日本の神道は、本当に不思議です。と言うか、一神教の方が人間としては異状なのかもしれません。
もしかしたら、日本人は人類として当たり前のことを受け入れてきたのかもしれません。
いずれにしても、神道が日本に残っていることにこそ日本人の凄さがあるのかもl
「偉人伝心」が、そんな神道を取り上げてくれています。
それにしても、日本は特殊な国のようです。東の果ての島国ということも影響しているのかも。
やはり、日本は素晴しい国なのかも。
日本の神道は、本当に不思議です。と言うか、一神教の方が人間としては異状なのかもしれません。
もしかしたら、日本人は人類として当たり前のことを受け入れてきたのかもしれません。
いずれにしても、神道が日本に残っていることにこそ日本人の凄さがあるのかもl
「偉人伝心」が、そんな神道を取り上げてくれています。
それにしても、日本は特殊な国のようです。東の果ての島国ということも影響しているのかも。
やはり、日本は素晴しい国なのかも。
神道について考えだしたのはネットのおかげです。それまでは、神道なんて胡散臭いものだとしか勘が得ていませんでした。
それだけに、未だに神道とは何かがよく分かってない。その神道の歴史を詳しく解説してくれている動画がありました。
」「和の道」神道・日本文化チャンネル」より
神道も奥が深そうです。それにしても、一神教じゃないこんな宗教を信じてきた日本人は素晴しいようです。
聖徳太子が仏教を受け入れたことをねずさんが教えてくれましたが、それは中身というより大調和という大きな考えがあったようです。それこそが日本の精神のようです。
何時ものように全文をリンク元で読んで下さい。それにしても、日本は本当に素晴しい国ですね。シラス国を造り上げたのも必然だったのかも。
ねずさんの学ぼう日本 2023/02/27
敬神の詔と大調和の精神
・・略
どんなことでもそうですけれど、すべてのことの成り立ちには、その理由と歴史があります。
日本における大調和の精神というものも、はじめからあったわけではなくて、時代ごとに様々な経験をしながら、そのなかで必死に調和の道を模索し続けた結果が現代に至っているものです。
とりわけ信仰上の対立となると深刻で、まさにいまでもそのために戦争が起きています。
さらにこの「信仰上の対立」に、「有力者の経済的得喪」が絡んでくると、事態は更に深刻で、国際外交であれば戦争に至るし、国内問題であればほぼ間違いなく内乱になります。
そして、乱や戦争が起きれば、都度、犠牲になるのは一般庶民の若者たちです。
元海軍航空隊松本裕昌氏は、次の言葉を著書の『我が予科練の記』で述べられています。
我々は、今後決して、
権力者の野望を満たすために、
若者のエネルギーを、命を、
奪ってはならないし、
また奪われてはならない。…中略
仏教に帰依し、信心することも大切です。
同時に幽通乾坤のための祭祀も大切です。
前者は信仰であり、後者は生活習慣です。
対立する必要はないのです。
こうして我が国は、神道と仏教を見事に大調和させていきました。
後年の歴史において、我が国ではこの詔の後、仏教宗派同士の衝突は起きていますが、神社間の争いはおろか、神社とお寺の対立や闘争は、ひとつも起きていません。
このようにして、我が国は大調和の精神を熟成してきた歴史を持つのです。
やはり、こんな大調和を成し遂げるのは日本だからのようです。世界にそれを求めるのは無理なのかも。
人類の未来は甘くなさそうでそう。
及川幸久さんが「むすび大学チャンネル」で、プーチンとカールソンの対話を取り上げてくれています。
宗教の視点からの話題が興味深いものがあります。やはり西欧は宗教が底辺にあるようです。
こういう考えがあるから世界は仲良く出来ないのかも。やはり神道は素晴しい。全ての一神教は神道の下に入るべきなのかも。
やはり、宗教じゃなく道という神道は素晴しいのじゃないでしょうか。それを貫いて来た日本は本当に凄い。
聖徳太子が仏教をすすめたのを不思議に思っていたのですが、ねずさんがその疑問を解いてくれています。
何と、神道は生活習慣なのだそうです。それだからこそ仏教を受け入れることも出来たようです。
やはり、日本は凄い国です。
何時ものように全文をリンク元で読んで下さい。
ねずさんの学ぼう日本 2023/02/14
敬神の詔と大調和
・・・略
こうして我が国は神道と仏教を見事に大調和させていきました。
