中で、親分のために命を投げだしてもいいという子分が何人いると思いますか」と尋ねると、次郎長親分は、「まあ一人もいないでしょうが、私はどんな野郎のためにも命を投げだすつもりです」と答えたという話が残っています。

ちょっと乱暴のような話ですが、そんな上司を持ったら、部下はその意気に感じずにいられないのではないでしょうか。ぜったいの信頼を寄せれば、人は必ず応えてくれるものです。』

                   庭野日敬著『開祖随感』より

 

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欠点や失敗をさらせば

2020-10-06 08:01:33 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『人に嫌われたかったら、自分の自慢話ばかりしていればいい。だが、人に好かれたいのならば自分の失敗談をすることだ、といいます。

 私たちはふつう、人によく見られたいと、自分のいいところばかりを人に見せたがり、欠点は隠したがります。

『法華経』の「方便品(ほうべんぽん)」に「瑕疵(かし)を護り惜む」という言葉がありますが、自分の欠点を知りながらそれを後生大事にして、思いきって切り捨てることができないのです。

自分の短所を切り捨てるのには痛みが伴います。その痛さを恐れて傷をかばっているわけです。

その自分の欠点や失敗を思いきってさらけだせるようになると、それが飛躍のバネに変わるのですね。その訓練の場が法座だといってもいいでしょう。

 法座でみんなが謙虚に自分を包み隠さずに話している姿を見、その話を聞いて心から感動すると、自分もありのままをさらけださずにいられなくなってきます。すると人に言われなくても心の底から自分を反省できるようになるのです。それで新しい一歩が踏みだせるのですね。かっこよく見られたいと思っているうちは、本当にかっこいい生き方はできません。』

                      庭野日敬著『開祖随感』より

 

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