ラジオ放送で、寶生流の「橋辨慶」を聴く。
武藏坊辨慶が五條橋で源牛若丸と相まみえ、散々に翻弄された挙げ句臣従の誓ひをたてる視覺的にもわかりやすい曲で、今回の放送と同じ寶生流の舞臺も觀てゐる。
ただし、さっぱりとした曲だけに觀ても謠っても、さっぱり印象が残らぬ憾みはある。
因みに一般に流布してゐる傳説では、五條橋で相手を待ち構へてゐるのが辨慶で、そこへやって来るのが牛若丸であり、能ではこの配置が逆になってゐる。
おそらくは、現在では不明となってゐる作者が一座の子方(子役)を活躍させる曲に仕立てるため、そのやうに変更したものだらう。
今回の放送では、能樂師の子息と思はれれる小学生が子どもらしい素直な謠ひを聞かせ、先週放送の妙に心得た鼻につく謠ひをやってゐたそれとは対照をなしてゐる。
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さて、この武藏坊辨慶と云ふ人物、現存する義経傅説に現れるのはこの出逢ひの場と、義経が凋落して奥州平泉へ逃げ込んだあげく自害する、初めと終はりの部分のみ。
主人義経が華々しく“八艘飛び”をみせた平家との合戰時にはどんな働きをしてゐたのか、私は知らない。
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中世史を通覧すると、源氏と云ふ一族は頼朝義経兄弟に限らず、常に身内同士で殺し合ひをやってゐる。
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中世史を通覧すると、源氏と云ふ一族は頼朝義経兄弟に限らず、常に身内同士で殺し合ひをやってゐる。
のちに鎌倉政權の源氏将軍が三代で絶えたのは、その象徴だらう。
結局は北條家と云ふ、平氏出とされる取り巻きの一族によって、政權は元弘三年(1333年)まで運營される。
殿サマは暗愚でも不在でも問題ナシ、家老さへしっかりしてゐればその組織は立派に成り立つと云ふ、後世の企業組織の基礎となる手本を示したことが、源氏政府いちばんの手柄だ。