今日が喜劇王チャールズ•チャップリンの誕生日であることを、ラジオで知る。
私がチャップリンの映画に出逢ったのは学生時代、英語の教科書に「独裁者」(1940年)のラスト、あの演説シーンの原文が載ってゐたことによる。
授業のなかで教材として「独裁者」も観たが、
その時はヒトラーを皮肉った喜劇映画、程度の認識しかなかった。
しかし成人後、近衞文麿内閣の時代を通して1900年代の歴史を勉強するにつれて、「独裁者」の持つ本当の意味と深さ、そして映画を以てヒトラーに立ち向かったチャップリンの“強さ”に、心底驚嘆したのだった。
ちなみに当時、ブラウン管テレビから大型液晶テレビへの買い替へを決断したのも、チャップリンの映画DVDを大画面で観たかったからにほかならない。
今は昔、他人(ひと)とお薦め映画の話題になった際、私はチャップリンの名を挙げた。
するとその他人(ひと)は、
「そんな古い時代まで行きますか……」
と呆れた顔をした。
私はその他人(ひと)の挙げた“ベストセレクション”にはどれも共感できなかったこともあり──「これを観たこと無いなんて人生の汚点だ」とその英語教師は面白ひことを言ってゐたが──、しょせん“お薦め”とは個人的趣味の押し付け、自分はやるまいと肝に銘じたのだった。
考へたら私の場合、本でも映画でも、他人(ひと)から薦められたものを面白いと感じた試しは、一度も無い。
ものの良し悪しは、やはり自分の目と耳を以て、自分で決める──
これも、チャップリンの映画を通して学んだことの一つだ。
なかでも私は、「独裁者」から七年後に制作された「殺人狂時代」(1947年)に惹かれる。
いまでも、ふと観たくなって、自宅でDVDをセットすることがある。
女性ばかりを狙った実在の殺人鬼“青ひげ”をモデルに、その殺人鬼をチャップリンが主演したといふ意外性より、サスペンスのなかにも喜劇性がしっかりと織り込まれたその完成度の高さに、魅了されるのだらうか。
ただはっきり言へることは、殺人鬼に一度は命を狙われるも、ひょんなことから助かる若い出所女性を演じた、マリリン •ナッシュといふ女優に惹かれたことだ。
定評ではミスキャストといふことになってゐるが、私は初めて観た時からそんな印象は受けなかった。
大人の女性らしい端麗な容貌と、意外に低音な聲とに、眩惑されたか──?
それでも良い。
定評だらうがなんだらうが、他人(ひと)の評価に合わせる必要など、どこにある?
映画は、夢見心地でなくては。
そしてこの映画いちばんのメッセージである、
『一人殺せば悪者で、大量殺戮なら英雄だ。数が殺人を神聖化する』
は、米国を問はず全世界への痛烈な批判であり、「独裁者」の演説に匹敵する厳しい指摘でもある。
結果、チャップリンは折からの「赤狩り」に引っかかり米国から追放される羽目となる。
が、それは取りも直さず、もっともらしい振る舞ひをする権力者こそが真の佞人であることを、チャップリンは映画といふ手段で、後世に炙り出してみせたことになるのだ。
チャップリンは、幸せを追求する一介の喜劇俳優であり続けたかったのだと思ふ。
さういふ人の心を、おのれの思惑で利用してかからうとする輩は、この浮世にいくらでもゐる。
が、注意して相手の眼をよく観察すれば、それはすぐに見抜ける。
チャップリンはどこまでも勝者であったと、
私は固く信じてゐる。
私がチャップリンの映画に出逢ったのは学生時代、英語の教科書に「独裁者」(1940年)のラスト、あの演説シーンの原文が載ってゐたことによる。
授業のなかで教材として「独裁者」も観たが、
その時はヒトラーを皮肉った喜劇映画、程度の認識しかなかった。
しかし成人後、近衞文麿内閣の時代を通して1900年代の歴史を勉強するにつれて、「独裁者」の持つ本当の意味と深さ、そして映画を以てヒトラーに立ち向かったチャップリンの“強さ”に、心底驚嘆したのだった。
ちなみに当時、ブラウン管テレビから大型液晶テレビへの買い替へを決断したのも、チャップリンの映画DVDを大画面で観たかったからにほかならない。
今は昔、他人(ひと)とお薦め映画の話題になった際、私はチャップリンの名を挙げた。
するとその他人(ひと)は、
「そんな古い時代まで行きますか……」
と呆れた顔をした。
私はその他人(ひと)の挙げた“ベストセレクション”にはどれも共感できなかったこともあり──「これを観たこと無いなんて人生の汚点だ」とその英語教師は面白ひことを言ってゐたが──、しょせん“お薦め”とは個人的趣味の押し付け、自分はやるまいと肝に銘じたのだった。
考へたら私の場合、本でも映画でも、他人(ひと)から薦められたものを面白いと感じた試しは、一度も無い。
ものの良し悪しは、やはり自分の目と耳を以て、自分で決める──
これも、チャップリンの映画を通して学んだことの一つだ。
なかでも私は、「独裁者」から七年後に制作された「殺人狂時代」(1947年)に惹かれる。
いまでも、ふと観たくなって、自宅でDVDをセットすることがある。
女性ばかりを狙った実在の殺人鬼“青ひげ”をモデルに、その殺人鬼をチャップリンが主演したといふ意外性より、サスペンスのなかにも喜劇性がしっかりと織り込まれたその完成度の高さに、魅了されるのだらうか。
ただはっきり言へることは、殺人鬼に一度は命を狙われるも、ひょんなことから助かる若い出所女性を演じた、マリリン •ナッシュといふ女優に惹かれたことだ。
定評ではミスキャストといふことになってゐるが、私は初めて観た時からそんな印象は受けなかった。
大人の女性らしい端麗な容貌と、意外に低音な聲とに、眩惑されたか──?
それでも良い。
定評だらうがなんだらうが、他人(ひと)の評価に合わせる必要など、どこにある?
映画は、夢見心地でなくては。
そしてこの映画いちばんのメッセージである、
『一人殺せば悪者で、大量殺戮なら英雄だ。数が殺人を神聖化する』
は、米国を問はず全世界への痛烈な批判であり、「独裁者」の演説に匹敵する厳しい指摘でもある。
結果、チャップリンは折からの「赤狩り」に引っかかり米国から追放される羽目となる。
が、それは取りも直さず、もっともらしい振る舞ひをする権力者こそが真の佞人であることを、チャップリンは映画といふ手段で、後世に炙り出してみせたことになるのだ。
チャップリンは、幸せを追求する一介の喜劇俳優であり続けたかったのだと思ふ。
さういふ人の心を、おのれの思惑で利用してかからうとする輩は、この浮世にいくらでもゐる。
が、注意して相手の眼をよく観察すれば、それはすぐに見抜ける。
チャップリンはどこまでも勝者であったと、
私は固く信じてゐる。