私などはまさに、ザ・ドリフターズのコントに大爆笑して育った世代だが、現在はミュージシャンとしてのザ・ドリフターズも楽しんでゐる。
それから四十年以上が経ち、今ではすっかり立派な姿となってゐる。
いづれも明るく、元気で、前向きな曲調は、現在(いま)聴ひても、「ようし、今日も頑張って生きやう!」といふ気持ちになれる。
そのうちの一曲、「志村ケンの全員集合 東村山音頭」は、脱退した荒井注の代わりに加入したもののしばらくは不発だった志村けんが、ようやく大ブレイクするきっかけとなった曲。
この曲の大ヒットにより、当時の小学生たちがぞくぞくと東村山市に押しかけるといふ社会現象が巻き起こり、さらには志村けんが当時の市長より、「市の知名度上昇に貢献した」として、表彰されるに至る。
西武鉄道の東村山駅東口にそびえる三本の欅は、その表彰に因んでレコードが発売された年と同じ、昭和51年(1976年)に植樹されたもの。
それから四十年以上が経ち、今ではすっかり立派な姿となってゐる。
ザ・ドリフターズ全盛期の昭和40年代~60年代初めにかけて、当時の教育屋方面は彼らを「不健全だ!」とずいぶん叩ひたらしいが、彼らの方ではまるで相手にしなかった。
本領の音楽も、そこから派生したコントも、現在の年齢(とし)になってから改めて接すると、その質と完成度の高さに気付かされ、「こんなスゴイものを自分は毎週観てゐたのか……!」と、心底ビックリする。
ザ・ドリフターズの気骨は、さうした実力と自信に裏打ちされたものであり、被雇用者には高圧的な反面、外野の“クレーマー”なるタダの病人には一転して弱腰となる現在の社会組織では、もはや彼らのやうな人々の登場は、望むべくもない。
さりながら、私の気持ちの拠り所は、二十一曲の元気が詰まった一枚のディスクにあり。
だから、なにもテレビをつけて、イマドキの“藝No人”に付き合ふ必要など、まったく無い。
志村けんの「東村山音頭」を聴くたび、私は子どもの頃の盆踊りを思ひ出す……。