四季の歌と暮らす

 年齢ごとに「一度っきり」の四季と、
旬(しゅん)のヨコハマを味わう「くりごとの集」です。

不都合なご縁も活かす

2018-07-31 06:49:03 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『だいぶ教えが身についたつもりでいても、現実にさまざまな問題にぶつかると、元の木阿弥で凡夫に逆戻りして、泣いたり、わめいたりしてしまうのが私たちです。

仏教の教えの根本は縁起、つまり縁によってすべてが起こるという教えです。縁とは出会いのことで、その出会いを、よいほうに転じられるかどうかが、私たちの修行だといってもいいでしょう。そのためのお手本が、どんな嫌なことにぶつかり、嫌な人に会っても、それを自分を本物にしてくれるお師匠さんと受け取る「提婆達多品(だいばだったほん)」の教えであり、そして、いまかりにどんな姿をしていようと、この人も必ず仏になる人だと、すべての人を拝む常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)の礼拝行です。

日蓮聖人は、「仏種(ぶっしゅ)」という言葉をよくお使いになられました。私たちはみんな、仏になる種を与えられているのですが、それに水を与え、陽に当ててやらなくては、芽を出し、成長し、花を咲かせることはできません。この二つのお手本を、事にぶつかるたびに思いだして、それを善い縁と受け止め、また、自分も人さまの善い縁になっていこうと心がけることで、だんだん信仰者として本物になっていくのです。』

庭野日敬著『開祖随感』より

 
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まず自分を変える

2018-07-30 07:20:41 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『親に対する子どもたちの注文の第一が、「夫婦げんかをしないでほしい」、そして「離婚の話は絶対にしないで」だったという調査結果があります。よく、夫婦で言い争って、「ねえ、お母さんが怒るの分かるでしょ。本当にお父さんは自分勝手なんだから」などと、子どもを自分の味方に引き込もうとする人がいますが、子どもは両親のどっちがいいか悪いかなど、どちらでもかまわないのです。

この世には、初めから善い人、悪い人がいるわけではありません。善い縁に触れれば善い人になり、悪い縁に触れれば悪い人になってしまいます。相手次第で人がどんなに変わるものか、それをいちばんよく見せてくれるのが、長年連れ添う夫婦ではないでしょうか。子どもたちは、両親のどちらの言い分も、また、どちらのわがままもちゃんと見ているのです。

法華経の修行を突き詰めていくと、「まず自分を変えて相手に変わってもらう修行」だといってもいいと思うのです。人が本当に変わるのは、本人が変わろうと本気になったときです。その本気を引きだすのが、まずこっちが変わって相手の善き縁になることなのです。』

庭野日敬師の言葉

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慣れが大敵だ

2018-07-27 05:57:59 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『「私に触れるほど近くにいても、欲望や怒りに振り回され、放逸にふける人は、私から遠く離れている人である」

と、お釈迦さまはおっしゃられています。そして、

「たとえ私から百里も離れた所にいたとしても、欲望や怒りを離れ、放逸に陥らない人は、私のいちばん近くにいる」

と教えられるのです。

いつもお師匠さんの近くにいると、いつでも教えを聞けるようなつもりで、つい慣れっこになってしまい、その言葉の一つ一つの大切さに気づけなくなることがあるのですね。反対に、お師匠さんから遠く離れていて、滅多に教えを聞くことができないからこそ、その教えのひと言ひと言に真剣に耳を傾け、その教えを命がけで守ろう、と精進を怠らない人もいます。

「仏の山に鬼が住む」という言葉がありますが、慣れが、つい油断を生んでしまうのです。これが大敵です。

ご法の真理は、自分をなげうって教えを行じてこそ、そのはたらきが見えてきます。どこにいようと、その法を見る人こそが仏さまのいちばん近くにいる人であり、仏さまのご守護に包まれる人なのです。』

庭野日敬著『開祖随感』より

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老婆心は慈悲心

2018-07-23 05:57:35 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『道元禅師の高弟に懐奘(えじょう)と義介(ぎかい)という、いずれ劣らぬ逸材がおられました。ところが師匠の道元禅師は、義介には悟りの境地を証する印可を与えられませんでした。そして、臨終の床で義介に、「おまえは老婆心が足りない」と戒められたと伝えられています。

