四季の歌と暮らす

 年齢ごとに「一度っきり」の四季と、
旬(しゅん)のヨコハマを味わう「くりごとの集」です。

嫁と姑

2017-10-26 17:52:59 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『嫁姑の問題は、一筋縄ではいきません。その嫁姑のあり方の機微について巧みに話される先生が、「講演が終わったあとで、お姑さんは、この話をぜひ嫁に聞かせたかったと言ってこられ、お嫁さんは、うちの姑さんにぜひ聞いてもらわなくちゃ、と言ってくるんですよ」と話されていました。

同じ話を、どちらも耳の痛いところは飛ばして、都合のいいように解釈して聞いているわけです。そして、「なるほど」と自分の心に残ったところだけを覚えているのです。

 経典に「法を聞くことあらん者」とある、その「聞く」という言葉は、自分の才覚を一切抜きにして仏さまのお言葉どおりお受けすることで、都合のいいところだけつまみ食いするような聞き方では、聞いたことにならないのですね。その言葉の意味を本当に理解し、心に刻みつけ、実行するのが「聞く」ことです。自分がうれしくなるような結果をいただくと大喜びするけれども、意に反する結果だと、「こんなに精進しているのに」と不平が出るようでは、本当に聞いているとはいえません。

 どんな結果にも仏さまの説法を聞き取り、素直にそれをお手配と受け取れてこそ、「法を聞く者」となるのです。

 

庭野日敬著『開祖随感』より

 

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人生は苦の連続

2017-10-18 06:59:16 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『テレビドラマなどを見ていると、次々に事件が起こり、主人公がそれに取り組んで問題を解決していきます。そこがドラマのおもしろさですが、それは人生の縮図ともいえます。

 私たちの人生は、解決を迫られる問題の連続です。家庭でも、夫婦で意見が衝突したり、家族が病気になったり、子どもが反抗したりと、心配ごとの絶え間がありません。けれども、それがじつは家庭のゆがみに気づかせ、その立て直しを願う家族の訴えの軋みなのですね。そこで、ただ困った困ったと頭を抱えて、その場をとりつくろおうとするよりも、その“症状”の底にあるものに気づくことが大事です。

 信仰というと、無病息災、家内安全、商売繁盛を願うことのように思われがちですが、そうではありません。

次から次へと問題が起こってくる人生だからこそ、それに立ち向かい、それを乗り越える力をつけてしまう。その力を与えてくれるのが信仰なのです。

 こっちがその力を具えてしまえば、どんな問題が起ころうと、平然と対処していけます。それが本当の平穏無事です。自分が自分の人生の主人公になるのです。』

 

庭野日敬著『開祖随感』より

 

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戦争をさせない立憲民主党を

2017-10-17 14:54:39 | 生かされて今日

  北朝鮮との「対話は無駄、圧力を」と国連で演説した安倍総理は、まるでトランプに北鮮への戦争をけしかけているみたいです。これは1941年今から76年前、日本帝国が米国ハル・ノートで石油禁輸を宣告された状態と似ています。

追い詰められた日本帝国は、もはや戦争しかないと無謀極まりない戦争に国民を放り出しました。約320万人の日本人が殺されました。冷静な戦力比較が出来ず、神風頼みでムードに酔い勝てる見込みもない残酷な殺し合いをしました。

北鮮も昔の日本のように暴発するとミサイルが私達の町に、原子力発電所に降ってくる危険があります。

日本国憲法はこの武力過信の過ちを二度と繰り返さぬことを政治権力、政府に求めております。

お金と暮らし、経済とか年金、社会福祉だとか、教育問題とかの以前の、生活の基礎の基礎が憲法問題です。

政府を選ぶ、党を選ぶ、人物を選ぶ選挙では、真っ先に「戦争をしない、させない」をまず国民が問うべきです。戦争になれば地獄ですから賃金も自由もへったくれもありません。

 私は釈尊の教える「不殺生」戎を守る仏教徒ですから、平和憲法の理念を掲げる枝野幸男さんの『立憲民主党』を支持、投票します。

立憲民主党へのご支援をお願い申し上げます。

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習慣となるまで

2017-10-14 08:19:32 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『信仰者は、まず毎日ご宝前での朝夕のお勤めができるようになる。そして、ご命日に教会に参拝し、法座にすわらせてもらう。そこで仏さまの教えに自分を合わせていこうと努力するようになると、生活のすべてが「行」になっていきます。行とは、行動のことです。毎日の生活の中での自分の行動を、一つずつ仏さまの教えに照らし合わせて整えていけるようになるのが、在家仏教徒の行といえましょう。

