昨日たき火で喜ばしてくれた武田邦彦 (中部大学)先生がよりによって私が一番期待している太陽光発電を否定しています。ちょっと腹立たしいですが、全文を引用させて貰います。
混迷の時代をどう生きるか? (12) 太陽電池
家庭から出るゴミは一括して焼却するのが一番良い。これほど、わかりやすいことでも、自治体と焼却炉メーカーとの癒着や、プラスチックの焼却に対する誤解などの本当に初歩的なことで実施されなかった。
温暖化では、海の浮いている氷が融けても海水面が変わらないという初歩的な物理学の知識に反することでも10年来、報道され続けるという奇妙なことも起こる。科学技術立国と言いながら、ほとんど魔女狩り時代と同じような世論形成である。
このような社会では、少し難しい課題になると、余りに多くの見解がでてわけが分からなくなる。その一つが太陽電池だ。
石油が枯渇した時代は別にして、現在の状態で「太陽電池が石油に変わる電力源になるのか?」という問に対して、包括的に答えれば、
・・・電力会社がやらないものは有望ではない。
とまず答えることができる。
そして、次に「大量生産すれば、価格も安くなり普及するのではないか?」という問には、
・・・生産技術があれば、大量生産すればどの程度の値段で提供できるかは簡単に計算できる。その計算もできなければもともと、工業をはじめることはできない。
と答えることができる。
さらに、「補助金で太陽電池の研究を促進すれば実用化できるのではないか?」という問には、
・・・もしも研究して成功しそうだったら、太陽電池は大きな収益になるだろうから、一流企業は補助金が無くても自分のリスクでやる。
と答える。
日本がこれほどの大工業国になったのは、技術課題について正確に判断し、研究開発し、そして実用化できる力があったからに他ならない。工業の中には製鉄やDRAMのように超大型投資が必要なものがあり、それも日本の工業はこなしてきた。
太陽電池は「普通の人」までが「有望」と言っているのだから、本当に有望なら日本の企業が競って研究開発をする。そんなことは当たり前だ。
それではなぜ太陽電池の研究開発に税金を投入するのだろう。
それは太陽電池が有望ではないからだ。ここで「有望ではない」という内容が問題である。科学だからどれもこれも最初は有望ではない。だから、初期段階では有望でないものにお金を投じるのは意味がある。
でも、何10年も研究しているものは、すでに技術的には課題が抽出され、その成功確率もある程度、判っている。そしてそれを打破するには何をしなければならないのかもおおよそ判明している。社会はそれほど甘くはない。
有望な研究開発には、多くの企業が群がり、先陣争いをする。その活力が日本の工業を支えてきた。
ここまで来ても、さらに次のような意見があるだろう。
「確かに、産業としては魅力が無くても、環境を守るために」
というものだ。
抽象的ならこの考えもあり得る。でも、このときの「環境を守る」というのはどういう意味だろうか?少なくとも、太陽電池を使うことによって石油の節約にならなければならない。それは可能だろうか?
かつて、私の研究室に環境に関心のある学生がいて、どうしても太陽電池の研究をしたいと私に希望する。私はその学生の将来も考えて「それでは、助手の先生と二人で太陽電池が環境によいかを計算し、もし、良いようだったらやろう」と言って半年ほど検討させた。
その学生は社会の判断をそのまま受け入れていたから、太陽電池は産業としてはダメでも環境には良いのではないかと信じていた。
しばらくして、その学生は結局、別のテーマを研究し、「まっとうな道」に進んだ。学生は自分でジックリと計算して、太陽電池の将来性が無いことを理解したのた。
その時の主な理由は、
1) 太陽電池で生じる電力で次の太陽電池を製作するまでに30年ほどかかる(保守なども含む)
2) シリコンパネル以外の付属施設の負荷が大きい。つまり光からの変換効率を高めてもダメ。
3) 立地によってかなり発電量が違う。
4) 太陽電池を敷設したところは動植物が絶滅する。
ということだった。
太陽電池が環境に良いという抽象的なことを言って、補助金をもらうことはできる。でも学生の勉強は一生を左右することもある。先生は自らの意見に固執せず、かといって学生の将来の道を間違わせないようにしなければならない。
この場合は上手く指導できた。そしていつの日か、新しい技術が誕生して太陽電池の概念が変わり、研究開発に値するテーマになる可能性もある。それは科学というものは現在を覆すのが役割だからだ。
情報が錯綜する時代。その時代だからこそ、情報を発信する側は簡単に物事を発言したり、発信したりするのではなく、一つ一つをよく考え、そしていったん発信した後も、間違いを修正する勇気も持たなければならない。
そして研究も日進月歩する。今までダメだったものがある発明で覆るときもある。そんな時でも心を素直にしておいて、新しい技術を歓迎する度量も必要だろう。
(平成20年3月17日 執筆)
太陽光発電に対する批判は多いですが、ここまで否定しているのも珍しいのじゃないでしょうか。特に、「太陽電池を敷設したところは動植物が絶滅する。」というのは初めてです。どういう意味なのでしょうか。電池の下は太陽が当たらないという意味なのでしょうか。それはどうせ陰になる屋根に取り付けるのですから問題は無いはずなのですが。
いずれにしても、将来太陽電池がものにならないかそれともコストダウンに成功して爆発的に普及するかは私にも自身はありません。
しかし、私は、これは絶対成功させるべきエネルギーだと信じています。これをものにできないようでは人類の未来は無いとさえ思っています。
先生も否定しながら、最後には可能性までもは否定していません。やはり、迷いもあるのでしょうね。
これは私が勝つ!