老婆心とは、おばあちゃんが孫を気遣うような、うるさがられるほどの親切心のことです。それほどの思いがないと人は育てられない、と教えられたわけです。

一つのことを相手に伝えるだけでも、十回は繰り返さなくてはならない、十のことを伝えたければ百の熱意が必要だ、といいます。

みなさんも、ご法の話を一度聞いただけで「はい、そうですか」と入会した人は、そう多くはないのではないでしょうか。うるさいほどすすめられて、仕方なしに入会したという人が、ほとんどだと思うのです。そして、あとになって初めて、それがどんなにありがたいことだったか、思い知るわけです。老婆心は慈悲心です。』

庭野日敬著『開祖随感』より

 

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子供に教えてもらう

2018-07-20 06:02:23 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『子どものことで困り果てて、もう、どうしていいか分からなくなってしまうというときが、親御さんなら、どなたにもあるのではないでしょうか。そういうときには、子どもをどうしよう、こうしようということはひとまずおいて、自分が子どものときのことを思いだしてみてほしいのです。

これまで自分が親にどう対してきたか。自分がどんなに親に手を焼かせ、心配をかけたか。自分のために親がどれほどの苦労に耐えてくれてきたか……。

それをすっかり忘れてしまって自分一人で一人前になったつもりでいるわけです。その自分を見つめることのほうが先だと思うのです。わが子のことで苦しみぬいて、初めて本当に親の恩が分かってくるのです。

心の底から両親への感謝がわき上がってくると、心が素直になって、それで子どもの本当の心が見えてくるのですね。自分の子どものころのことも思い合わせて、子どもの気持ちが分かってきて、親と子の心が通い合うのです。

毎日のご供養は、親の願いにこたえる誓いであり、ご先祖さまの願いをかみしめる行でもあります。その行がきちんとできるようになると、向こうから自然にお手配がついてきます。』

庭野日敬著『開祖随感』より

 

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本仏釈尊に惚れこもう

2018-07-19 05:04:43 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『お題目は、目に見えない仏さまと私たちの心を結ばせていただきたいという願いの言葉、と考えたらどうでしょう。それには、まず、法華経に惚れ込み、仏さまに惚れ込んでしまわなくてはなりません。

心の底から惚れ込んだ相手だったら、なにを言われてもうれしくて、「はい」と素直に聞けますね。いつも、その人のそばにいたい。その人の言うことなら、「だって」だとか「そんなこと言ったって」などと口ごたえすることはありません。なんでも言われるとおりにしていて、それで幸福なのです。

それと同じように、仏さまに心から惚れ込んでしまうと、おっしゃるひと言ひと言に、「はい」と素直に返事ができます。仏さまのおっしゃるとおりに一つでもできると、うれしくてたまらなくなってきます。これが、法華経に命をかけることだといってもいいと思うのです。

そうなったら、もう、しめたものです。仏さまの偉大な力と、私たちの精いっぱいの努力の二つが一つになって、自分が変身してしまうのです。これが信仰の醍醐味です。経力の功徳にすっぽりと包まれてしまうわけです。』

庭野日敬著『開祖随感』より

 

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釈尊の慈悲に任せ切る

2018-07-16 09:56:25 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『ものごとを悪いほうに悪いほうにと悲観的に考える人は、とりわけリーダーにはふさわしくないのではないか、と思うのです。

病気の人が、もうだめなんじゃないか、とくよくよ考え込むのと、必ず治ると信じるのとでは、回復力に雲泥の差が出てしまいます。心の持ち方の違いが、船の舵のように働いて、その人の人生の方向をも決めてしまうのです。

私のことを人は楽天家だというのですが、私は、全力を尽くせば、必ず仏さまが最善の結果を約束してくださる、と信じきっているのです。

私たちはだれしも、自分を守ろうとする自己防衛本能のほうが先に働くようにできていて、「もしも失敗したら大変だ」と身構えてしまうのですが、だからこそ、つとめて積極的に、よいほうによいほうにと考える習慣をつけておくことが大切だと思うのです。

