世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
←と→
←と→は人間の最も基本的(文化や経済を成り立たせるベーシック)な進行方向を単的に表してみた。国会の与野党の質問や応答を見ていると,どの政党のどの議員も世界のベーシックなな認識を欠いた←をしっかり共有した上での意見の違いに見えて仕方ない。批判する野党も、答弁する与党も共に足の向きが←になっている。私が言いたいのは現在の産業経済の構造そのものがやがて必然的に成り立たなくなるはずなのに、現在の産業経済を受け入れそれを前提に論議している。富を得る方法が地球内で賄う自給自足からかけ離れ地球を掘り尽くし、焼き尽くす最も安易な今の産業経済の構造と発展の方向が、いつまでも持続し成り立つはずはない。既に、資源や地球環境に問題は顕在化してきているし、身近なところでも、「勝ち組負け組み」とか「格差」とか言っている以上に「共食い共倒れ」が蔓延している。しかし産業発展の向きを誰も問おうとはしない。土台となる矢印と言えども固定的ではないはず、少なくても現状を見れば、疑問ぐらいもっていいのではないだろうか?自分でも「偉そうに」と変な感じなのだが、これが私が今、親からもらった感覚で(普通だと)最も強く感じる事である。
文化・芸術の世界だって同じ。
進化と思考停止
昔、飯島○○と言う100メーターのオリンピック選手がいた、途中でプロ野球に転向し代走そのスペッシャリストをめざしたが、活躍できず2-3年後に廃業した。恐らく、この選手はただ走るのが速いのではなく、100メーターのスペシャリストでそっちの方の走法・技術や感覚のスペシャリストだったのだろう。野球の代走の技術や走法は全く違っていたのだ。世の中は分業化し専門化し細し分化されているので、個人のもつ知見や技術は特定ジャンル内で有効なものが多い。特定の技術も、それを一般化しマニュアル化する傾向がある。特に組織的に対応する時は、合理的な道具になることが多いからこれは一定の役割を果すが1度そのマニュアルが出来るとそれを維持し、変えようとせず思考が停止しやすくなる。人間の「同一性の保持」と言う心理的本能が作用し安心しようとする。言わば安住する。しかし人の内外の状況は一時として同一でとどまることはなく、常に変化し続けている。だから人が何かの知見や技術を獲得したときは、思考停止しやすい危険な状態といえる。だからといって全体が試行錯誤だけだと、集団的な行動は難しくなる。結論は(マニュアルなどの)【公式と試行錯誤】を併せ持つことが求められる。しかしこの公式も状況の変化に応じて変化するものであることを忘れてはならない。例えば 行動の公式 は、昔 行動=刺激×環境今 行動=目的×刺激×環境 と変化している。 どんな遊びも仕事も繰り返すばかりでは発展しないどころかついていけなくなる。個人的な位置づけが組織的・職業的・専門的な位置づけになる時、特に心しなければならないことだろう。「型を持ち、常に型をも破る」発想が進化させそれを怠ると、思考停止が発生し停滞し後退する。
国であれどんな組織も運動も個人も同様だろう。
時間でも何でもいいから何かはっきりした区切りを設定して
やってきた今までの型をリセットし、
全てを0(ゼロ)にして新しい型を考えたいと考えている。
必ずタイムラグ(時間的ずれ)があるはずだ。
(誰でも必ず迎える死)の準備だって例外ではない。
自然現象と社会現象
我々の内と外で起きる出来事は自然現象と社会現象に大別される。
一般に自然現象は自然がおのずから持っている法則で起きる出来事であり、社会現象は人為が加わって起きる出来事を言う。
実際に起きる現象は簡単には区分けできない。かつて、天変地異は人為を超えた現象と考えられてきたが、最近の異常気象などは温暖化による人為的な原因として普通に考えられている。
自然界に人間が存在し生きているのだから,基本的に自然と社会を切り離すことは出来ないが、便宜的に自然現象と社会現象を区別して考え表現し対処することが多い。
国会の論戦を見ていると、この辺の使い方が怪しい。
「少子高齢化」「農山村の過疎化現象」「未婚者の増加」「いじめ」(等々)が人為を超えた単なる現象であるかのような言い方は与野党に関係なく用いられる。実は(上記の等々)は限定的ではなく対象になるものが思いのほか多い。また国会論戦だけでなく、テレビに登場する解説者や専門家も区別せず曖昧にしているのをよく見るし、飲み屋でのぶっちゃけた会話でもよく耳にする。
要するに時代のせいにするのが(普通)になっている。(これでは一方的に言われる【時代】も間方に合わないだろう?)
