四季の歌と暮らす

 年齢ごとに「一度っきり」の四季と、
旬(しゅん)のヨコハマを味わう「くりごとの集」です。

相手の立場に立つ

2017-02-27 05:36:50 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『ご命日の説法で、福岡教会の支部長さんがこんな話をされました。支部長のお役の声がかかって迷っているとき、銀行の支店長をされているご主人が、こんなアドバイスをしてくださったというのです。

「お役を離れても、どれだけの人が本当に自分を慕ってくれるか。その、人間の本当の魅力を身につける修行をするつもりなら、お役を受けさせていただきなさい。私も職場でそれを心がけているんだよ」と。

 人を救う菩薩の四つの資格の一つに、「同事」ということがあります。同事とは、相手と同じ立場に身を置くことです。観世音菩薩はその人その人にふさわしい姿で身を現わされて、「つらいね」と隣で言ってくださいますね。高みに立って「こうしなさい」とは言われません。

 いつも人さまと同じ立場に身を置いて、一緒に仕事をさせてもらっていると、それぞれの人が口には出さなくても、胸にさまざまな思いを抱いているのが見えてきます。その思いを本当に分かってあげられる人間になりたいと努力していくのが、本当の人間の魅力を具える修行です。菩薩行の目標はそこにあります。』

 

庭野日敬著『開祖随感』より

 

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比叡山延暦寺

2017-02-24 07:42:04 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『山田恵諦猊下(やまだえたいげいか)に最後のお別れを述べさせていただいて、胸が締めつけられる思いでした。しかし、猊下が笑顔でうなずきながら聞いてくださっているお顔が目の前に浮かんできて、これまでに頂戴した数々のお言葉が、耳によみがえってまいりました。

「比叡山の使命は、仏教によって世の人の幸せを願い続けていくことにあります。せっかく人間に生まれてきたのだから、みんなが幸せな人生をまっとうするように祈り、導く。これがすべての宗教の起こりです」

「比叡山で修行された祖師方は、自分の派を興(おこ)そうとか、自分の悟りを広めよう、といった気持ちで布教されたのではありません。世の人の幸せをそっちのけにして、教えを広めることが中心になることから過ちが起こるのですよ……」

そうした猊下のお言葉のひと言ひと言が、私にとって、なによりもの励ましでした。

いまも、猊下は私どもを励まし続けてくださっておられるのです。』

 

庭野日敬著『開祖随感』より

 

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悪因悪果の法則

2017-02-14 07:21:14 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『善因は善果をもたらし、悪因(あくいん)は悪果(あっか)を招くという考え方をすべきです。しかし、現在の世の中を見ていると、必ずしもそのとおりになっていない場合があるように思う人も多いかもしれません。

目の前のことだけを見ていると、「善因を積んでも少しも善いことがなく、悪いことをして平気で大手を振って歩いている人がいるじゃないか」と納得できないこともありましょう。

 たとえば政治の世界でも、何億というお金を受け取っても収賄(しゅうわい)罪に問われることがなかったり、清潔な選挙をした候補が落選して不正行為をした候補が当選するといったことが、あまりにも多いのは事実です。それで、善因善果、悪因悪果といっても、もうひとつ説得力がないようにも思えるのですが、五年、十年という長い年月をとおして見ると、その因果の道理のとおりになっているものです。

ですから私たちは、まず道理がきちんと通用する健全な社会をつくる努力と同時に、時の経過によって必ず善因は善果に、悪因は悪果となって現われることをいつも忘れずに毎日を送ることがなによりも大事だと思うのです。』 

庭野日敬著『開祖随感』より

 

 法句経に曰く  「その罪業の熟するまで おろかの人は これを蜜のごとしと思い

         その罪業まさに熟するの日 彼は初めて くるしみを嘗(な)む

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慈悲ある人とは

2017-02-13 07:03:05 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『すべての宗教は「汝(なんじ)の敵を愛せよ」と教え、「すべてに慈悲を」と説いています。その教えが人間にとってなによりも大切なものであることはだれもが知っているのですが、その教えを、みんながすぐに実践できるのであれば、この世界は、とうの昔に平和境に変わっていたはずです。

 世界の宗教者が集まる会議では「神はただ一人だが、呼び名は多い」といった言葉をしばしば聞かされます。神といい仏といっても、究極のところは「天地のすべてのものを存在させている大いなる生命」といえると私は考えるのです。

そして、真実の信仰とはその大生命に生かされていることを実感して、その大生命の法則に随順(ずいじゅん)して生きようと努力する、その生き方にあるといえると思うのです。ですから、拝めばお金が儲かるなどといったものでは、決して真の信仰とはいえないわけです。

 この社会、世界のすべての人たちが、大生命にともに生かされている同士なのだと心の底からうなずけるようになって初めて、隣人への愛、生きとし生きるものへの慈悲心がわいてきて、それが実践行へとつながっていくのです。』

 

庭野日敬著『開祖随感』より

 

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見返りを求めません

2017-02-09 06:13:47 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『中国の南北朝時代の梁(りょう)の始祖・武帝(ぶてい)は、仏教を篤(あつ)く信奉(しんぽう)し、多くの寺院を建てるなどの功績を残した皇帝です。その武帝が達磨大師に、「私はずいぶん弘法(ぐほう)興隆に貢献してきたが、功徳はどれほどであろうか」と問うと、達磨大師は言下に「無功徳」と答えています。

 世間一般では、すべてに対価を求めます。まったく無償の奉仕、布施といったことは考えられないのです。そのため佼成会がさまざまなかたちで社会に奉仕をさせてもらっても、世間の人は、何かもくろみがあるのではないか、宗教界を牛耳(ぎゅうじ)ろうとか政治を自分たちの思うように動かそうといった魂胆(こんたん)があるのではないか、といった警戒心をもって見ることが多いのです。

 そうであればあるほど、私たちは、あくまでも無私に徹しきり、真心をもって事にあたらなければなりません。相手を利用しようとか、人にほめられたいといった気持ちが少しでもあってはならないのです。

 そもそも、宗教は自分の足りなさ未熟さを教えてもらうためのものです。「させていただく」ことはあっても、私欲や教団エゴの「ためにする」ことはありえないのです。』

 

庭野日敬著『開祖随感』より

 

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自分を切りかえるのが節分

2017-02-03 07:13:16 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『節分には、「福は内、鬼は外」と唱えて豆まきをしますが、その鬼はどこにいるかというと、自分の心の中にいるのですね。みんな、自分の見方、考え方の癖で苦をこしらえているのですが、それに気づかずに、あの人のせいだ、この人のせいだと、まわりのせいにしてカッカし、イライラしている。それでニョキニョキと角が生えてしまうのです。その鬼になっている自分が見えないのです。

 ですから、いつもそばについていてくれて、「ほら、それが鬼の心ですよ。その心が不幸を呼んでしまうのですよ。見方をこう変えると福の神がくるんですよ」と教えてくれる、いわば人生のコーチが必要なのです。そういうコーチがいないと、自分の心に住みついた鬼をなかなか追いだせないわけです。

 幸福を呼ぶ心とは、たとえば真珠貝が異物が自分の中に入ってきてもそれを幾重にも包んできれいな真珠にしてしまうような心だ、と教えてくださった方がいます。おもしろい譬えではないですか。

 鬼の心を真珠貝の心に切り換えさせてくれるのが、サンガの仲間同士の磨き合いです。』

 

庭野日敬著『開祖随感』より

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