この大調和の精神は、それから1400年以上経過した我が国において、いまなお生きています。
では、なぜこのような調和が可能だったのでしょうか。
その答えは、我が国の神道そのものの形によります。
神道というのは、1万7千年前に始まる縄文由来の我が国の生活習慣です。
食事をいただくとにき、大地や山川海の恵み、その食材を採取したり作られたりされた方々への感謝、食材を加工して食事にしてくださった方々や、食器を 作ってくれた方々、その食器を毎日洗ってくださっている方々、そうした「自分の口に入るまでのすべての恵みに感謝を捧げる。
食事は、西洋医学ではただの肉体の栄養素ですが、我が国では古来、食事はその食材が持つ固有の波動や、作られた人々の思いの全ての波動を一緒にいただくという思考をします。
そして感謝を捧げるために祈る、あるいはどこかに出かけるときに、道中の無事を、行く人も待つ人も一緒に祈る。
その祈りのときに両手をまっすぐに伸ばして手を合わせるのか、両手の指を組んで祈るのか、礼として頭を下げるのか、ひざまづくのか、それらはすべて古来からの様式であり、国や民族ごとに違いがあるものです。
ついでに言うなら、1日一食か、1日三食か、おやつを何時にいただくのかだって、生活習慣です。
そうした生活習慣を、ご先祖たちと共有することで、いまのこの瞬間を未来や過去と繋げていく。
ですから我が国の神道には、教義も経典もありません。
なぜなら神道は、生活習慣だからです。・・・中略
そうして人々が、生活習慣を見直したとき、争いが終わるのかもしれません。
もしかすると、日月神示が語るミロクの世というのは、まさに日本の女性リーダーが、祈りの存在として世界最高権威となる世のことを言うのかもしれません。
そして世界が、ふたたび大調和の世界となっていくことが予言されているのかもしれません。
神道は道だと教えてくれたのもねずさんでした。生活習慣であり道であるから他の一神教も受け入れることが出来たと言うことです。
やはり、日本は凄い国です。神道の時代が来ることもあるのじゃないでしょうか。
天照大神は女性と信じていたし、それを誇りにも思っていたものです。ところが男であるとの説があることを知りました。
その謎をねずさんが「むすび大学チャンネル」で、解き明かしてくれています。
なる程、天照大神は男女の別の上ということのようです。
それにしても、天照大神という素晴しい最高神を持つ日本は面白い国です。やはり、世界とは違うようです。
日本の神道が一神教と違うことを知ったのもネットのおかげだったような。それを教えてくれたのもねずさんだったような。
今回も、ねずさんが書いてくれています。明治維新の頃の新しい翻訳により宗教という言葉を作ったのが勘違いの元だったようです。
やはり、明治維新の功罪はいろいろあるようですが、こういう西欧崇拝も問題があったことは間違いないようです。
もう一度見直してみる必要もうあるのじゃないでしょうか。
何時ものように全文をリンク元で読んで下さい。
ねず さん のひとりごとより 2023/12/20
「道」と「教え」と「つながり」がもたらす日本文化
・・・略
最近よく、「こうすれば人生をひらくことができる」とか、「こうすれば幸せになれる」、「こうすればビジネスで成功できる」といったハウツー(how-to)ものが流行りです。
こうしたハウツーは、方法や手順を教えるものですが、現実には、そのとおりに実践したからといって、必ずしも幸せになれたり、ビジネスで成功できたりするものではありません。
このことは、「こうすれば成績が上がる」、「こうすれば受験で合格できる」といったハウツーは、なるほど合格のための近道を教えてくれるものではあるけれど、結局のところ、本人がモチベーションを維持してまじめにコツコツと勉強しなければ、決して成績があがることはないことを考えれば、明らかなことではないかと思います。
つまり教えというのは、わかりやすくするためにすこし極端に例えれば、合格のためのハウツーです。
けれど合格するかどうかは、受験の当日までの道を、まじめに一歩一歩積み重ねることができたかどうかによって決まります。
日本人の宗教観が、ここにあります。
日本人は、自分が人生という道を歩むにあたり、日々コツコツと仕事や育児、良好な人間関係等に励むとともに、それらをより良いものにしていくためのハウツーとして、読書もするし、勉強もするし、世界中のあらゆる教え(その中にはキリスト教も、回教も、ヒンズー教も、儒教も道教も、あるいは新興宗教さえも)得ようとします。