人為による社会現象とそれを伴わない自然現象を曖昧にし、(責任逃れ)していることが多い。
明らかに人為である世界1の国の借金を政治家の誰からも、責任を感じながら申し分けなさそうに話しているのを見たことがない。借金を残され、払わされる子供たちは将来、偉く迷惑するはずだ。1日90人にも及ぶ自殺、12万人を超える不登校だって誰が望んでやるだろうか。耳を疑うような犯罪や事件も皆(最近は~)として【時代の傾向や風潮】として一把一括りで語られ対処し行動するのが【普通】になっているようだ。
【普通】は普通でない。
~~~と 出来上がった社会と、穏やかに成熟した社会とは違う。これも、ごっちゃにしてはいけない。
何故、憲法論議は広がらないか
今日、伊藤 真と言う法律家の講演を聞いてきた。
私は始めて目にした人だが、護憲派?で売れっ子の法律家らしい。
1時間半ほど、想像力も豊かな上、ワイドショウ的な切れ味と口調で参加者の気を反らさせない。斬新で面白かった。
しかし私は心から得心できるものではなかった。
確かに、改憲対護憲の(内向きの)向き合った関係で見ると内容的に分りやすく説得力もあったし憲法力(多分、大言力ではなく体現力のことだろう。)を身につけようと言う呼びかけは特に良かった。
しかし、少し極端な言い方だが旧憲法感覚で護憲を主張していると思った。現憲法の精神を自分の中に人格化しての話には聞こえなかった。
戦争と平和についても、戦争放棄=平和主義 言い換えると、戦争と平和を反対語のように対極化している。私は戦争をしていない今の日本が平和とは思えない。
「幸福」を基準に、人の命や暮らしを見た時、戦争と平和を対極においていいものだろうか?
さらに思ったのは、彼は49歳で、現代史の見識は私には推し量れぬほど優れているが、当然彼は戦争経験はない。
憲法を解説するのに戦争経験のあるなしは基本的に関係はない。だからこそ、戦争経験がないのだから、戦争に縛られず、現実の『平和』を語ってほしかった。
目にする改憲の論調は旧憲法の感覚で旧憲法への回帰を感じさせる。
確かに改憲と護憲の主張は、導く日本の方向の違いを感じさせはするが、共に現実認識の狭さと、現実から遊離して直視しない甘さを感じる。
若い人も、自分の言葉で憲法でも何でも語るがいい。無理して年寄りの文法に合わせて喋ることはない。(年寄りも気をつけた方がいい)
人々が、しっかりと現実に向き合うなら、今日のような形で護憲や改憲を対峙させないだろうと思う。この2項対立に、言葉が先行した人為を感じる。
憲法を学ぶこの企画をした人たちも、公演後に参加者とのすりあわせの時間を計画的に確保するのは当然だろうに。それが現憲法の人格的な感覚ではないか。
自然法を基にした『基本的人権』は憲法を語る以前の【法】のはず。
主張はどうあれ、本来の人権感覚を失した論議は意味が薄くなる。
世間で言われるほど改憲・護憲の憲法論議が国民の中に広がり高まらないのは、両者共に【現実】と【法】から目をそらし、その感覚を失しているからではないだろうか。
味に深みと広がりのない薄味のラーメン屋さんの前を急ぎ足の人々が素通りするのと理屈は同じ。
まがい物と本物の混じり物
最近になって時々、自分を(まがい物と本物)の混じり物だなと思うことがある。
自分の自己顕示欲、他人に対しては猜疑心や不信感もよく頭をもたげる。だからといっていつもそうかと言えばそうでもなく、子供から学ぶこと知ってるし、老若男女に関わらず心底絶賛したくもなる。
その変わり方も速く、同じ場所でも何かの瞬間に変わることがよくある。どちらかと言えば第一印象で悪い連想が発生する癖が頭にこびりついているようだ。
混ざり方は時によって違うし、今後も変化していくだろう。
そんな自分が嫌かと言うと全くそんなことはなくむしろ(なかなかいい奴だ)と思っている。
どこのどんな人も似たようなもので、我々は混合物だ。
だから人との付き合いは変化があり限りなく面白いんだ。
メディアの社会的役割
我々がメディアの網の中にいると、昨日書いた。付け足したい。
