迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

ニッポン徘徊──ハマ台場

2018-11-21 15:15:12 | 浮世見聞記
横浜市中央図書館の「横浜のお台場──発掘に見るコウモリ台場とその時代」展を見て“予習”をしてから、神奈川区にわずかに痕跡を留める現地へと出かけてみる。

「台場」と云へば、東京都品川区沖のそれが有名だ。

しかし、かつて旧東海道の神奈川宿沖にも存在してゐたことは、これまで話しには聞ひてゐたが、一度も見に行ったことがなかったので、今回の遺跡展をきっかけに、一見せばやと存じ候。


図書館でもらった山折り谷折りがやたら複雑なガイドマップを広げてみると、神奈川台場の絵図と現在の航空写真(平成九年現在)とが重ね合はせてあり、



とてもわかりやすい。

横浜が開港した翌年、万延元年(1860年)に江戸の土木業者平野彌十郎と磯子村の堤磯右衛門が一日平均840名の人足を指揮して完成させた神奈川台場は、蝙蝠のやうな形をしてゐるのが特徴で、これは大砲を様々な角度に据ゑられるやう工夫されたもの。

ちなみにこの神奈川台場を設計したのは、勝海舟。

さう聞くと、なんだか納得がいく。

そして、品川台場が海に浮かぶ完全な人工島だったのに対して、神奈川台場は東西二本の「取渡り道」といふ築堤が、陸地とを結んでゐたのも特徴、その西側の石積み一部を、現在は埋め立てられて住宅密集地となった神奈川1-6あたりに、



からうじて見ることが出来る(ガイドマップにある③の部分)。

ここからもう少し海寄りへと歩くと、神奈川台場の史跡を示す「台場公園」があり(ガイドマップの④)、



絵図によれば西側の取渡り道はこのあたりで途切れて小橋が掛けられ、その下を船が通れるやうになってゐたらしい。

ちなみに東西の取渡り道の間は船溜まりとなっており、↑の写真はその方向を向ゐて撮ったものだが、もちろん現在は埋め立てられて、面影はない。

さらに海寄りに行くと、民家の真裏スレスレのところに台場の角にあたる石垣が見事に遺されてゐるが(ガイドマップ⑤の部分)、



民家裏の狭い私有地に当たってゐるので、カメラ片手の長居は厳禁である。

この石垣を上がり、かつての台場内部を見渡す。



現在は跡地のほとんどがJR貨物の「東高島駅」と宅配便の集積所に当たってゐるため、関係者以外の立ち入りは禁止である。

余談だが、この場所は私がヨコハマに憧れるきっかけとなった大好きな刑事ドラマ「あぶない刑事」のロケ地でもある。


今度は海側に遺る石垣を見物するため、ぐるりと右回りに歩いて現在の星野町へと向ふ。

途中、“東取渡り道”の名残と見て取れる岸壁を右に見て通り、その先で右折して星野橋を渡ってしばらく直進、鉄道貨物全盛期の残骸のやうな廃鉄橋を左に見つつ東海道貨物線の東高島踏切を渡ってコンビニを右折、左へカーブした道の右手に建つマンション脇の足許には、わずかに石垣が遺る↓(ガイドマップの②)。



ここで右へ直角に折れた先、「星野町公園」内にはその続きが整備されて遺り(ガイドマップの①)。



さらに続いて蝙蝠型を成す「くの字」の部分は(ガイドマップの①)、柵の先にあるため、



それ以上は進めず。


神奈川台場は横浜の海防のために、伊豆産の石を真鶴から船で運ぶなど、一年余りの突貫工事で築造された軍事施設で、図書館に展示された当時の貴重な古写真を見ると、なかなかの威容を誇ってゐたやうだ。

しかし、実際に戦闘に使はれることはなく、礼砲や祝砲などの外交儀礼の場として機能し、明治32年(1899年)に外国人居留地と共に廃止されたのちは、順次埋め立てられて今日に至ってゐる。


現在の横浜スタジアムとほぼ同じ面積の施設を、海上に築造した──

古い住宅密集地の隙間に、わずかに遺った石垣を見ただけでも、幕末明治のニッポンがいかに急加速して国際社会の渦に巻き込まれて行ったか、その事実の断片を、充分に窺ふことが出来るのである。




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