JR中央本線の高尾驛一番線ホーム支柱に遺る、古い弾痕を見る(↑冩真の〇部分)。
第二次世界大戰中、米軍の上空からの銃撃により損傷したものと考へられる線路を、のちに驛の支柱へ転用云々、
戰争と云ふものがいかに無意味かつ愚挙であるか、二十一世紀のオメデタイ我々に端的に示してくれる、最重要記憶遺産。
高尾驛から旧甲州道中を甲州方面へ約2キロ半ほど行った裏高尾町の、現在では中央高速道路と圏央道との交差が望めるあたりの中央本線沿ひに、「いのはなトンネル 列車銃撃慰霊碑」が建てられてゐる。
終戰十日前の昭和二十年八月五日午後十二時二十分頃、新宿發長野行きの列車が湯の花(いのはな)トンネルの手前に差し掛かった時、上空から米軍機が列車を銃撃して乗客の六十名以上が死亡、百三十名以上が重軽傷を負ふ痛ましい“無差別殺人事件”が發生、慰靈碑は戰後の昭和二十五年、當時の地元青年團たちによって、現場付近に建立されたもの。
慰靈碑には犠牲者の名と年齢が刻まれており、十代や二十代の若い人も多かったことに驚く。
終戰まであともふ少し、その先には平和の保障された未来があったことを思ふと、客車(はこ)と云ふ逃げ場のない空間で、上空から謂れの無い銃撃に遭ふ恐怖と絶望はいかばかりであったか──慰靈碑の前で深く、長く、合掌せずにはゐられない。
米兵たちは「リメンバー・パールハーバー!」と云ふことだらう。
しかし、あなた達も同じことをやったのだぞ、と思ふと、私は激しい憤りを覺える。
終戰間際にこの悲惨な無差別殺人が起きたことは、忘れてはならない。
少なくとも私は、米國人が何をしたかを、決して忘れない。
私は生涯、外國人に心底からは友好的になれないだらう。
……どうも、前世からさうであった氣がする。