70年代頃からだったでしょうか各県に1校ずつ医科大学が設置設置され、香川大学医学部が全国でも最後の方に出来た頃、これからは毎年多くの卒業生が出てくるので医者が余ってくるので医学部に入るのも考えものだと言われていました。
その頃に刷り込まれたそのイメージが強いので、最近の医者不足というのがどうしても不思議に思えて仕方ありませんでした。
その疑問に答えてくれる記事がありました。
頂門の一針
厚労省を徘徊する亡霊石岡 荘十
「医者が増えると、医療費が増加する」という学説「医師誘発需要説」を元厚生省保険局長、吉村仁がぶち上げたのは1983年のことだった。
直後、アメリカの医療経済研究者のグループがアメリカでの実験結果に基づき「医者が10%増加しても外来患者の受診頻度は0.6%の上昇にとどまる。
確かに吉村学説は科学的には妥当な面もあるが、社会学的に与える影響には疑問の余地がある」と水を差したが、当時は誰も聞く耳を持たなかった。
吉村は論文や講演・国会答弁などで「医療費亡国論」を展開し、多くの関係者の間で、「医者が増えると患者が増え、ゆくゆく医療費の増大は国家予算を破綻に追い込む」というコンセンサスが出来上がっていった。
吉村元厚生省保険局は相当なやり手だったようで、「厚生省の歴史を変えた男」「ミスター官僚」と後に呼ばれる伝説的な人物だった。「医療費の現状を正すためには、私は鬼にでも蛇にもなる」と啖呵をきったとも伝えられる。
当時の武見太郎日本医師会長の退陣で業界からの圧力が弱まったこと、中曽根内閣の増税なき財政再建論が幅を利かせていたことなどの時流にも乗って、「医療費を減らすためには、医者の数を削減すべき」とぶちまくり、当時の金丸信幹事長や橋本龍太郎厚相ら田中派幹部の根回しに奔走。政界入りを熱心に口説いた田中角栄の邸に自動車のトランクに隠れてもぐりこみ、「医療費亡国論」を力説したという伝説が残されている。
それやこれやで1984年、ついに医学部の定員の7%削減、保険者本人の医療費1割負担(原案は2割)などを実現。吉村は次官に上り詰め、退官するが、86年、肝臓癌で死亡。享年56。広島第一中学校三年のとき、原爆投下に遭遇しているが、奇跡的に被爆はしてはいないということになっており、死亡原因との関係は不明だ。
ともかく以来、政府はなにかというと吉村学説を根拠に医師定員削減を推し進めてきた経緯がある。そのツケがめぐりめぐっての今日の医師不足なのである。
ところがその後、医療経済の分野について各国で多くの追加研究が行われる。結果、驚くべき成果を報告した、1990年以降、アメリカや北欧で行われた全ての実証研究が「医者を増やしても、需要(患者の数)は誘発しない。医療費も増加しない」と吉村の「医師誘発需要説」を真っ向から否定したのだ。
医師一人当たりの稼ぎを根拠に医療費が増えるというのは、“暴論”だとまで言われるようになっている。・・・以下略
参考: 編集長村上龍 Japan Mail Mediaより
第7回「日本の医師不足~第二回 一県一医大構想と医師誘発需要」 配信日:2008-06-18
どうして何時までも医者余りが問題にならないのだろうと不思議におもっていたら、それどころか医者不足なんて言い出したので一体どうしたのだろうと思っていたらこんな動きがあったんですね。全く知りませんでした。
この局長さんも信念を持って動いたのでしょうが、読み違いというものは後の時代に大変な問題を残すものですね。しかし、本当に悪いのはそれが間違っていると気づいても変えようとしなかった後の世代の人たちでしょう。
それにしても、こうした事例はきっと沢山あるんでしょうね。最近で言えば派遣制度などもまさかここまで日本の国を窮地に追い詰めるとは誰も思わなかったんでしょうね。張本人の小泉さんも反省しているようには思えませんから。
やはり日本を導く素晴らしい頭を持ったリーダーが必要かもしれません。
無理のようですが!