群馬縣富岡市富岡1-1、“世界遺産”「富岡製糸場」を見物する。
明治新政府の近代化政策のもと明治五年(1872年)に造られた官營の器械製糸模範工場にて、數多のうら若き“工女”たちによって紡ぎ出された絹糸は莫大な外貨獲得の最重要輸出品となる──
その莫大な外貨が大日本帝國の軍事力強化に注ぎ込まれた事實については、この世界遺産に展示された資料はもちろん語ってゐない。
世界遺産となったのはあくまで建造物であり、ここで日夜生産されてゐた絹糸(生糸)でも、民營化後の長時間勞働を耐へ忍んだ工女たちでもないからだらう。
さうしたある程度の“予習”をした上で臨まなければうっかり目眩ましに遭ふ歴史説明より、明治二十六年に民營化後、昭和六十二年(1987年)に操業停止した後も繰糸所内に現在もそのまま遺る自動繰糸機と、
その奥の一角で特別に實演されてゐる糸とりの様子を見學できることが、この世界遺産を訪ねる価値をはるかに高めてゐる。
五つの繭玉から糸口を見つけて引っ張り出し、一本の糸に撚り合はせていく繊細な作業は、なるほど女性の繊細な指先でなくては叶ふまい。
ただ、衞生的でない環境下で長時間續けるには、あまりに神經をすり減らす重作業であったとは思ふ。
繰糸所の裏手は、そんな女性従業員たちの寄宿舎があり、
内部は公開されてゐないが、部屋には當時の藝能人の冩真などが貼られたままになってゐる云々、さうした若き従業員の“青春”の痕跡も、遺産に彩りを添へてゐるやうに思ふ。
目を敷地より鏑川の向かふに転じると、公營の集合住宅が見える。
寄宿舎の發展型を見るやうでもあり、近代化の答へを見るやうでもあり。
富岡製糸場は官營の模範工場であり、ここで製糸技術を學んだ子女たちを通して近代製糸業は全國の民間に傳播していったが、そのほとんどが価格の激しい亂高下などによる經營難で廢業消滅するなか、富岡製糸場のすぐ近くに復元保存されてゐる「旧韮塚製糸場」は、かうした民營製糸工場で唯一現存する建造物云々。
明治九年(1876年)に韮塚直次郎によって操業するも、三年後の同十二年にはご多分に漏れず事實上の廢業となり、その後建物は學校となったり、味噌や醤油の貯蔵庫となったり、最終的には長屋として使用されるなどして原型が忘れ去られてゐたが、ふとしたきっかけで平成二十八年に發掘調査が行はれ、かつて本格的な設備を持った民營製糸場であることが判明云々。
ここにも、世界遺産を支へる裏方が隠れてゐた。