鎌倉歴史文化交流館の企画展「鎌倉の廃寺─寺社の興亡─」を觀る。
鎌倉の寺院と云ふと、中世における新興宗派の“聖地”との印象が強いが、この地には實に七世紀後半の律令制時代より佛の庭が存在云々、さりながらしょせんヒトの手で運營されるものなれば、寺運つたなく時勢に圧されて廃絶した寺院も多くあり。
さうした今や跡形もない往年の姿を、微かな痕跡より出土した遺品などから偲んだ企画展で、
(※展示室内撮影可)
廢絶寺院跡のほとんとが、江戸時代の頃にはキレイサッパリ喪はれて農野と化してゐたらしいところに、中世鎌倉がいかに遠い昔であるかを知る。
鎌倉の廢寺と聞いて私がすぐ頭に思ひ浮かぶのは、
(※同)
元弘三年(1333年)に北條高時以下一族郎党が自刃して鎌倉幕府が滅亡した、東勝寺跡である。
三代執權北條泰時が開基となった禪寺で、北條氏滅亡後も存續して室町時代には關東十刹の第三位にまでなったが、結局は室町幕府が滅亡した天正元年(元亀四年)にあたる1573年頃には廃絶云々、ここにも時流と寺運の背中合はせを見る。
東勝寺跡の裏山には、北條高時が自刃したと場所と傳はる“腹切りやぐら”が遺るが、
現在は落石の危険ありとかで入口が封鎖され、かつてのやうに近くまでは行けない。
(七代目松本幸四郎扮する歌舞伎劇の北條高時 新歌舞伎十八番の内「高時」より)
まださうなる以前、實際にやぐらの近くまで足を踏み入れたことがあるが、さすがに石窟であるやぐらの中まで入る勇氣はなく、そのまま足早に引き返したものだ。
東勝寺跡を訪ねたあとは、源頼朝の墓所と傳はる法華堂跡に向かふ。
(※左手が源頼朝墓所、奥が法華堂跡)
現在は小学校となってゐる“大倉御所”跡の裏山中腹にある石塔が源頼朝の墓所、その右脇のわずかに礎石らしきが土中に埋まった空間が法華堂跡で、室町時代まで御堂はしっかり管理されてゐたやうだが、江戸初期にはすでに現在見るやうな光景だったらしい。
ここからさらに橫へ移動し、中世には典型的な神佛習合だった「鶴岡八幡宮寺」──現在の鶴岡八幡宮を訪ねる。
こちらは明治“御一新”における廢佛毀釈で佛教関係の文物はすべて破却され、神宮寺としては廢寺となったが、時勢と社運が味方したのだらう、神の庭として生伸びて現在に至り、邦人異人と混沌とした参拝客を、今日も受け入れてゐる。
──ヒトがつくったものを存續させていくことの難しさについて、その實例を訪ね歩いたことは、先人の生んだ技藝を受け繼ぎ糧としてゐる私にとって、大いに見るべきものがあった。