塾帰りの子を見て

昨日映画を見た後の午後9時ごろ、駅の階段を塾の帰りに見える小学校3~4年生ぐらいの男の子が私の前を歩いていた。あまりからだの大きくない華奢な感じの子だった。「子供はこんな小さいときから枠にはめられるんだ」と改めて大変だと思った。私も小学校時代にはそろばん塾に通っていたし、中学では英語を習いに行っていた。でもやっぱり、これは逆行だと思った。この子は将来、苦労するだろうなと思った。世の中は大人が予測できないほど複雑化しめまぐるしく変化する。枠付けを強くすればするほど枠を抜け行動するのは難しい。勿論何もしないほうがいいといっているのではない、しっかり教育した方がいい。その力はどんな変化にも対応できる総合的な人間力である。人間力の大元は学校や塾や親が教えられるものではない。どんな人も生まれながらにして持っている力を強く大きく磨くことではないか。後からくっつけた力はそれだけの力でしかない。世の中はそんな生易しくはなく、求められるのは応用の出来ない優等生ではなく、鼻をたれていても応用の利く人間だ。経済的自立一つを考えても、去勢するような子育てや教育はいい加減にしてやめないと当の子供が難儀するはずである。親心のエスカレーターの次代ではなくなってきている。子供の学力の劣化は大人の人間力の劣化や本当の意味での学力不足が原因している。だから大人が子育ての塾へ行った方が早道だろう。枠にはめて得た力とはもともと持っていた力やそれを伸ばして得られる力と引き換えの力である。その側面のあることを忘れてはいけない。得るものと失うもののあることをしっかり見極めないから今日のように偉いことになる。大人の社会作りや教育政策の誤り、根拠のない流言飛語のもと親の責任と一方的に押し付けることは出来ないが無関係でもない。

華奢な子供が一段と小さく見えた。

                                 

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この世はあだ花か?

今日は月曜日で、一週間で唯一碁会所がお休みだった。午前中家の掃除をし、月一回、定例で来る銀行屋さんと30分ばかり世間話をしてから、近所の本屋さんに『プラスチックワード』と言う新聞で紹介されていた本を注文してきた。それから日本の株と少し付き合い午後になってテレビで防衛省の守屋さんの国会での証人喚問を見た。質疑のやり取りそのものがおざなりの感じだった。結局一個人のスキャンダルで終わらせるに違いない。夕方渋谷へ映画を見に行った。アメリカの社会派の作品だったが、ストリートよりアメリカの自然や街のようすがみたかった。背景になるシーンが少なく、少し残念。久しぶりに都心へ行き渋谷の駅前も人の流れに沿って歩いた。10時ごろ家の近くの居酒屋さんでビールを2本飲んで帰ってきた。囲碁はなかったものの、一日、充実した感じの一日ではあった。ただ、私の今の世界観である経済産業の【→】 (意味は前述)はどこにもかけらも見つからなかった。本屋さんでも本棚を探して見たが期待するのは見当たらなかった。国会論議や映画のどこからも見出せない。渋谷のファッショナブルな若者達は確かに魅力的だが、どこか危うい。最後に入った居酒屋さんでは、「やっぱり韓国のように徴兵制は大切だよ。そうしないと若者がしっかりしない」私が元教員であることを知っていってるのだろうか?「今の親は~だから先生方もやりにくい。」場末の居酒屋さんだから親しみのある会話ではあるが、渋谷の風景が、あだ花なら居酒屋さんの会話は、あだ花の素顔か?自分が現実社会から距離をとっているのか、現実が私から距離をとって
進んでいるのかはわからない。その乖離した間隔の中にあるのは、月から見た壊れかけてる地球の様子とその原因である地上の産業経済の発展方向の←(逆行)である。一人ひとりから見ると、自分の内・外の自然を無視したり壊したりしては一人一人も、社会も、地球も成り立たなくなると言い方を変えてもいい。本だなの本も、渋谷の賑やかさも、映画も、居酒屋の会話も、私の望むものは見一出せなかった。逆に、進んではならない逆行の船の中でのじゃれごとにさせ思えたものも数多くあった。この異常さはまだまだ直感的で漠然とし、説明できないものも多い。これからも、できるだけ一つ一つ具体的に明らかにし言葉にしてみたい。
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