『嫁姑の問題は、一筋縄ではいきません。その嫁姑のあり方の機微について巧みに話される先生が、「講演が終わったあとで、お姑さんは、この話をぜひ嫁に聞かせたかったと言ってこられ、お嫁さんは、うちの姑さんにぜひ聞いてもらわなくちゃ、と言ってくるんですよ」と話されていました。
同じ話を、どちらも耳の痛いところは飛ばして、都合のいいように解釈して聞いているわけです。そして、「なるほど」と自分の心に残ったところだけを覚えているのです。
経典に「法を聞くことあらん者」とある、その「聞く」という言葉は、自分の才覚を一切抜きにして仏さまのお言葉どおりお受けすることで、都合のいいところだけつまみ食いするような聞き方では、聞いたことにならないのですね。その言葉の意味を本当に理解し、心に刻みつけ、実行するのが「聞く」ことです。自分がうれしくなるような結果をいただくと大喜びするけれども、意に反する結果だと、「こんなに精進しているのに」と不平が出るようでは、本当に聞いているとはいえません。
どんな結果にも仏さまの説法を聞き取り、素直にそれをお手配と受け取れてこそ、「法を聞く者」となるのです。』
庭野日敬著『開祖随感』より