仏教も、もともとは釈迦の教えですが、日本に来て、日本化したといわれています。
それがどういうことかというと、仏教(ぶっきょう=仏の教え)が、仏道(ぶつどう=仏になる道)化したということです。
人によっては、これを日本教と呼ぶ人もいますが、道と教えは異なりますので、やや紛らわしい表現だと思います。
そしてこのことは、日本文化の大きな特徴でもあります。
なぜならその文化の根幹が、「支配」にあるのか「自由」にあるのかの違いでもあるからです。
国王が支配する、あるいはひとにぎりの大金持ちが支配する、あるいはディープステートなるものが人々を支配する。
そうした支配の社会においては、人々が支配に従う「教え」が必要になります。
なぜなら人々が自らの「道」を求めるようになったら、支配者の言うことなど聞かなくなるからです。
日本は稲作の国です。
米作りは、民間の仕事です。
民間が、上から言われて仕方なくお米を作るのではなく、自分たちが食べるためにお米を作る。
そしてそのお米を、みんなで二年分(つまり新米と古米)を備蓄することで(古古米から食べることによって)、万一の天然の大規模災害が各地で起きたとしても、互いにお米の融通をし合うことで、互いに災害から生き延びることができる。
このお米の融通を調整するための公正な機能が朝廷です。
日本人が、なんだかんだ言いながら、どこかで政府を信頼しているのは、こうした長い伝統があるからです。
そして役人には、常に無私や公正が求められるのも、そのことが日本人の生存のために必要不可欠なことであったことによります。
そして、役人が権力を行使するにあたり、天皇という国家最高権威によって、民衆を「おほみたから」としました。
こうした一連の流れのなかに、我が国の国民の主体性が育まれています。
ところがいつの世にも、そうした社会体制を悪用して、我が身の贅沢を図ろうとする者が現れます。
これを許さない社会を築くための方法は、二つありあります。
ひとつは、武力をもって悪を許さないこと。
もうひとつは、民衆の中に、高いレベルの教育と、文化が育てることです。
日本が選択したのは、後者です。
人が正しく生きる道のことを、人道と言います。
人道が大切であることは、万国共通の常識です。
けれど人道は、教えではありません。
教えを通じて得る結果が、人道です。
これが「宗教」と、「神道」の大きな違いです。
これが日本文化の大きな特徴です。
日本で神道と仏教が融合できたことを不思議に思う人がおいでになります。
全然、そうではないのです。
日本人は、人として歩む道を得るため、さまざまな「教え」を得ようとしてきただけのことだからです。
神道と仏教の融合のことを「神仏習合」と言います。
それだけではありません。
日本では、儒教もまた神道と融合しています。これを「神儒融合」と言います。
お隣の国を視たらわかりますが、お隣の国にも儒教、仏教、道教などがありますが、それらは決して融合しません。
なぜならそれらはすべて「教え」だからです。
けれど、「教え」の前に「道」という概念がないのです。
だから、すべての教えは、私利私欲のために用いられることになります。
そういう意味で、「道」を根幹における日本人は幸せです。
なぜなら、すべてを「つなげる」ことができるから。
それにしても日本の神道は素晴しいですね。この先人の知恵を大事にしたいものです。
宗教、特に一神教の怪しさには驚かされます。何と、バチカンの教皇がモンゴルを訪問だそうです。何を企んでいるのでしょうか。
宮崎さんが取り上げてくれています。Chinaと裏で何かを企んでいるのじゃないでしょうか。
「宮崎正弘の国際情勢解題」より 令和五年(2023)9月2日(土曜日)弐 通巻第7893号
バチカンのフランシスコ教皇がモンゴルを訪問
「異教徒の国」へ何が目的か。200人の大使節団
9月1日、ウランバートルのチンギスハーン空港は異例の緊張に包まれていた。
ローマから九時間半かけて、バチカンのフランシスコ教皇(266代)がやってきたのだ。モンゴルはチベット仏教の国、キリスト教信者は1450名しかいない。司祭が25名いるが、モンゴル人はわずか二人。ローマからの使節団は、じつに200名。
教皇は中国上空を通過するとき、習近平あてにメッセージを送った。西側メディアは、こんかいのモンゴル訪問は、中国への本格的接近の前触れと分析した。
はたしてそうか?
