ラジオ放送で、山本東次郎の狂言「花子」を聴く。
妻ではない異性を愛するといふ男の抗ひ難き“性(さが)”を、小謡で格調付けて糊塗しやうとするところにこの大曲の可笑し味があると、私は聴き取る。
大藏流山本東次郎家の硬派な藝風は、私には長らく抵抗があったが、
“人間を深く描くことで、そこから滲み出る人間の可笑しさ、悲しさを見せるのが狂言である”
といふ山本東次郎師の解釈に接してからは、人間の赤裸々な姿を観る、といふ樂しみ方を、本當の意味で理解出来るやうになる。
十月に横浜能楽堂で観た「東西迷(どちはぐれ)」は、さうした解釈が生んだ最高の名演だった。
初めからウケ狙ひなのが透けてゐたり、何を見せたいのかすら傅はって来ない迷走舞台もあるなかで、はっきりと“人間”を魅せられるかうした藝にこれからもよく接して、よく胸に刻み込んでいかうと思ふ。
藝といふ形の無い生き物は、記憶することで形と成る。
今年も、いいものを沢山観られた。