神奈川縣秦野市東田原1018-2、静かに緑の廣がる一帯に佇む、「源實朝公御首塚」と傳はる石塔を訪ねる。
建保七年(1219年)正月二十七日、右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮を詣でた鎌倉幕府三代将軍の源實朝は、甥の公暁に暗殺されて首を落とされ、遺骸は首のないまま葬られた云々、
行方不明となった首級は、その後に公暁を討った三浦氏の家臣武常晴たちによって秦野に持ち込まれ、生前に實朝が深く帰依してゐた退耕行勇を導師としてこの地に手厚く埋葬云々。
(※案内板より)
さらに時代は下って昭和四十六年(1971年)七月二十六日、秦野市の重要文化財に指定さるる。
雅やかな心遣ひに夏の始まりをしばし忘るる。
ある時には宋へ渡らうとし、そして都の文藝に心惹かれることで、名誉職な武人棟梁としての現實から逃避しやうとしたのかもしれない源氏将軍の三代目は、どうも生まれてくる時間と場所を間違へたところに、悲劇があったのではと思えてきた。
建保七年(1219年)正月二十七日、右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮を詣でた鎌倉幕府三代将軍の源實朝は、甥の公暁に暗殺されて首を落とされ、遺骸は首のないまま葬られた云々、
行方不明となった首級は、その後に公暁を討った三浦氏の家臣武常晴たちによって秦野に持ち込まれ、生前に實朝が深く帰依してゐた退耕行勇を導師としてこの地に手厚く埋葬云々。
供養塔は初めは木造であったが、波多野忠綱が建長二年(1250年)に石塔に改めた云々、
(※案内板より)
さらに時代は下って昭和四十六年(1971年)七月二十六日、秦野市の重要文化財に指定さるる。
首塚の周辺は現在、藤原定家に師事する歌人でもあった源實朝を偲んで、その和歌とゆかりの草花を植ゑた植物苑に整備され、
雅やかな心遣ひに夏の始まりをしばし忘るる。
首塚より向かふを望めば、ここに首塚が建てられた頃とさう變はぬであらう相州緑野。
ある時には宋へ渡らうとし、そして都の文藝に心惹かれることで、名誉職な武人棟梁としての現實から逃避しやうとしたのかもしれない源氏将軍の三代目は、どうも生まれてくる時間と場所を間違へたところに、悲劇があったのではと思えてきた。