バチカンの現在の教皇はイエズス会から選ばれた最初の教皇であり、しかも600年ぶりというコンクラーベ(教皇選出選挙)で、115名の枢機卿が五回の投票を経ての就任という異例の経緯がある。そのうえ、フランシスコ教皇はアルゼンチン出身というのも異例である。
イエズス会はゴアからマカオを拠点にザビエルが日本にやってきて布教したが、その「神の尖兵」という軍事的性格から日本での布教に失敗、秀吉が禁教とし追い出した。耶蘇教が日本に再上陸するのは明治である。
中国への進出はすでに七世紀、ネトリウス派(景教)が入り、これが中国経由で推古天皇期に日本にも伝わったという説がある。本格的な進出はマテオ・リッ チの功績によるところが大きい。リッチはマカオで中国語をマスターし、宮廷に近づき多くの著作を通じて、当時の中国の知識人に影響力をもった。
マテオ・リッチはマカオから広州で布教を開始したが、数学・天文学・地理学の知識や世界地図・地球儀などを中国に紹介した。またわが国の関ヶ原の頃に北京に赴き、万暦帝に拝謁した。
皇帝から北京に天主堂を建設することを認められ、『天主実義』『坤輿万国全図』などを中国語で著した。
このマテオ・リッチをフランシスコ教皇は5月31日にピエトロ広場で行った演説で触れて高く評価しているのである。
これまでの教皇と違ってフランシスコ教皇は他宗教との対話を重んじ、ユダヤ教、イスラム教、プロテスタントなどと頻繁に対話に取り組んできた。
何が狙いか。物見遊山でないことだけは確かである。
宗教は人類を救うのかと思ってましたが、全く逆のようです。やはり、神道が一番のようです。
どんな素晴しい宗教も組織となると完全に腐敗するようです。これが人類の限界なのでしょか。
大阪への単身赴任の時、お伊勢さんへは行ってみたいと思ってましたが残念ながら実現せずに終わりました。
寿命を考えてももうその機会はないようです。やはり、思いついた時にやっておかないと機会を失うことになるようです。
その伊勢神宮をねずさんが、むすび大学チャンネルでねずさんが語ってくれています。
それにしても、こうした文化を大事にしている日本は凄い。とは言え、式年遷宮の費用を国家として賄わないのが戦国時代と戦後の現代というのは何とも残念ですね。
これこそ、劣化した日本の象徴じゃないでしょうか。
世界の戦争の裏に宗教があることに宗教の本来の目的とは全く逆のことをやっていると不思議で仕方ありません。
それだけに一神教を信じられないものがあります。とは言え、それもネットでねずさん達に神道や一神教の本当を教えてもらったからです。
それにしても、今更ながら神道の素晴らしさに感動します。
今回も、ねずさんがそれを書いてくれています。
何時ものように全文をリンク元で読んで下さい。
ねずさんの学ぼう日本より 2022/09/28
日本の神と世界の神
・・・略
こうした文化がどこからきたのかというと、はるか縄文以前から、日本は海で魚を採って暮らす海洋民族として生活してきたことによります。だから縄文時代 の遺跡には、すべて貝塚があります。貝塚からは釣り針も出土しますが、釣り針があるということは、魚を獲って暮らしていたということです。では釣り針に使 う「釣り糸」はどうしていたのかというと、これには女性の髪の毛が用いられました。男性の髪と異なり、女性の髪は細くしなやかで丈夫です。このことが長い 歳月の間に「髪は女の命」とまで言われるようになりました。
男たちがどんなに器用に丁寧に素晴らしい釣り針を作っても、髪の長い女性がいなければ、釣り針を使うことができないのです。だから女性の髪は神であり、 そこから女性そのものが神とされ、このことがいまでも「カミさん」という日常語として遺っているわけです。ちなみに西日本では「ヨメ」と言いますが、これ は「良い女(め)」という意味で、カミさんと同じ考え方に基づきます。
