四季の歌と暮らす

 年齢ごとに「一度っきり」の四季と、
旬(しゅん)のヨコハマを味わう「くりごとの集」です。

ひと様を大事にする

2016-09-23 06:10:59 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 信者さんに心から慕われている支部長さんがおられて、その秘訣をお尋ねすると、「私は『○○さん、おはよう』『○○さん、おはよう』と、一人ひとりの信者さんの名前を呼んで、明るく声をかけるように心がけているだけなんですよ」と答えられたそうです。

この支部長さんは、初めて道場に見えられた方でも、すぐに名前を覚えて声をかけられるのです。そのことの大切さを、どなたかの本で教えていただき、そのとおりに実践されているのだということでした。

お釈迦さまは、「だれもが自分がいちばん大事。そのことを知ったならば、自分と同じように人を決して傷つけてはならない」と教えられていますが、「仏性礼拝(ぶっしょうらいはい)」を口をすっぱくして説くよりも、どなたにもひと声、声をかけてあげる実践のほうが大事です。

「商売は儲けようと考えてはだめだ。会う人会う人を大事にする。私の成功の秘訣はそれだけです」と、ある会社の社長さんが言われています。商売の要諦をズバリと言い表わした言葉といえましょう。

 

庭野日敬著『開祖随感』より

コメント

正直に生きる

2016-09-17 05:10:45 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

  「月と日のかしこみなくばよりよりの人見の関は越えられべけれ」という歌があります。どんなに人が目を光らせていようと、人見の関はどこかくぐって越えられるけれども、昼夜交代で見ておられるお日さまとお月さまの目はくぐり抜けられない、という意味でしょう。

神仏がすべてご照覧だと本当に分かったら、だれが見ていようがいまいが、百パーセント正直一本やりでいくしかありません。人の信念というのは、「自分にはぜったいにごまかしがない」という、その自信から生まれてくるものだといえましょう。

拝む心こそ、拝まれるに値する心だといいます。人を拝む謙虚さ、神仏に合掌してその願いをわが願いとさせていただきたいと祈る姿ほど、美しい姿はありません。『懺悔経』と呼ばれる『仏説観普賢菩薩行法経』に、「深く因果を信じ、一実の道を信じ、仏は滅したまわずと知るべし」という言葉があります。

因果の道理を深く信じ、現象の奥にある実相を信じて、仏さまはいつも自分と一緒におられて、滅しられることはないのだと知ると、神仏の前に自分をさらけださずにいられなくなります。それでこそ、だれからも信頼される信仰者となるのです。

 

庭野日敬著『開祖随感』より

コメント

人生は運・鈍・根だ

2016-09-13 06:14:14 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『頭の回転が速く、どんな仕事もてきぱきと処理していく人を見ると、「あの人に比べて、自分はなんでこんなに鈍いんだろう」と、うらやましくなってしまいます。しかし、才に走りすぎると、つい人を見下したり、先が見えすぎて一つのことに打ち込むことができなくなったりしがちです。

「人生、成功のコツは、運・鈍・根」といいます。一つのことをねばり強く、うまずたゆまず続ける根気を保つのには、鈍さも大事なのですね。その努力の積み重ねが、運を呼び寄せるのです。

孔子のもとには大勢のすぐれた門人が集っていましたが、師のあとを継いだのは曽子という人でした。その自分のあとを継いだ弟子の曽子について孔子は、「参や魯なり」と言っています。参とは曽子のことで、彼の魯鈍なところがいい、それが曽子のすぐれているところだ、というのです。

賢も鈍も、一つの能力なのですね。ないものねだりをするのでなく、自分に与えられた資質をどう生かしていくか、そこが大事だと思うのです。』

 

庭野日敬著『開祖随感』より

コメント

白河の関を訪ねて

2016-09-10 18:14:47 | 生かされて今日

 福島県にある白河の関は大昔、北方のえぞの南下を防ぐ大和朝廷の軍事拠点でした。12世紀頃その用が廃されてからは複数の関跡が言い伝えられ確定的にはこの関がどこに存在したのかが不明となりました。江戸時代の松平定信が白河領主の時に関の跡がここだと特定されたそうです。昭和30年代に政府機関による科学的発掘調査が行われ松平定信の断定が間違いなかったとされています。小山の鬱蒼とした古木の中に防衛のための空堀が発掘されています。

日本文学有数の歌枕とされており多くの武人、文人が訪れています。平 兼盛、能因法師、西行、頼朝、義経、芭蕉らです。

駐車場に降り立つとなんと桜餅の香りがする空気でした。桜葉の匂いで感動しました。

『おくのほそ道』の芭蕉翁の名文をどうぞ。

「心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて、旅心定りぬ。いかで都へと便求しも断也。

中にも此関は三関の一にして、風騒の人、心をとゞむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。

卯の花の白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し、衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ。  卯の花をかざしに関の晴着かな 曽良」

コメント

不動心とは

2016-09-03 05:43:18 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『国でも会社でも、とんとん拍子に伸びているときに、すでに衰えのきざしが忍び込んでいることが多いものです。

原因は驕りです。私の恩師の新井助信先生は、「お金があるときにパッパッと使う人間は、金がなくなると、もう生きていられないほど悲観してしまう。貧しさにじっと耐える人は、お金が入っても驕ることがない。どんなときにも驕らないのが忍辱行です」と教えてくださいました。

耐え忍ぶだけでなく、驕る気持ちを引き締めるのも大切な忍辱行なのです。人に頭をたたかれてもじっとがまんするくらいのことは、ちょっと修行した人なら、わけなくできます。ところが、お上手を言われるとつい得意になってしまう。それを抑えるほうが難しいのです。あくまでも謙虚さを忘れない忍辱行の大切さを、先生は教えてくださったのでした。

驕慢(きょうまん)に陥ると、人の心が見えなくなってしまうのですね。そして真実を見る目が覆われてしまうのです。

それがやがて会社や国の破綻を招くもとになってしまいます。「下がる」修行こそ忍辱行です。これが身につくと、得意のときも溺れず、失意のときもくじけることのない不動心が得られます。』

 

庭野日敬著『開祖随感』より

コメント