いつも笑顔を忘れずに、大きな声で、明るい返事を、と心がけるだけでも、心はガラリと変わってしまいます。』

庭野日敬著『開祖随感』より

 

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磨けば自分は宝石だ

2018-07-08 06:20:39 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『ノートルダム清心女子大学の学長をしておられた渡辺和子先生は、少女時代、自分の性格の嫌なところばかりが気になって、「自分は石ころだ」と思い込んでいたそうです。

ところが大学生のとき「あなたは宝石のような人だ」と言ってくれた人がいて、「そうだ。それなら宝石になろう」と心に決めてしまったのだそうです。すると、人に笑顔で接することができるようになってきた。腹を立てずにいられる。だんだん相手を思いやれるようになった、と著書に書かれています。

『法華経』の「五百弟子受記品」には、自分などつまらない人間だと思い込んでいた若者が、襟にすばらしい宝石が縫いつけられているのを教えられて生まれ変わる「衣裏繋珠(えりけいじゅ)の譬え」が出てきます。

渡辺先生のお話もそっくりそのままではないですか。「若し法を聞くことあらん者は 一(ひと)りとして成仏せずということなけん」というのは、ここなのです。 

法華経によって、自分はつまらない人間どころか、宝石だったのだと気づいたときに心の底からわき上がってくる感動、それが精進の起爆剤です。

磨き上げれば、一人ひとり、だれにも負けない輝きを発するようになるのです。』

庭野日敬著『開祖随感』より

 

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政治家のレベルは私達の1票が生む

2018-07-07 08:50:16 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『宗教は、私たちが毎日生活しているこの社会をよくするためにあるものです。つまり世直しが目的です。それは、ただ祈るだけでは実現しません。

祈りはもちろん大切ですが、「よい社会になりますように」と、ただ祈るだけで、現実の社会がすばらしい社会に変わるものではありません。社会を大きく動かすいちばんの力は政治です。ですから、なによりもまずよい政治が必要なのです。その政治は、どのような政治家を選んでまかせるかにかかっています。そう考えてくると、選挙の大切さがよく分かってきます。

私たち一人ひとりが責任を持って選挙権を行使することによって、国のために本当に役立つ人を国会に送り出すことができます。一票の行使によって国民の意思を国政に反映できる貴重な権利をむだにしてはならないのです。

選挙のたびに、おもしろ半分で立候補する人がおり、また、おもしろ半分で投票する人がいますが、政治を甘く見すぎると、そのつけは自分に回ってきてしまいます。

政治がだらしないと非難するよりも、そうした人物を選んだ自分たち自身を反省すべきなのです。』

庭野日敬著『開祖随感』より

 

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逆らう人こそ

2018-07-05 06:48:59 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『大勢の力を集めて事業をやろうとすると、さまざまな誤解や中傷は避けられません。そうして足を引っ張るのは、外の競争相手や敵意を持った人ばかりかと思うと、その元は内部にあることが多いのですね。組織の中にそういう人がいると、「そんな危険な人間は切り捨てなければならん」と考えるのがふつうです。ところがお釈迦さまは、自分に背く者をも懐に抱え込んでしまわれるのです。

がまんして使ってやる、警戒しながら使っていくというのではありません。そういう人を「自分を大きくしてくれるお師匠さん」と決めてしまうのです。そういう心になると、なぜ身内の人間がそこまで追い詰められてしまったか、考えずにいられなくなってきます。こちらにも反省しなければならないところがあったのではないか、と考えられるようになってきます。これが『法華経』の「提婆達多品(だいばだったほん)」の教えです。

そういう考え方ができるようになると、どんな問題が起ころうと、また、どんな人に対そうと、腹が立たなくなります。

信仰者であることの第一の条件は、どんな人も信じきって、豊かな、ほがらかな気持ちで対せることだと思うのです。』

庭野日敬著『開祖随感』より

 

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