江戸時代まで、日本では旦那が働いた給料は、その家に支給されるものというのが、古来のしきたりでした。すべてが世帯を単位に考えられ、夫の小遣いを含 めて、世帯の中の一切のやりくりを見るのは、女性である妻の役割とされてきました。武士も同じで、旦那の俸禄は、お殿様からいただいているというより、現 実的には妻からもらっているようなものであり、何事も世帯全体で責任を持って行うというのが、日本における常識であったわけです。
近年の日本では、西洋的個人主義が礼賛されていますが、給料が世帯を単位に支払われ、すべての家計の実験を奥方が握り、家族の誰かが悪いことをすれば、世帯全員が処罰の対象となり、重罪であれば、親族にまでその影響が及ぶという社会構造からは、犯罪行為も自粛されます。
日本にあった長くて古い文化は、もしかすると古代において世界に影響をあたえたものかもしれません。そしてもしかするとこれからの世界を、個人主義から、世帯単位の家族主義に変えていく、大きな役割を担っているのかもしれません。
この神道の素晴らしさが世界を救うことになるのは間違いないのじゃないでしょうか。
何故、人類だけが魂を持ったのでしょうか。その下手な魂を人類が持ったばかりに殺し合いという戦争が収まらないことを考えればなまじ中途半端な魂なんて必要なかったのじゃないでしょうか。
そんなことを勘がえさせてくれる本が出たようです。宮崎さんが書評で取り上げてくれています。
何と、神は死に、武士道も死に絶えようとしているのだそうです。これは納得するものがあります。
「宮崎正弘の国際情勢解題」より 令和四年(2022)6月30日(木曜日)
通巻第7388号 <前日発行>
書評
ウクライナ戦争を横目に、本書を読むとものごとの本質がみえてきた
愛と憎しみの大地で「神は死んだ」。日本の武士道も死に絶えようとしている
執行草舟『日本の美学』(実業之日本社)
おりからロシア v ウクライナ戦争の原稿を評者(宮崎)は書いていた。キリスト教が分裂し、東ローマ帝国が崩壊した 後、ヴィザンツの東方正教会の教えはポスポラス海峡を越えて、アナトリア半島から北東へ向かい、アルメニア、グルジア、 ウクライナからロシアへ達した。
他方、ポーランドはカソリックであり、その昔、ポーランド領だったウクライナの西側はカソリックが強い。憎しみがうず まくウクライナのカソリックvs東部のウクライナ正教が、この戦争の基層にある。
執行言行録がはじまる。「人間とは魂の生き物なのです。魂を失えば、我々の肉体は犬や豚と何ら変わりません(中略)。 人間の価値というのは何かと言うと、その肉体の中に入っている魂の問題なのです」(38p)。
しかし「キリスト教は(仏教と比べると)つまらない。その本質が信じるか、信じないかだけだからです。信じれば善人 で、信じない者は悪魔です。しかし、そのつまらない所がキリスト教の力」であって、「キリスト教徒でない人間などは、殺 したほうが良いくらいに思っています。だから戦争も強い」(52p)。
なるほど、いまのウクライナを観ていると、まさにそうではないか。
欧米政治とは欺しあい、過酷な外交合戦であり、偽善がはびこる。そのなかで残虐にも手を染め狡智なはかりごとにも手を 出して、交渉ごとに手腕と発揮した老獪な政治家に、クレマンソーがいる。
筆者の執行氏は「なぜ偉大な政治家になれたか」と問い、それは「心の中が美しかったから」。だからこそクレマンソーは 「必要悪である残酷なことや悪いことも逆に出来た」(140p)。日本で言うと徳川家康か。
そこへいくと、チャーチルは善悪二元論の世界観しか持たなかった。
