品川歴史館で、「品川の海に御台場ができるまで─日記でひも解く一七〇年前の大工事─」展を觀る。
嘉永六年(1853年)六月、たった四杯の上喜撰で太平の眠りを覺まされた江戸幕府は海防強化を痛感し、折から老中主座となった阿部伊勢守正弘の指揮のもと、江戸湾品川沖に一年四ケ月で六基の臺場を完成させた──
(※案内チラシより)
埋立て資材として、米を詰める俵に砂を詰めた“明俵”を大量に用ゐ、海底には杉と松の杭を等間隔に打ち込んで造った基礎の上に、水を通さない粘土層の泥岩である土丹岩(どたんがん)で石垣を積み上げるなど、近世の築城と同じ工法で培はれた技術と自信は、やがて明治になると汽車道である“高輪築堤”を生み出す──
(※JR新橋驛前に移築復元されてゐる“高輪築堤”)
旧時代の技術が新時代の文明を生み出したことは、ちょっと感動的ですらある。
普請(築造)の費用は幕府持ちとしつつ、その財源は富裕層から“献金”で賄はれてゐたことも、現代と大差なくて面白い。
かうして近代ニッポンの礎となったはずの臺場も明治には不要となり、さらに歴史は進んで太平洋戰争後の高度成長期には、第一と第五の臺場が周囲の埋立てに呑み込まれるやうにして崩され(現 品川區港南五丁目)、
(※第一臺場跡)
(※臺場第五跡)
第二臺場は航行の妨げになるとしてやはり崩され、
(※冩真中央あたりが第二臺場跡)
(※大正二年發行の繪葉書に見る第二臺場)
第四臺場は一部分が天王洲アイルシーフォートスクエアの土臺に転用され、
(※旧第四臺場の石垣)
完全な姿で遺ってゐるのは第三と第六のみである。
(※第三臺場)
(※第六臺場)
御臺場を、結局はムダの遺物と歴史的評価するセンセイ方もゐるやうだが、それではこれだけの土木技術を持った先祖たちを、あまりに輕んじてゐると云はねばならぬ。