地震や台風等の緊急災害時、メディアの情報は我々にとって命綱に等しい。
我々は得られる情報によって、命と暮らしを守っている。
しかし、目隠しされたまま、手を引かれているような事もまれではない。こうした中で、我々は周囲を感知し身を守り行動しなければならない。
タイタニックを思い出す。
乗客は船が氷山に向かっていることを誰も知らず、ご馳走を食べ、パーティーや音楽会で幸せな気分に浸っていた。舵を取っていた船長や機関士も(こんな大きな船だから)と船がゆれ、海の異変にも油断し、沈没するとは思わず、勇ましく目的地に向かっていただろう。
今の日本丸が同じように見える。特定の権力者やメディアが意識的に間違った方向に誘導しているとは思わない。多分それぞれが良かれと思って、前向きに、勇気をもって頑張っているだろう。だからこそタイタニックのような怖さを感じる。
今、日本丸の揺れや軋み(きしみ)は大きいのだから、一つ一つの兆候に注意深く目を配り状況を察知し、対処しなければならないはずである。
福田首相の所信表明演説で「時代(状況)は不透明で、環境や資源上も大量生産・大量消費の時代ではない。共生と自立が求められる。この変化に政治は舵を切らなければならない。」と述べた。のこのフレーズは正しくその通りだと私も思う。
ただ、全文を読み、国会の答弁を聞いていると、具体的な揺れに配慮し、処方しながら、既定の航路を(力強く)進みたいと聞こえる。
もし、本当に周囲や行き先の状況が違ってきていると言うなら、はっきり航路を変えなければならない。状況認識が本物かどうかは今後の実際の政治で問われる。
見ていると、与野党だけでなく、メディアもこの状況を心配しながらも、はっきりとは認識出来ないでいるようだ。
あまりにも氷山に向かうタイタニックに似ている。
内向きの論議をいくらしても始まらないのにやめようとしない。確かに目の前に、年金や格差の国内の問題や、インド洋での給油などの国際的な問題がある。この目の前の問題(船のゆれ)の向こうに見えるものを探れば、根源的で必然的な問題が見えてくるはずだし、その情報もなくはないだろう。しかし、内向きな論議の中からは明らかにならない。
福田首相の『舵を切る』のフレーズを痛み止めの絆創膏に使うことなく文字通り、舵をきってほしいと思う。
メディアは、緊急災害時、持っている情報が政府や国民の行動をも決定する現実を考え、今日の日本丸の先行きの情報をす早く的確に捕らえ、しっかりと伝達してほしいものだ。
それには、メディアが目の前の課題の背景になる情報を発見し獲得しようとする基本的な姿勢が求められる。(学校の教師が子供から学ぼうとする姿勢がなければ、本当の教育は始まらないのと同じ。その意味で田原総一郎の司会振りは、ジャーナリストとしての資質が疑問になる。相手の話をよく聞く真摯なジャーナリストにテレビではあまりお目にかかれない。周囲に異変を感じるとき、情報を発信する人たちは逆に、ジーと耳を澄まし目を凝らして情報を得る、慎重さが特に必要ではないないか。)
この姿勢そのものが、メディアの社会的役割だと思う。
世の風潮もこれとは反対のようだ。
このメディアの感覚と実態
朝日新聞の1面トップは、【時津風親方の解雇】で他にも、紙面を4面使っていた。新聞も今日のテレビもニュースは大相撲にジャックされたようだ。
昨日は午前午後とも国会の本会議があった。各党の代表質問に、総理大臣が答弁するものだった。今だから国の内外の重要な案件ばかりだ。
総理大臣が「国の内外の状況の変化で先は不透明で,今までのようには行かなく、舵を切らなければならない。」と言う。その認識は立場を超えたものだろう。
国会は今後の船の進路を指し示すもの。行くへが見えない今はなおさらのことなのに、テレビは言うに及ばず、朝日新聞も、昨日の国会の様子は殆ど報じない。(4面に言い訳程度で、事の是非は別にして昨日の国会論議の1割も報道されてない。昨日仕事をしていた人は目にすることが出来なかったはず。私達r暇人以外、どれだけの人が、国権の最高機関の様子をうかがい知れただろうか? 限られた情報も伝えるか否かから、伝える形や意味も一手にメディアに握られているようだ。我々は殆ど、この網(ネット) から逃れられないでいるに違いない 。 しかしここまでくると、権力への手練手管を超えて、メディア自身の存在価値そのものが問われることになる。 )