執行は「民主主義社会の最大の敵」は「魂の未熟」だと言う。即ち、「大人に成長したのに、子供のままの者」、或いは 「子供じみた精神を持った人が『悪人』だ」とトマス・ホッブスが言ったことを紹介する(156p)
いま流行の若者言葉で言うと「子供部屋おじさん」だろう。
そうした子供じみた精神をもった欧州の政治家が、ロシアを相手にまともな勝負が出来ず、ウクライナ支援にも熱狂的にの めり込めない。
「ヨーロッパはすでに崩壊を始めています。(中略)魂を失ったしまった。つまり神を見失ったのです。ヒューマニズムと いう人間中心主義の果てに、神を失い人間は滅びるしかなくなってしまいました」(330p)
ウクライナ戦争は事実上、ウクライナの国土と民を犠牲にしたNATOとロシアの代理戦争であり、信仰心の薄くなったほ うがいずれ敗れるだろう。
さて本書には執行氏の読書遍歴も語られ、葉隠、道元、カント、三島、ウノムーノとなると俄然、熱がこもる。青年時代の 執行氏が三島由紀夫と深く共鳴しあい、哲学を議論したというのは、おそらく葉隠であったのだろう。
氏の書斎を三回ほど訪問したことがあるが、はたと気がついた。ざっと観ても数万冊の蔵書だが、古典、文学、詩集、哲学、 思想書がぎっしりと並ぶ本棚に、時局もの、ハウツー読本、いわゆるビジネス書、経済書が一冊もないことに!
現世に興味がないという霊境が氏の書斎、思考空間である。
キリスト教は仏教に比べるとつまらないと言うのは面白いですね。それこそが、日本でキリスト教が受け入れられずに仏教が受け入れられた理由なのかもしれません。
それにしても、筆者がハウツー本などが一冊も持たないというのも自分と比べて驚かされました。やはり、自分を持たれている人は違いますね。
何故、日本人が神道以外の一神教のクリスマスなどを平気で受け入れるのか不思議です。
ところが、それをねずさんが解りやすく教えてくれています。何と、日本人は一神教の人達とは目標が違うのだそうです。
日本人はもっと上を目指しているのでその為には何でも取り込むことが出来るのだそうです。
これは納得しますね。
何時ものように全文をリンク元で読んで下さい。
ねずさんの学ぼう日本より 2022/06/02
韓信(かんし ん)の股くぐり
・・・略
日本では、実はキリスト教は、おおいに普及しています。
たとえば、クリスマスのお祝いや、プレゼント、あるいは「きよしこの夜」を歌ったりすることは、日本人なら、誰でも行いま す。
だいぶ以前ですが、知り合いのお寺のご住職が、ずいぶんと若い美人さんと結婚しました。
お寺の住職ですから、当然結婚式も仏式で行うのだろうと思っていたら、びっくり。
結婚式場に設置されている教会で、神父さんを呼び、新郎は白のタキシード、新婦も白のウエディングドレスでの結婚式でした (笑)
要するに日本人は、キリスト教を拒否しているどころか、おおいにキリスト教を社会に取り入れているわけで、決して拒否してい るわけではないということができます。
このことは、仏教においても同じで、仏教では死んだら極楽に逝くと説きますが、神道では死者の魂は神となってイエ・ムラ・ク ニの守り神となるとされます。
両者の考え方はまったく異なるのですが、なぜか日本では神仏習合で、神様と仏様は普通に共存しています。
もっと言うなら、現代日本では、神仏習合どころか神仏基(基は基督教(きりすときょう)のこと)習合なのであって、そのこと に疑問を持つ日本人はほとんどいません。
なぜこのようなことが可能になるのかというと、日本古来の神道が、「道」であって、「教え」ではないことによります。
受験に例えるなら、大学合格までの「道」があります。
その道を歩むにあたり、受験生は、良い教師に付いたり、よい教材を教わったりして、より確実な合格を目指して努力するわけで す。
