ねずさんが正月恒例の霊(ひ)のお話を書いてくれています。この教えをしなくなった戦後の教育には本当に怒りしかありません。
この教育を受けていれば神社の参拝などでも恥を掻かずに済んだことでしょう。こういうことをしってこそ文化も理解出来るというものです。
やはり文化を大事にする教育は大事です。
何時ものように全文をリンク元で読んで下さい。
ねずさんの学ぼう日本 2023/01/03
霊(ひ)のお話
・・・略
初詣に神社に行きますと、そこで二礼二拍一礼をします。
次に両の手のひらを合わせたあと、右手を左手の指先の第一関節のあたりまで少し下げて、二拍手します。
なぜ右手を下げるのかというと、参拝は神様に「我が身」がご挨拶させていただくのではなく、「自分の霊(ひ)」が神様にご挨拶するからです。
神様にご挨拶するのは、自分の肉体《身(み)》ではなく、自分の魂《霊(ひ)》です。
ですから「霊(ひ)」を意味する《左手》を前に出し、身(み)を意味する《右手》をすこし引きます。
これは玉串奉納も同じで、玉串は「時計回りにまわして祭壇に捧げる」などと説明されますが、時計回りはその通りなのですけれど、要するに最後に祭壇に捧げる段階で、榊(さかき)を持った自分の左手が神様の方に差し出されるのです。
これもまた「霊(ひ)」が先、というところからきています。…中略
私達の先輩の世代までは、幼い頃に数詞として「ひふみ」を教わり、その言葉の持つ意味を成長して学識を得ることによって、それぞれがさらに深い知識とし、これを生きる意味にしていったのです。
伝統が、伝統になったことには、ちゃんと意味があるのです。
そしてその意味が、誰もが納得できる良い内容を持つから、千年以上も、生き続けた伝統となっているのです。
日本人としての、古くからの文化を取り戻すことが、日本を取り戻すということです。
文化を取り戻すというのは、政治を変えるなどということと比べると、かなり遠回りであるように見えます。
けれど実は、日本を取り戻し、日本を変え、世界を変える、もっとも近い道程です。
そのひとつが霊(ひ)の概念です。
日本をなんとかしなければならないと、焦る気持ちはわかります。
しかし、だからといって、焦って過激な行動に走ることはNGです。
まして、日本を変えたい、日本を良くしたいと言いながら、他人や他国の悪口を言って名誉を奪ったり呪ったりすることは、本来の日本人の道ではありません。
そもそも、誰かやヨソの悪口を、向こう百年言い続けても、その誰かが変わることはないし、他所の国が変わることもありません。
相手が変わらないとわかっていながら、ただ文句を言い続けるのは、すこしきつい言い方になりますが、ただの愚痴です。
そもそも悪口を言ったり足を引っ張ったりして、いったどういう未来を築きたいのでしょう。
招く未来は、人と人とが互いに罵り合い、愚痴や悪口を延々と言い立てる、そういう未来でしょうか。
招く未来が、人と人とが互いに切磋琢磨して、より多くの人々が豊かに安全に安心して暮らせるようにしていく、そういう未来にあるのなら、いま心得るべきこと自体が、自分から率先して切磋琢磨し、人々の豊かさや安全や安心に寄与する行動であり発言でなければならないのです。
日本を良い方向に向けるということは、良い方向を向いた日本人を増やす行動をするということです。
そしてそのために必要なこと。
それは、霊(ひ)を自覚することです。
見えない世界は、あります。
知らない世界は、膨大です。
そして世界はいま、「支配の世界」から、「知る世界」へと変わろうとしています。
その過渡期においては、既存のシステムを誇示したり守ろうとしたりする動きが顕著になります。
それこそが末期行動です。
すればするほど、世間から見放されるのです。
また新しい動きには、デマがつきまといます。
それだけにひとりひとりが真実を見抜く目が必要になります。
「知る世界」は、古語でいえば「シラス(知らす、Shirasu)」世界です。
それは日本古来の万年の知恵です。
それにしても、日本の文化の奥深さには感動するばかりです。そして、それを教えようとしない日本の教育には呆れるばかりです。
折角の素晴しい文化を持ちながらそれを教えられない以上さに日本人が気が付かないかぎり日本の再生は無理かも。
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