四季の歌と暮らす

 年齢ごとに「一度っきり」の四季と、
旬(しゅん)のヨコハマを味わう「くりごとの集」です。

豊かな暮らしとは

2019-12-26 08:25:20 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

『物は、ただ豊富であればよいというものではありません。

どんなに山海の珍味が並んでいても、それをただガツガツと食べるだけでは、貧しい食事になってしまいます。たとえ一汁一菜(いちじゅういっさい)の料理でも、作った人の苦労を思い、自然の恵みに感謝して食べることができれば、それはこの上ない豊かな食事になります。

 飛行機が大空を飛んでいるのを見て、私たちはジェットエンジンの推進力とパイロットの操縦で飛んでいるぐらいにしか考えませんが、よく見ると、それはたくさんの働きによって支えられていることが分かります。地上からの無線誘導をはじめ、さかのぼれば、飛行機を造った人、燃料を掘り出した人、それを精製した人、エンジンの素材に欠かせないチタン鉱を掘り出した人、そして、それらの原料を人間に提供してくれる大地の恵み……。そのどれを欠いても飛行機一機、飛ぶことができないのです。

 世界中の、いや地球上のあらゆる働きを集めて飛行機は大空を飛んでいるわけです。目に見えないたくさんの恩恵への感謝を忘れることのない生き方であってこそ、文明の名に値する真に豊かな生活といえましょう。〛

庭野日敬著『開祖随感』より

 

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命をイタダキます

2019-12-15 07:56:02 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

『衣食足りて礼節を知る」という言葉がありますが、現在の日本の状態は、ぜいたくに慣れきって、足りれば足りるほど逆に礼節を忘れ、道義心がすたれる一方のように思うのです。

かつては、どこの家庭でも「米粒一つでも粗末にするとバチが当たる」と教えたものです。それは、ただ倹約のためだけではなく、仏教でいう不殺生(ふせっしょう)の考え方、あらゆるものの命を大切にすることを教えていたのです。

食事をするときに「いただきます」と合掌するのは、お米を作ってくれた農家の方や、魚を獲(と)ってくれた漁業の方たちへの感謝にとどまらず、「米よ、野菜よ、魚よ、私の命をつなぐために

あなた方の命を頂戴(ちょうだい)させていただきます。ありがとうございます。

どうか成仏してください」という感謝と供養の心を込めた礼拝なのです。

私たちがいただくお米の一粒は、もみ種として田にまかれれば何百粒もの実をみのらせます。その命を私たちはいただいているのです。

この「もったいない」という気持ちこそ、日本の心だったと思うのです。現代には現代の生き方があるでしょうが、「もったいない」という感謝の心は忘れてはなりません。〛

庭野日敬著『開祖随感』より

 

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ガツガツが苦を招く

2019-12-11 06:19:04 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

『疲労回復に効果があるとブームになっていたある薬が、じつはまるで効能がないことが分かり、問題になっています。

世の中にはたくさんの薬が出回っていますが、名医はむやみに薬を使わないそうです。長いあいだ人間の体を診てくると、人間本来の自然治癒力がどれほど大きいものか分かるのでしょう。その力を信じ、ここぞというときしか投薬しない。

ところが最近の患者さんは、薬をたくさん処方しないと「この先生は大丈夫なんだろうか」と不安がる人が多いのだそうです。それほど薬漬けになっているわけです。

仏道修行の場合も同様のことがいえるかもしれません。

人の不幸の原因は貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)の三毒にあります。さらに突き詰めると「諸苦の所因(しょいん)は 貪欲(とんよく)これ本なり」で、貪欲が苦の根源であることが分かります。

自分さえよければ、という自己中心、あり余る物に囲まれながら、もっともっとと欲をつのらせるその心を、人さまの幸せを願い、人さまに施す心に変えることで、その苦が喜びに変わるのです。他からの救いの手ばかりを求めるのでなく、自分の心の切り換えで奇跡とも見える治癒力が生み出せるのです。

庭野日敬著『開祖随感』より

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働く姿勢を変えれば楽だ

2019-12-02 07:47:15 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

〚最近は、ちょっと仕事がつらいというだけで、すぐに勤め先をやめて楽な仕事に移るといった傾向が、とりわけ若い人たちにあるようです。

私が奉公をしていた当時と現在を比較するのは無理があるかもしれませんが、私は仕事がつらいと思ったことは一度もありませんでした。主人に使われているというよりも、自分が店を切り回している気持ちで、主人に「こうすれば、もっと商売がうまくいくんじゃないでしょうか」というように進言し、率先して働きました。主人が「今日は、もうこれぐらいにしておこう」と言っても、「いや、もうちょっとですから片づけておきます」と言って仕上げてしまうのです。お客さんが私を店の主人と勘違いするほどでした。

そうした体験から、私は「なりきってしまうこと」が大切だと思うのです。

主人や上司から言われて働くという考えだと、どうしても腰が引けてしまいます。なりきってしまうと、グッと腰が入ります。腰が入ると仕事が楽しくなるのです。上司に言われなければ動かないというのではなく、上司の先をいく。それが「随処(ずいしょ)に主となる」ことなのです。〛

庭野日敬著『開祖随感』より

 

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