ねずさんが戦前の日本人の凄さを紹介してくれて目から鱗の日々ですが、あの白骨街道の飢え死にしても退却する道の現地人から略奪や虐殺など一切せずに死んでいったということには、その凄まじいまでの日本人の凄さを思い知らされました。
それだけに、戦後の日本人の劣化が、GHQなどの企みとは言え、余りのも情けない。
その兵隊さん達以上に気高く戦ってくれた女性が沢山おられたことも忘れてはなりません。
ねずさんが、そんな従軍看護婦の悲劇を取り上げてくれています。やはり、日本の女性は強い。イザという時、男は敵いそうもないですね。
何時ものように全文はリンク元で読んで下さい。この方達も靖国に祀られていることに思い至れば靖国参拝を批判する日本人が信じられません。
もしかしたら、「日本に住んで日本国籍を持ち、日本語を話すけれど日本人でない者」でしょうか。
ねずさん のひとりごとよ り 2019年06月05日
シッ タン河畔で全滅した従軍看護婦・日赤新和歌山班の悲劇
日華事変から大東亜戦争にかけて、日本赤十字社から戦地に派遣された従軍看護婦の数は、約千班、3万人にのぼります。
このうち戦死者は、日赤発行の「遺芳録」によると1085人です。
戦争の初期には肺結核に侵されて倒れ、Chinaでは伝染病に罹患して戦地で没し、後期には銃弾や爆弾による戦傷死で散華さ れました。
その中から終戦直前にビルマに派遣された日赤新和歌山班のお話を書いてみたいと思います。
日赤の「新和歌山班」は、昭和18(1943)年11月5日に、日赤和歌山支部で編成されました。
班長1,婦長以下看護婦21、使丁1、計23名の構成です。
彼女たちは編成完了とともに、ただちに和歌山を出発し、海路でシンガポールに着。
そこから陸路でマレー半島を北上し、ビルマ(現ミャンマー)の山中にあるプローム県パウンデーに設置された第百十八兵站病院 に配属となりました。
この病院は、病院長の笠原六郎軍医中佐のもと、高卒のビルマ人女性たち80人を補助看護婦として養成していました。
新和歌山班の看護婦達は、着任したその日から、補助看護婦たちと手をとりあって、日夜医療業務に励んでいます。…以下略
それにしても、戦前の方達は凄すぎる。この方達に追いつくことは不可能かも。
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