迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

神道を経営する。

2018-04-11 17:17:03 | 浮世見聞記
國學院大学博物館の企画展、「吉田家 神道と漢籍を伝えた家」展を見る。


吉田家は亀の甲で占ふ“亀朴”の家だった卜部氏の出で、室町後期の吉田兼俱は密教の要素が混在した「吉田神道」を大成する。


そして戦国時代の当主吉田兼見は、明智光秀と懇意にしてゐたため本能寺の変では窮地に立たされるが、その危機をなんとか脱した後は豊臣秀吉に接近し、秀吉の没後は次代の権力者徳川家康にすり寄り、江戸時代における吉田神道隆盛の礎を築く──

神道だらうがなんだらうが、生き残るためには何が必要か、宮家の出で同じく神道を司ってゐた白川伯家の衰退とを併せて考へると、吉田兼見は実によゐ手本を示してくれてゐる。


思へば猿楽四座──観世•寶生•金春•金剛──にしても、同じやうな処世術で今日まで生き残ったのだ。


江戸時代に最盛期を迎へた吉田神道は、徳川家や大大名、公家など貴人の信徒を多く抱へ、また地元京都の町人を相手に金融業を営んで、経済的な安定を図ってゐた。


神サマだらうがなんだらうが、“経営”を維持して行くためには結局のところ何が必要か──


俗臭のプンプンしたその実態、なかなか興味深ゐ。


理想といふ名の屁理屈と建前ばかりを口にしてゐる人種は、結局それは負け犬の遠吠ゑでしかなゐことを、それら資料は雄弁に語ってゐる。



さりながら、吉田神道も明治維新といふ激震にはひとたまりもなく衰滅し、現在では遺された古文書の一部が、この大学に研究材料として保管されてゐるにすぎなゐ。


同じく最高の金主を喪った猿楽の場合、幸ひにも新興の金主に拾はれて“能楽”と名称を改めさせられ、運つたなき者は廃業するといふ枝打ちだけで済んだ。

しかし、第二次大戦後に侵入した米人らによって彼ら金主が没落すると、今まで鼻も引っ掛けなかった庶民を相手にした町師匠とならざるを得なくなり、現在に至るまで資金繰りに汲々としてゐる──



吉田神道の歴代当主たちが“家業”の経営者として、いかに浮世を泳ゐできたか──

遺された古文書の行間からは、神に仕へる人間の現実を踏まゑた本音と建前が、面白ひまでに浮き彫りにされてゐる。

『論より証拠』

それは、机上の統計でしかモノを測れなゐ経営コンサルタントなる口八丁屋の屁理屈などとは違ひ、

はるかに説得力がある。
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