何故、憲法論議は広がらないか



今日、伊藤 真と言う法律家の講演を聞いてきた。
私は始めて目にした人だが、護憲派?で売れっ子の法律家らしい。
1時間半ほど、想像力も豊かな上、ワイドショウ的な切れ味と口調で参加者の気を反らさせない。斬新で面白かった。
 しかし私は心から得心できるものではなかった。
 確かに、改憲対護憲の(内向きの)向き合った関係で見ると内容的に分りやすく説得力もあったし憲法力(多分、大言力ではなく体現力のことだろう。)を身につけようと言う呼びかけは特に良かった。
 しかし、少し極端な言い方だが旧憲法感覚で護憲を主張していると思った。現憲法の精神を自分の中に人格化しての話には聞こえなかった。
 戦争と平和についても、戦争放棄=平和主義 言い換えると、戦争と平和を反対語のように対極化している。私は戦争をしていない今の日本が平和とは思えない。
 「幸福」を基準に、人の命や暮らしを見た時、戦争と平和を対極においていいものだろうか?
 さらに思ったのは、彼は49歳で、現代史の見識は私には推し量れぬほど優れているが、当然彼は戦争経験はない。
 憲法を解説するのに戦争経験のあるなしは基本的に関係はない。だからこそ、戦争経験がないのだから、戦争に縛られず、現実の『平和』を語ってほしかった。
 
 目にする改憲の論調は旧憲法の感覚で旧憲法への回帰を感じさせる。
 確かに改憲と護憲の主張は、導く日本の方向の違いを感じさせはするが、共に現実認識の狭さと、現実から遊離して直視しない甘さを感じる。
 若い人も、自分の言葉で憲法でも何でも語るがいい。無理して年寄りの文法に合わせて喋ることはない。(年寄りも気をつけた方がいい)
 人々が、しっかりと現実に向き合うなら、今日のような形で護憲や改憲を対峙させないだろうと思う。この2項対立に、言葉が先行した人為を感じる。

 憲法を学ぶこの企画をした人たちも、公演後に参加者とのすりあわせの時間を計画的に確保するのは当然だろうに。それが現憲法の人格的な感覚ではないか。

自然法を基にした『基本的人権』は憲法を語る以前の【法】のはず。

主張はどうあれ、本来の人権感覚を失した論議は意味が薄くなる。

世間で言われるほど改憲・護憲の憲法論議が国民の中に広がり高まらないのは、両者共に【現実】と【法】から目をそらし、その感覚を失しているからではないだろうか。

味に深みと広がりのない薄味のラーメン屋さんの前を急ぎ足の人々が素通りするのと理屈は同じ。

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まがい物と本物の混じり物

最近になって時々、自分を(まがい物と本物)の混じり物だなと思うことがある。
自分の自己顕示欲、他人に対しては猜疑心や不信感もよく頭をもたげる。だからといっていつもそうかと言えばそうでもなく、子供から学ぶこと知ってるし、老若男女に関わらず心底絶賛したくもなる。

 その変わり方も速く、同じ場所でも何かの瞬間に変わることがよくある。どちらかと言えば第一印象で悪い連想が発生する癖が頭に
こびりついているようだ。

 混ざり方は時によって違うし、今後も変化していくだろう。

 そんな自分が嫌かと言うと全くそんなことはなくむしろ(なかなかいい奴だ)と思っている。
どこのどんな人も似たようなもので、我々は混合物だ。


だから人との付き合いは変化があり限りなく面白いんだ。

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