団塊の世代のつぶやき

誇れる日本を取り戻そう

★菅首相、総裁選不出馬

2021年09月07日 | 政治の崩壊

 (スガ)さんも思い切った決断をされたものです。と言うか、回りの無能や国民に呆れて放り出したのかもしれません。
  それにしても、権力を握ったものにとっては一番難しい決断だったのじゃないでしょうか。案外権力に拘らない性格だったのかも。

  それにしても、これチャンスと総裁選に立候補するのが増えるのかもしれません。果たしてどうなることやら。
  と言うか、ここは正しい国家観と歴史観を持った高市さんしかないでしょう。他のバカ共が選ばれるようでは日本の未来は無い。

  宮崎さんが高市さんを暗示するような歴史を語ってくれています。面白い。

  「宮崎正弘の国際情勢解題」より   令和三年(2021)9月4日(土曜日)
 通巻第7038号 <前日発行> 

  管首相、突然の辞任は予想されていた
  横浜市長選敗北で孤立感、二階とともに政権を去るもよし

 高市皇子は壬申の乱で天武天皇の勝利を導いた立役者である。
 大海人皇子(後の天武天皇)の長男で、大和国高市郡にて育った。日本史を揺るがせた壬申の乱が勃発したとき、高市皇子は近 江大津京にいたが、すぐに行動を起こし、伊賀で父親の軍と合流した。

 天武天皇の陣には尾張氏ら有力な豪族が味方し不破関を占拠、各地に増員命令を出した。
 天武天皇は現在の四日市市郊外の高台に陣を敷いた。高市皇子は合流する豪族の軍隊を掌握し、大海に攻め込む手筈を整える。

 劣勢を知った大友皇子(弘文天皇)は自ら果てた。極めて短時日裡に壬申の乱は天武天皇の勝利となった。西国の豪族が近江に 合流しなかったのは防人任務の疲れと財政逼迫と言われたが、隠れた要素は大友皇子の出自(采女と天智天皇の間に生まれた)と 言われる。

 天武天皇薨去後、皇后の持統が称制を経て即位した。序列で高市皇子は草壁皇子、大津皇子に次ぐ皇位継承権第三位だった。だ が、直後に大津皇子が誣いられ、続いて草壁皇太子が薨御、天武天皇皇后だった?野讚良皇女が政権を掌握した経過がある。
 高市皇子は太政大臣にとなる。文字通り、持統天皇を支え、高市皇子の長男が後に大和朝廷の実権を握る長屋王である。

 壬申の乱の前段は「乙巳の変」だった。蘇我入鹿暗殺は、大化の改新へ繋がる嚆矢となる。
 大化の改新は西暦645年(この年から元号を制定し、大化元年となる)だった。。

たしかに中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)による蘇我入鹿の暗殺というクーデターが切っ掛けである。蘇 我稲目いらい、馬子があろう事か渡来人を唆して、安康天皇を暗殺し、入鹿は権勢を恣にしていた。父親の蘇我蝦夷も翌日、自殺 に追い込まれた。

従って「乙巳の変」とは暗殺事件による蘇我氏滅亡を指す狭義である。広義には公地公民などの政治改革は継続され、大化の改新 とは税制を改め、半世紀後の大宝律令へといたる天皇親政システムの確立にあり、難波への遷都も行われた。蘇我馬子は聖徳太子 の保護者にして実力者だった。蘇我氏に正面から楯突く有力者は不在だったが、舒明天皇擁立をめぐって滅ぼされることとなる。

 革新的な思想の背景に、留学帰りのイデオローグが存在した。南淵請康は渡来系の学僧だが、飛鳥に住んだ。覚えが速く、学識 豊かで、早くから外国語に通じていた。第一回遣隋使で留学僧に選ばれて隋へ渡った。シナは隋が滅び、唐王朝に交替していたが 南淵は留学を続け、32年後に飛鳥へ戻った。彼の帰国は640年のこととされる。

そして飛鳥の知識人、政治家、有力者に歴史、孔孟、四書五経など学問を教えた。南淵塾には中大兄皇子と中臣鎌足が通ってい た。鎌足は蹴鞠の場で中大兄皇子との接触に成功し昵懇となっていた。

 ふたりの密談の場所といわれる桜井の談山神社は、宏大な敷地を誇る。その境内の何処かに南淵塾があった。南淵請康の墓は蘇 我馬子の墓と言われる石舞台をさらに南下した明日香村にあり、小さな鳥居、大きな石碑、中規模の墓は苔むしている。

 さて、なぜ高市皇子のことを書いたか、もうお分かりだろう?
 高市早苗議員は奈良県畝傍高校出身、松下政経塾OB。むろん、高市皇子との血縁はない。


  やはり、ここらで正しい国家観と歴史観を持った総理を見てみたい。後は、どれだけ腹をくくれるかでしょうが案外安倍さんより腹が座っているのかもしれません。期待しましょう。


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