伝統文化である大相撲で不祥事のあったことは、日本の現状を表す重大な出来事であったことには違いない。ただ社会は有機的に関連しながら動く。社会現象や出来事は、ただ並列に並んではいない。朝日の扱いを見ると、ニュースの軽重のバランスや統一の感覚が全くと言っていいほど見られない。これではメディア情報に頼っている国民はまとまった状況認識は困難だし、社会的な判断や行動が困難になり、今日の状況になるのも致し方ない。
昨日、私と妻と一緒に、午前午後ともテレビにかじりついて見ていた。確かに、何時ものようにどうでもいいようなやり取りも見られたが、状況認識上、見逃したり聞き逃してはならない言葉もあった。
政治担当の記者や編集責任者もいるだろうに、無責任極まりない。安倍首相の無責任を指弾できる立場か、と思う。
一流のスポーツ選手は己の姿を見るもう一つの目を持っているそうだ。
この目は一流のスポーツ選手に限ったものではない。
待ってろよ!なんとかなるはずだ!
さっき突然例の猫が、窓の下でギャオーとないた。走っていって雨戸を開けて、ジーとこちらを見ている猫を、「こらっ!」と思いっきり怒鳴ってやった。猫はすごすごと不満そうに、さらに足を伸ばした。
この間から猫が隠れにくいように草取りをやったり、植木鉢を移動したりしている。
まだ、殆ど効果はないが、以前のようにすずめが来られるよう挑戦してみよう。
何とかなるはずだ!待ってろよ!
良かった!
先日、(たまたま知った)ケニア在住の早川千晶というフリーライターの方から、直筆の手紙と一緒に、現地の伝統音楽のCDと「ケニアを知る旅」の案内人独白!の文を送っていいただいた。
紹介する文章の中に、「スラムの子を迎入れた(貧しい村の)部族の長が『悪いことをしたら叱ってやれ!お腹を空かしていたら食わせてやれ!』と、集まった村の人たちに話した。」とあった。
私は特に長の後半の言葉に、まいってしまった。泣けて泣けて、あけた口が閉まらず、うめき声みたいなのを止められなかった。(ラッキーにも家の中は一人だった。)こんな泣き方は、生まれて初めての経験だ。
村の長も凄いけど、それをしっかり捕らえた早川さんも凄い。(私はこのことをどう言葉にしていいか分らない。)少し変かもしれないが、私は常々持っている(伝えきれない)もどかしさがフーと抜けていくようで、楽になった。
(偉そうに)あれこれ気にし心配している私よりはるかにスケールが大きく分っている人がいると、心底『良かった!』と思った。彼女からいっぱい力をもらった。
この間話を聞いたミュージカルの監督やゴールデンウイークに出会った若者も真似のできないスケールの大きさを感じた。
以前私は、人の「生の声」は点在か?と書いたが、(今の私には見えないが)面をなして、在るのかもしれない。
所信表明演説
今日、国会での福田首相の所信表明演説を聴き、その後、改めて全文を新聞で確かめ、ある意味で中身も(早口であった以外は)話し方も流石と言うか、見事なものだった。100点満点の感もあった。
それに引きかえ、演説後の与党や野党の代表の感想はどれも感心できず50点ぐらいかな?
これはざーと見た日本語の印象で、【自立と共生】【希望と安心】は、どの政党の主張も、どんな国民の立場も全てを包含するものだった。(個人的には、社会を認識し把握するため深さを持った限定的な意味で「現代の文明・文化の見直し」の言葉がほしかった。)
ただ、内容を経過や現実と照合したとき、問題がなくはないが、今後の具体的な政治に、まずは期待して見守りたいと思う。
「政治は言葉」とも言われるが、私は【政治は現実】だと100パーセント考えている。
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