 知識を学んだだけで仏教が分かったつもりになるのは、たとえば、ゴルフ上達法の本を読んだだけでゴルフができるつもりになったり、教則本を読んだだけで、楽器の演奏ができるつもりになったりするようなものです。まさか、そんなことを考える人はいないと思いますが、仏教の修行も同じです。

 宗教は知識を学ぶものではなく、生き方を身につけるためのものです。教えを学んだら、そのとおりに実行してわが身に体していく。繰り返し実行して、教えをしっかり身につけていく。その修行を見守る人が近くにいてくれると、それが容易にできていくのです。サンガの仲間がいることで修行が本物になっていくのですね。』

 庭野日敬著『開祖随感』より

 

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反対を受け入れる器

2017-10-07 08:09:40 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『組織を預かる長にとって、いつも満場一致で事が運ぶほどうれしいことはありませんが、それに慣れると、違った意見に耳を貸すことができなくなってしまいます。

「あえて事を構えることはない」という空気が大勢を占めてその場の流れで事が決まり、あとで「なんであんな決定をしたのか」と悔やんでも取り返しがつかない、といったことが起こりかねないのです。

 名君の誉れ高い土佐藩主山内容堂は、初め忍堂と号していたのを「忍ぶでは藩主として器が小さすぎる」という進言を入れて容堂と改めたことは前にもお話ししましたが、耳に痛い言葉であってもそれを受け入れる器量を具えないと、どんな会議も、だんだん発言が少なくなってしまいます。

 私は世界宗教者平和会議などの会議でも、みなさんの発言を真剣に聞かせてもらいます。すると、問題のかなめのところが「これだな」とつかめてきます。そこで、自分の考えを話させてもらうのです。そうして得られた結論だと、反対の人の意見も頭に残っていますから、事を進めるときに、そのことにも注意を払う。器がもうひとつ広がると反対意見にも耳を傾けて注意深く事を進める大きさが具わってくるのですね。』

 庭野日敬著『開祖随感』より

 

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こころ柔らかな熟年に

2017-10-03 08:06:11 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『松下幸之助さんは、どんな人の話でも心から「ほう、そうですか」とうなずいて耳を傾ける方でしたが、年を重ねた豊かな経験の上に、心の伸びやかさ、柔らかさを具えた人を見ると、惚れぼれとさせられます。

 お釈迦さまが托鉢の途中、ある農耕バラモンの家の前に立つと、主のバラモンが「私は田を耕し、種をまいて食を得ている。あなたも田を耕し種をまいて、食を得たらどうか」と言います。すると、お釈迦さまは「私も耕し、種をまいて食を得ている」と答えられます。バラモンは、「だが、わしらはあなたが田を耕し、種をまいているのを見たことがない」と、さらに言いつのりますが、それに対してお釈迦さまは、「私は人の心を耕し、信という種をまいている」と答えられるのです。

 私たちにとっていちばん大事なのは、いつも心を耕し続けていることなのですね。すると、いつも柔らかな心で、まわりを受け入れることができます。人の話に素直に耳を傾けられるようになります。それで自然に人が集まってきてくれるのです。

 聞き上手こそ人間関係づくりの決め手といいますが、とりわけ熟年を迎えた人にとって、心の柔らかさは宝物です。』

 

庭野日敬著『開祖随感』より

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神仏のみ心のままに

2017-10-02 07:14:19 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『いつも申し上げるように、信仰する人のいちばんの幸せは、仏さまがすべてご照覧だと信じていられることにあります。けれどもときどき、「こんなに一生懸命がんばったのに」「あんなに真剣に祈願したのに」「仏さまは私をお見捨てになったんではないか」と、絶望に打ちひしがれることもあると思うのです。しかし、仏さまはどんなときも、この患難の多い世でのあなたを、しっかりとお見守りくださっておられるのです。

 私たちは神仏にお祈りするとき、自分の欲しいもの、自分の願いがかなうようにとお願いしますが、仏さまは、私たちの欲しいものでなく、必要なものをお与えくださるのです。

 自分の力ではどうにもならなくなったとき、人はだれしも病気を治してください、子どもが受験に合格しますようにと神仏にお願いするのですが、そのあとに必ず、「でも、み心のままに」とつけ加えることを忘れないようにしている、という人がおられました。

 仏さまのおはからいにおまかせしてしまうと、どんな結果であっても、ある時を経て「これがご守護だったのだ」と思い知るときが、必ずくるのです。悲しみや絶望を通してこそ得られる宝物もあるのですね。』

 

庭野日敬著『開祖随感』より

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