ラジオ放送の寶生流「小督」を聴く。
平清盛の權勢に圧されて散った、高倉院と小督局の悲戀譚の一篇(ひとつ)。
高倉院の御書を携へた源仲國が、清盛を恐れて姿をくらました小督局を馬で嵯峨野に探し訪ねる場面は、特に“駒の段”と云って、謠ひの聴かせどころとされてゐる。
つまりそれなりの技量(うで)のある人に許される件りだと思ふのだが、忘年忘月、忘謠曲愛好者が發表會でこの“駒の段”を謠ふと云ふので、すごいぢゃないですか、と褒めると忘人は、
「いや、先生がここをやれと、謠本(ほん)に鉛筆で印をつけたもので……」
と、謙遜ではなく本當になにも分かってゐない表情で云ったものだった。
それでもその人はそれなりの經験があるゆゑに“駒の段”を鉛筆で指定されたのだらうが、けっきょく藝事だの習ひ事だのは、“身に付けるもの”以前の“何か”に本質があるらしいと疑念を感じた、現在の私の活動がまだカタチになる前の思ひ出噺。