『だいぶ教えが身についたつもりでいても、現実にさまざまな問題にぶつかると、元の木阿弥で凡夫に逆戻りして、泣いたり、わめいたりしてしまうのが私たちです。
仏教の教えの根本は縁起、つまり縁によってすべてが起こるという教えです。縁とは出会いのことで、その出会いを、よいほうに転じられるかどうかが、私たちの修行だといってもいいでしょう。そのためのお手本が、どんな嫌なことにぶつかり、嫌な人に会っても、それを自分を本物にしてくれるお師匠さんと受け取る「提婆達多品(だいばだったほん)」の教えであり、そして、いまかりにどんな姿をしていようと、この人も必ず仏になる人だと、すべての人を拝む常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)の礼拝行です。
日蓮聖人は、「仏種(ぶっしゅ)」という言葉をよくお使いになられました。私たちはみんな、仏になる種を与えられているのですが、それに水を与え、陽に当ててやらなくては、芽を出し、成長し、花を咲かせることはできません。この二つのお手本を、事にぶつかるたびに思いだして、それを善い縁と受け止め、また、自分も人さまの善い縁になっていこうと心がけることで、だんだん信仰者として本物になっていくのです。』
庭野日敬著『開祖随感』より