神道(かんながらの道)もこれと同じで、縄文以来、我々は神様になるために生まれてきたのだから、そのために必要な良い教え であれば、仏教であれ道教であれ、ヒンズー教であれ、キリスト教であれ儒教や易経であれ、良いと思われる「教え」は、なんで も採り入れる。
つまり、日本人の目的意識は、よりよく生きることにあるのです。
教えそのものは目的ではありません。
そこに日本的思考、日本的価値観の特徴があります。
こうした文化的土壌の背景にあるのが日本神話です。
日本書紀によれば、イザナギとイザナミがこの世界を作ったのは、「豈国(あにくに)」つまり、「よろこびあふれる楽しい国」 を作ろうとしたのだと書かれています。
よろこびあふれる楽しいクニ、よろこびあふれる楽しい社会、よろこびあふれる楽しい人生を実現するために、良いと思う教えな ら、なんでも採り入れる。
目的がそこにあるのですから、キリスト教を学んでいる人であっても、「踏み絵」を踏まなければころすぞと言われれれば、何の 迷いも躊躇もなく、これを踏む。
それが日本人のしたたかさであり、日本人の強さの根源です。
まして、股くぐりくらい、なんでもない。
日本男児にとって、「恥は一時、志は一生」です。
志は一生は、何度読んでも心が痛みます。何といっても目指すべき志を持たずに人生の大半を過ごしてきたのですから。
ねずさん達にネットで合わなかったらそのままあの世に行っていたことは間違いないでしょう。なんとも危なかった。
呑百姓の我が家は浄土真宗だったので、葬式は当然仏式でした。根が単純なので葬式は仏教式しか無いものだと思っていました。
神道にも葬式があると知ったのもねずさんのお陰だったような。
そんな程度ですから告別式が仏教のものだとも当然知りませんでした。相変わらず知らないことばかりでお恥ずかしい。
そんな違いをねずさんが教えてくれています。
何時ものように全文をリンク元で読んで下さい。
ねずさんの学ぼう日本より 2022/04/13
神葬祭と告別式
・・・略
神道と仏教は、もともとはまるで違う教えです。
けれど日本では、この両者が見事に融合しています。
このようなことがなぜできるのかというと、日本が二項対立と闘争の国でなく、結びや和を大切にする国だからです。
「和魂(にぎたま)」というように、「和」と書いて「にぎ」と読みますが、もともとは大和言葉の「にぎ」が先にあって、その 意味に近い漢字が、後から当てられています。
「に」という訓読みを持つ漢字には、似煮熟燗などがありますが、ひとことでいえば雑煮のように、いろいろなものをごった煮す るような、つまりみんな混ぜてしまうことをいいます。
「き」には、気木生黄などがありますが、外に出て広がるものをいいます。
つまり外にある様々なものを、みんなまとめてひとつにする。
それが「にぎ」です。
だから漢字では「和」になります。
別な宗教が統合されるということは、世界ではありえないことです。
日本では普通に神仏習合と言いますが、たとえばチャイナで、道教と仏教が融合して道仏融合などという概念は生まれません。
なぜなら、基本となる文化が対立にあるからです。
我々日本人は、たいへんに古くて長い歴史を持ちます。
そして日本は、さまざまなものを、統合し、融合させて、日本文化を築いています。
それが何のためかと言えば、これからやってくるであろう未来を、極力、平和で豊かで安心して安全に暮らせる未来にしたいとい う明確な意思があったからです。
ここにも神道の素晴らしさが表れているんですね。全ての宗教を統合し融合する神道こそ世界宗教の頂点にしておくべきですね。
他の宗教を受け入れられない一神教は神道の傘下で大人しくしていて貰いましょう。
