鎌倉歴史文化交流館にて、「頼朝以前~源頼朝はなぜ鎌倉を選んだか~」展を観る。
源頼朝が初の武家政権を樹立したことで、俄かに鎌倉の地名が歴史の表舞台に現れた感があるためか、それ以前の鎌倉につひては全く考へたこともなく、漠然と「未開の地」だったやうに思ってゐたが、それはとんでもない認識不足であることを思ひ知らされる。
奈良時代の天平年間には既に古東海道の要所として「鎌倉郡家(かまくらぐうけ)」のおかれた地方都市であり、また當地周辺の遺跡から發掘された數多の土器が、頼朝入部當時の鎌倉を“漁師と農民以外には住みたがらない辺鄙な土地”と記した「吾妻鏡」に、はっきりと異を唱へてゐる。
そもそも公式記録と云ふシロモノはその時の權力者が自分の都合の良いやうに創作するものなので──だから「異本」が傅存したりする──、もとより私は「吾妻鏡」に大して信をおひてゐない。
真實の歴史とは公開されてゐない情報を指すことをも再認識させたこの企画展に逢った流れで、頼朝の父義朝が屋敷を構へてゐた古跡の一部と云ふ、浄土宗「寿福寺」を訪ねることにする。
裏手の山腹には北條政子と源實朝母子の墓所があるとのことで寄ってみると、三人づれの觀光老婆が實朝の墓がある岩屋の内へ無遠慮に入り込み、「サネトモさん、かしましくてゴメンねぇ……」などと舌先で詫びてみせながら、お構ひなしに騒ひでゐる。
とんだ觀光公害。
それはなにも夷人觀光客に限ったことではない。
「貴女たちは近日中に自分のお墓へ永遠に入れるのだから、なにも今からそんなに余所のお墓へ入りたがらなくてもいいでせう……」──
私は三人の“元女性”たちを背後より一瞥して、先に山を下る。
そして源頼朝が政庁を構へたとされる跡地と、
初の武家政権が終焉した地を訪ねて、
今回の鎌倉歴史探訪を締めくくる。