ラジオ放送の金春流「天鼓」を聴く。
妙音を奏でる鼓の献上を拒んだ所有者の少年(後シテ)を水に沈めて殺し、以来音を出さなくなった鼓を何とか鳴らさうと、少年の老父(前シテ)を呼び出して「次は自分の番か……」と疑はれ、老父の振る撥に鼓が共鳴すればたちまち感涙して機嫌を直し、その晩に少年の音樂葬を思ひ立つ身勝手な發想の唐國皇帝こそが、この曲の陰のシテ(主役)であり、陰であるだけに曲中に當人は姿を現はさず、すべて登場人物のコトバや、地謠のなかだけで存在を語られるところに、この曲の妙音(ミソ)があると思ふ。
かうして作中でなにか權力(チカラ)の持つ者を、姿を見せることなく登場人物のコトバのなかだけで示すことにより、より強い存在感を印象づけるやり方は、ほかの作品でもしばし行なはれる効果的な技である。
狂言「花子(はなご)」は、シテである男の愛人の名がそのまま曲名となってゐる大曲だが、その彼女本人は舞薹に登場せず、ほかの登場人物たちがセリフだけで存在を語らねばならぬところに、大作である所以があると、私は思ふのである。