昨年亡くなった四代目市川左團次の一年祭追善狂言「歌舞伎十八番の内 毛抜」を觀に、歌舞伎座『團菊祭五月大歌舞伎』の昼の部へ出かける。
私が歌舞伎座の三階席や幕見席へ足繁く通ってゐた學生時代、ちゃうど役者として脂の乗った時代を迎へてゐた市川左團次はお馴染みな役者の一人であり、堂々たる容姿を生かした骨太な役で魅せる一方、繊細な情で魅せる役、舞踊の素養が光る役など、様々な役(かほ)で見物を樂しませてくれる名優だった。
そんな四代目市川左團次の魅力が最も光る役が、襲名披露でも演じた「毛抜」の粂寺彈正であり、主演級の歌舞伎役者であることを示すいちばんの當り役であったと信じてゐる。
その四代目左團次の「毛抜」を、私は學生時代に歌舞伎座の納涼興行で、一度だけ觀た。
腰元巻絹にしなだれかかりながら、「薄う一服、吞みたいでェす」と、愛嬌たっぷりに口にする臺詞の妙味は今でも忘れられない。
その後もたびたび四代目市川左團次の「毛抜」は上演されたが、私がまともに觀たのは上の一度きりで、再び觀に行く機會はその氣になりさへすれば得られたものを、みすみす逃してしまったことは、今でも悔やんでゐることだ。
(※二代目市川左團次の粂寺彈正)
追善興行とは、その亡き役者の面影を傳へるものが役者繪などの刷り物しか無かった昔、所縁(ゆかり)の役者が集まって所縁の狂言を出し、人々の記憶のなかにゐるその役者を追憶するもので、現在のやうに記録媒体が豊富な時代とは違ひ、もっと深い意味があった。
私は、四代目市川左團次の「毛抜」を偲ぶものは、かつて劇場の賣店で購入したこの一點しか持ってゐない。
あとは、舞臺を觀た記憶しかない。
よって、追善興行本来の形と云ふものを追体験してみることも、今回の觀劇の目的であった。
この追善狂言で主役の粂寺彈正をつとめるのは、今回で二度目と云ふ長男の市川男女藏で、
亡父の追善には相應しい配役であり、實際の芝居そのものは決して現在の市川男女藏を超えるものではなかったが、あとに殘った息子としての覺悟と意氣込みを熱く感じさせる好舞薹であり、幕外で見物席に向かっての、「皆様のおかげを持ちまして、この大役を無事につとめられました」云々の定番な挨拶も、今回はいつになく重く深い響きをもった。
(※四代目市川左團次襲名時の扮装冩真
二階ロビーの追想冩真展パネルより)
興行會社の“匙加減(おもわく)”で、追善狂言を出せる役者もゐれば、さうでない場合もある。
今回の「毛抜」は、追善以上の良い“親孝行”であると感じた。
この追善狂言の前座に、若手三人の「鴛鴦襖戀睦」、いはゆる“おしどり”と云ふ舞踊劇が出た。
(「鴛鴦襖戀睦」 左より十一代目團十郎の河津三郎、六代目歌右衞門の遊女黄瀬川、二代目松緑の俣野五郎 昭和二十九年三月 歌舞伎座「第一回 莟会」公演)
地方(演奏)は前半が長唄で後半が常磐津、長唄の立三味線をつとめた先代杵屋巳太郎師の演奏だけを樂しみたくて、“先代”歌舞伎座の幕見席から巳太郎師ばかりを觀てゐた、そんな大昔の記憶がある狂言だ。
今回はその弟子の當代杵屋巳太郎が立三味線だが、先代を彷彿とさせる味は薄い。
が、“歌舞伎長唄”とはいかなるものかをよく示す、模範的な演奏を聴かせてくれた。
常磐津陣は、いまの私には誰なのかサッパリわからない。
かつて大阪時代に、人間國寶の故人常磐津一巴太夫師の藝に親しく接してゐたことが、いかに貴重な經験であったか、改めて偲ぶばかりである。
昼の部キリの「極付 幡随長兵衞」は、主演者を理由に觀ずに劇場を出る。
十數年前、件の主演者がこの狂言の“子分その他大勢”の一人に出てゐた頃、何が氣に喰はなかったのか、他家の若い大部屋弟子を奈落に連れ込んで、“亂暴”を働いたと覺しき光景に接して内心で憤慨した、その事實の記憶を話すだけに留める。
(前々名“河原崎薫”時分の三代目河原崎權十郎の女形ぶり)
先週に觀た前進座歌舞伎公演の雲の絶間姫と云ひ、やはり河原崎を名乗る役者は、これくらゐでなくてはならぬ。