四季の歌と暮らす

 年齢ごとに「一度っきり」の四季と、
旬(しゅん)のヨコハマを味わう「くりごとの集」です。

物知りだけでは

2019-02-27 07:43:45 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『教育の目的は、知識の習得だけでなく、立派な人間をつくることにあります。人格完成こそが教育の究極の目的です。

その人格の完成は、ただ知識を詰め込むだけでできるものではありません。宗教的な情操教育が伴わなくてはならないのですが、その宗教が教育界で軽視されているのが現状ではないでしょうか。

人格の完成とは、仏教の言葉で言えば「仏になる」ことです。人間は本来的に一人でいることができない存在です。人と一緒に社会をつくって生きていく。

そのためには、社会のしつけをしっかり教えなくてはなりません。第一に、自分のものと人のものの違いをしっかりと教えること。それから、自分の力で立つこと。転んでも自分で起きること。そして、人は一人で生きていけないのですから、まず人のことを考えること。

それを教えるのが、そのまま宗教教育であるといっていいと私は思うのです。大学出の秀才なのに自分のことばかり主張して人に嫌われ、相手にされない人がいます。それでは大学まで出てもなんにもなりません。宗教教育の必要性は、ますます高まっているのです。』

庭野日敬著『開祖随感』より

 

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我欲から離れよう

2019-02-21 08:29:45 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『このせちがらい世の中で人のことなどかまってはいられない、自分の得になることならするが、ちょっとでも損になることは知らぬ振りをする、というのが大方の人の生き方でしょう。

せちがらい世の中とは、世渡りの難しい社会といってもいいでしょう。自分を第一にしなければ負け犬になってしまうと考えるのは当然かもしれません。とりわけ現代の社会はそれが顕著で、その中で「世のため、人のために奉仕する」といった生き方は一見、愚かなことのようにも見えるのですが、しかし、よく考えてみてほしいのです。

人間は有史以来、物心両面の幸福をめざし、平和でありたいと願って必死に生きてきたのに、いまもってこの世界から争いはなくならず、不幸はあとからあとからふりかかってきます。いや、幸福を求めれば求めるほど、さまざまな形で新しい不幸が増えていくのです。

その原因をよくよく突き詰めていくと、それが自分だけの幸福を求めた結果であることに気づかされるのです。理屈が達者で小賢(こざか)しさばかりが目立つこの世で、他のために尽くす大愚(たいぐ)に徹するのが仏道であり、そこにしか真の幸せに至る道はないのです。』

庭野日敬著『開祖随感』より

 

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苦は自分の貪欲が招く

2019-02-20 06:10:37 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『人間にはだれしも欲があり、自分勝手を通したいエゴイズムがあります。ですから、どうしても目先の利害得失にとらわれ、因果の道理を忘れがちになってしまうわけです。

正直なところみなさんも、うまく立ち回って甘い汁を吸っている人を見たりすると、因果の道理など本当に存在するのだろうかと疑問を抱いてしまうこともあると思うのです。

仏さまの教えどおりに正直に人さまへの奉仕を先にする生き方をしていたのでは、この社会で自分だけ遅れをとるのではないか、と心がぐらつくこともあるかもしれません。それでつい、自分の欲を満たしたい、楽をしたいといった願いにひきずられ、立派な家に住み、ぜいたくな生活をしている人と自分を比べてうらやみ、ねたむといったことになってしまうわけです。

そういう人に対して、経典には、きわめて大切な言葉が説かれています。「仏説観普賢菩薩(かんふげんぼさつ)行法経(ぎょうぼうきょう)」の

「深く因果を信じ、一実の道を信じ、仏は滅したまわずと知るべし」という一節がそれです。

仏教徒の私たちにとって、仏を信じ、因果を信じ、ひたすら菩薩道をあゆむ以外に、幸せに至る道はないのです。』

                                              庭野日敬著『開祖随感』より
 
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目に見えない「縁」

2019-02-09 08:00:23 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『私たちが自分だと思っているこの肉体も、人さまが作ってくださるさまざまなものによって支えられています。それは体だけではなく、心もまた同様です。数えきれない人と出会い、語り合い、学び合ったその知識と体験によって、それを縁として自分の心がつくられているのです。

私をつくっているその出会い、縁が、私たちの思議(しぎ)を超えた、まさに甚深微妙(じんじんみみょう)なはからい、結果をもたらします。自分だけではなく、この世に存在する一切のものが、そういう縁によって生じ、変化しているわけで、それをお釈迦さまは「縁起(えんぎ)」として説かれ、これこそが最も大切なものであると教えられたのでした。

ただ、その縁は目に見える紐(ひも)で結ばれているといったものではなく、そのために私たちは、すべてが縁によってあらしめられていることに、なかなか気づけません。それで、つい目に見える物やお金のほうを信じて、それをいちばん大事なもののように考えてしがみついているのですが、縁が見えるようになると、出会うさまざまなことを、心からありがたいと拝める感謝の生活が始まります。その感謝こそ幸せのもとなのです。』

                                      庭野日敬著『開祖随感』より

 

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正義とはなに

2019-02-04 09:12:54 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『正義という言葉は、だれの耳にも心地よく響きます。それだけに、正面からそれに反対することはできないのですが、過去の歴史を見ると、その正義が悪用されて恐ろしい殺戮(さつりく)が行なわれてきたのを見逃すわけにいきません。

正義の戦いだと思っていたものが、じつは侵略にすぎなかったり、一つの正義にとらわれて罪のない人びとの命を平気で奪うといったことが現実にあったのです。

正義という言葉ぐらい、あやふやなものはありません。十人の人がいれば十の正義があり、十の国があれば十の正義があると言われます。その正義を信じて、自分のほうこそ正義で、相手は不正義だと争い合い、ついには戦争に至ってしまうのですが、そのはざまで苦しむのは一般市民です。「だから、正義を守ることよりも平和を守ることのほうがより大切なのだという考えを徹底させなければならない」と主張する学者もいます。

正義という言葉には、敵対するものを力で押さえつけるといった感じがつきまといます。仏教学の権威の中村元(なかむらはじめ)先生は「正義には慈悲が伴わないと危険だ」と強調されています。慈悲を伴う正義であってこそ世界の平和に有効な働きができるのです。』

庭野日敬著『開祖随感』より

 

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