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ラジオ放送で、觀世流の「砧」を聴く。
三年も孤閨をかこった果てに寂しく死んだ妻の悲哀劇で、「後の世の人はこの能の味はいはわからないだらう」と作者の世阿彌が云ったとも傳はる、たしかに謠の節付も演技の型も傑出した一曲。
三年も孤閨をかこった果てに寂しく死んだ妻の悲哀劇で、「後の世の人はこの能の味はいはわからないだらう」と作者の世阿彌が云ったとも傳はる、たしかに謠の節付も演技の型も傑出した一曲。
前場の最後、シテの妻が地謠にのせてゆっくりと橋掛を揚げ幕へ入り、介抱するやうに後を付いてゐた侍女が、橋掛の途中で立ち止まってシオリ(泣く型)をすることで、妻が病没したことを暗示する演出はつくづく上手いなぁと感心する。
このあたりが、現代の前衞な活動をしてゐる人が「自分に近いものがある……!」と勘違ひするゆえんか。
後場で亡靈となって現れた妻が、やうやく帰郷した夫に無沙汰を烈しく責める件りは、怒りより愛慕が昂じた悲しみの發露が主眼であり、そこを誤るとだだの怨靈物になってしまふ。
……もっとも、今回の放送の合唱じみた上滑りな地謠からでは、ただワーワーと騒ひでゐるやうにしか聞こえないが。
かういふ能は、やはり人生の年輪を重ねた人でなくては、世阿彌のやうな苦勞人が云ふ「味」など到底わからないだらうな、などと、妻帯者でもない私がしたり顔で頷いてみせる、秋の空。