喫茶 輪

コーヒーカップの耳

神の御名

2019-04-02 14:21:17 | 足立巻一先生
編集工房ノアさんからいただいた「海鳴り」31を読んでいる。
巻頭は「鈴木漠の世界展」の写真。これは兵庫県公館で現在開かれているもの。

その次に杉山平一先生の詩「忘れもの」が見開きに。
ちょっと怖いユーモアの詩。

次が山田稔さんの「本棚の前で」という随想。
《書斎の本棚の前に立って本の背をながめる。》という一行から始まる、かかわりのあった人のドラマ。
最後はこう結ばれる。《(略)やっと解放され自在になりかけたとき、彼の命数は尽きる。三輪正道享年六十二。》
心打つ文章です。

その次の「多田瑤子さんのこと」は、三十三回忌を迎える人(多田瑤子)のことを荒井とみよという人が書いておられる。
多田瑤子さんというのは、多田道太郎のお嬢様だと。瑤子さんは道太郎より先に夭逝する。
なかなかラジカルな文章だと思った。

次が天野忠さんの童話「枯木とひかりの子供」。
天野さんのちょっぴり皮肉な詩は大好きだが、これはまた素直な話だ。

次の「夏の詩人」(萩原健次郎)はちょっと飛ばします。

「めぐりあう」(島雄)に興味を持ちました。
ご自分が書き上げた小説『恋するひじりたち』『死にとうなかったひじりたち』を書き上げるまでの取材の遍歴、取材した人とのあれやこれやが書かれている。お寺や寺の住職などを取材しておられるのだが、面白い。元々わたしに仏教に対する興味があるからかもしれない。
盤珪という禅僧が出てくる。《幼年時代に海に出て死のイメージに恐怖を感じ、壮絶な修行を経たのち、生まれたままの不生なる仏心という悟りを得た盤珪。》と。
盤珪についてはわたしに思い出がある。
昔、ちょっと禅をかじった時に、ある大先輩(禅の)のお宅で盤珪の書を見せていただいたことがある。紙面いっぱいに「死」という文字が太い字で書かれていて、印象に残った。その字を示して、その大先輩居士は明かした。
「この字、ここ、なぞってあるのがまる分かり」と。なるほど、わたしのような素人が見てもなぞり書きがわかる。
こだわりがないというのか、豪胆というのか、であった。
ついでに書くが、その大先輩というのは医院を経営しておられた医学博士だった。
「この(死と書かれた)書は患者さんの見えるところには飾れない」と言っておられたのを思い出す。
ま、ほかにも興味深い禅僧が出てくるので、わたしは面白かった。機会があればその本も読んでみたいと思った次第。

次の大井浩一さんの「大阪 豊崎」。
大井さんは毎日新聞学芸部編集委員ということだが、わたしはこの人の文を初めて読む。さすがに上手ですね。
「豊崎」とは大井さんが幼少時を過ごした所。そのころの思い出が語られるのだが、自分の思い出に照らし合わせてみて(比べてみて)、大いに興味深い。こんな箇所がある。
《豊崎という地名は、遠く飛鳥時代にあった難波長柄豊碕宮(なにわながらのとよさきのみや)に由来するものらしい。》
そしてこんな文章につながって行く。
《(略)けれど、はるか古代の都に由来するこれらの土地の名前には、確かにある独特の、懐かしい響きが聞き取れるように思われた。》
ここを読んでわたしは激しく動悸する思いがした。

この写真を見て頂きたい。

この色紙、わたし毎日見ています。店に飾っています。
足立巻一先生の色紙です。「日本の詩は神名に始まると考えた」。
先の大井さんの文章と強く通じるものがありませんか。

もう一枚写真を。

これは拓本です。
播磨中央公園にある詩碑から取ったもの。
といってもわたしが取ったものではありません。
宮崎修二朗先生と、坂野訓子女史がお二人で取って下さり、わたしに授けてくださったものです。
この詩は『雑歌』(足立巻一著)の中にあります。微妙に文が違いますけどね。
←二段階クリックで。
本の上に置いた写真は拓本を取った時に撮ったもの。モミジの葉はその時拾ったもの。
本に挟んでありました。
本に挟んであったものにもう一つ面白いものがありました。
鈴木漠さんによる「足立巻一の詩」という8ページの講演録。2004年のものですね。楽しいエピソードが載ってますが、また機会がありましたら。



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