世界が人類を幸せにするための宗教で戦争をしているのは何とも皮肉なことです。それも金に目が眩んだ所為かもしれません。
それに比べて面白いのが日本人の宗教観です。これもシラス国の神道の御蔭と言えば言い過ぎになるでしょうか。
とは言え、神道・仏教・キリスト教などを信者でもないのに平気で使い分ける日本人を見て世界は驚いているようです。こんな自由は羨ましいでしょうね。
そんな面白い動画がありました。
宗教に縛られて戦争までする外国人から見れば本当に不思議で羨ましいでしょうね。これも全てのものに神が宿る神道の素晴らしさでしょう。
これも、やはり国民をおおみたからとするシラス国だからこそ成り立つのでしょう。やはり、日本人は日本に生まれたことだけで幸せといえるでしょう。
混沌とする世界の中で、イランの動きも気になるところですが、おかしなことが起きているようです。
あの暗殺されたソレイマニの銅像が建てられたり撤去させられたりしているそうです。
宮崎さんが報告してくれています。これも一神教の内部争いのようです。やはり、この宗教の世界では日本が一番進んでいるように思えます。
世界の宗教を神道が纏めるなんて時代が来ると面白いのですが、そんな日が来るのでしょうか。
「宮崎正弘の国際情勢解題」より 令和四年(2022)1月7日(金曜日)
通巻7181号
かのソレイマニ(イラン革命防衛隊軍事司令官)の銅像が屹立
イラン各地で突如出現し、気がつけば消えている不可思議
2021年1月3日、バグダッド空港近くで、ソレイマニIRGC司令官の乗った車列がドローンに襲撃され爆殺された。 IRGC(イラン革命防衛隊)の名前を聞いただけでも震え上がる戦闘部隊の親分として、600名の米兵の生命を奪った。
イランでは英雄視され、イスラム世界の過激派の間ではチェ・ゲバラ並みの扱いを受ける。
ソレイマニ暗殺でイランは国を挙げての葬送劇をおこない米国への復讐を誓ったが、彼がイコン化することはなかった。何故? イスラム教は偶像崇拝を固く禁じているからである。そして他宗教のイコンは破壊する。タリバンがアフガニスタンの石仏をミ サイルで破壊したように。
イラン各地に、ソレイマニの銅像が建立され、すぐに撤去されるというイタチごっこが続いている。地方都市で銅像が突如、建 立され、住民が騒ぎ出すとカバーを掛けられ、どこかへ運ばれる。ジロフトという町ではソレイマニの風貌が醜いとして撤去され た。
2022年1月5日、イラン西部のシャレフルト町で、住民が目ざめると、広場に高さ6メートルのソレイマニの像が屹立して いた。夜中に運ばれ、誰が何の目的で立てられたのか匿名性の行為。推定で、その像は3万5千ドルと見積もられた。
しかも、その夜、銅像にはガソリンがかけられ、焼かれた。イラン国営放送はヴィデオで放映した。たとえ「英雄」での偶像は 許されないのである。許可されるのはイベントにおける写真、ポスター程度であり、ゲバラのようにTシャツとなって売られるこ ともない。
げんにソレイマニのTシャツを作成したイラン人は、手配されてノルウェイに亡命したという情報がある。
ところが例外がある。
シリア、ヨルダン、パレスチナのハマス、ヒズボラ、イエーメンのホウシなどのテロリスト集団では支配地区に大看板やポス ターを掲げており、兵士のなかにはソレイマニのTシャツを着込んだ兵士もいる。
厳格なイスラム法を適用するイランと、そのイランから軍事金や武器を援助してもらっている過激派はやや趣の異なるシーア派の ようであり、また活動地点は世俗イスラム国家やスンニ派の領域であるからかも知れない。
どう見ても、世界の一神教は人類を救う宗教とは思えない。バカなことをやってるものです。
やはり、神道の素晴らしさを知って貰いたいものです。