ちゃんと見ないと始まらない。

地球がおかしくなり、豚インフルエンザが世界に拡がり、毎日3万人以上のの子どもが飢え死にしていると言うのに‥‥
 どの党もマニフェストに見当たらない。
 言葉だけ(安心・安全・責任。安全保障。社会保障・国民生活を第1に・)
 まー、ありとあらゆる美しい宣伝文句がならぶ。
 これまでも選挙をするたびに、美しいい言葉だけは並べられた。そして今日の紛れもない、借金大国・自殺大国を作り上げてきた。(自然現象ではない。) 
 少子化を嘆きながら、虐待は増え、不登校、発達障害の子どもは増える一方。
 (これも自然現象か?)
 言ってるる事とやってる事が反対だから、やっている事の結果を誰もが目にしている。
   
長年自分も関わった悪弊の結果だから、目をそらすより仕方がないのだろうか?
 
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クラス会の感想

30年前の職場の同僚との年1度の食事会に10名前後集まった。全体的に
学校現場の 当時を懐かしみ、現在をぼやき、今後に未来を見出せないで、こうして集まって癒される。来年からもズーと続いて欲しい。
 それとは別に感じる事もあった。
 
良く「先生は世間知らず。」だと言われるが、あの言葉が社会の事がよく分っていないと言う意味ではないとは思う。社会の裏に長けていないという事だろうと思う。少なくても子どもを通してかかわるわけだから。社会の(お金儲け)の側面は弱いだろうが、人間社会はそれだけでは成り立っていない。
一般的に教師は社会や教育上の知識や情報には無頓着ではいられないし社会認識や判断は
一般的な学力や教養は低くいとは考え難い。
 しかし、現役を退いて、8年も経って会って話すと、政治や経済同様地球をベースにした世界の変化や流れから取り残され、狭い空間で息をしている感じがした。
 一般的には他の職業と比べ教師は恵まれた立場にあるだろうと思う。
 その教師が酷く閉塞状況に置かれているのだから、他は押して知るべしと想像できる。
 雪がとけ春になって一斉に(小さな新しい芽)が吹き出してくれるイメージを期待してきたが、そんなに簡単ではないない、予想以上に距離や壁ががある
 と思った。
 イメージしていた事が甘く大雑把だったのだろう。
 (ちいさな新しい芽)が吹き出すのは自然の原理だから(芽探し)目印や育て方をもっと細やかに考えよう。

 
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今日は同僚とのクラス会

30年以上も前、務めていた学校の同僚が、年に1度集まる。
 30年も経ったなんてとても思えない。
 年に1度合うと、夫々色んな事は違っているが昔の続き話のようで楽しみだ。
 昨日も北海道の友達と一杯やったから、飲みすぎに気をつけよう。基礎疾患のある人は豚インフルエンザとお酒は気をつけなくちゃ‥)
 
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ムツゴロー ラプソディ

追っかけをしていると、いろんなことがある。
 昨日はバイクで隣の町の大きな体育館へ稽古を見に行った。
 追っかけ3年目になると、顔見知りも出来てきて、挨拶されたりもする。
 昨日は振り付けと音楽を担当している人から声をかけられ、練習では見えないところの話をしてくれた。
 小学校で学芸会は何度も指導?したが、訳が違う。
 技術的な問題は勿論だが、考えてる基盤が全く違う。
 海の小動物の出てくる寓話劇だが、音楽担当者は携帯に小動物の写真を持ち歩いて、
 動物のくねくねした動きをタンゴのリズムにすると、ユーモアと品が出るらしい、子どもはいるだけで可愛いから逆に抑制的な工夫をすると言う。
 現役時代は考えても見なかった発想である。
 ミュージカルの追っかけは、それ自身ミュージカルだといいなーと思っている。どこだって舞台のようなものだ。
 
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田原総一郎

田原氏はサンプロの司会者?見たいなことをやっているが、現代の社会病理の典型を見ているようだ。
 要するに、自分中心で他人の話を聞かない、他人話を途中で乱暴に遮る。
その上、司会は恣意的で公正でないだけでない。
話を聞くのは民主主義の基本的な資質である。
彼のの人格無視ぶりには本人の人格的な崩れすら感じる。
     何故あの番組が続けられるのかが分らない。
 
 あんな放送がマスメディアで堂々とやられ、並んだ全党党首が一方的に振り回されているようでは、例え政権交代があっても、政治がよくなるとは考えられない。
 マスメディアの権力を背景にした民意作りは巧妙な物が多いが、あれはあからさまで乱暴である。
 メディアが民意を手に入れた過信の表れだと思う。

 根拠のない歪んだ情報の中でする選択を(公明正大な選挙)と明るく言う選挙管理委員会もちょっと‥
 
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視座

【視座】 物事を判断する前の認識する対象の基盤(ベース)のつもりで用いてる。
 例えば、(子どもの成長)といった場合も、子どもを生物的存在を視座とするか社会的存在を視座とするかにによって、成長の中味は異なり、どうしたら良いかの内容や方法は違ってくる。
 経済も視座を地球上の人間活動とするか、単に人間活動にするかでは、経済成長の意味も、課題も違ってくる。
 総選挙の政見放送を聴いていると、大袈裟に他との違いを強調し、(政権交代)(責任力)(発想の転換)(官僚政治や仕組みの転換)(政策転換)など言われるが、基本的に従来と変わらず、状況判断の大本になる、【視座の転換】は誰一人口にしないだけでなく、それを感じさせすらしない。
 経済・温暖化や異常気象・パンデミック・安全保障 どれ一つとっても、
 地球規模の自然を含めた空間と切り離せない中で問題は発生している。
 当然地球を視座にせずとも断片的な現象は捉えられ、間に合わせ的な処置はできるし、これまでもやってきた。その結果、問題の根源に目をやった着実な解決へとは進まなかった。
 ここ何年も、成功を収めた政策を見出せず、日増しに地球や人類の危機を指摘する声が大きくなっている事でも分るのではないだろうか。
 どんな問題もそれを捉える視座を確認し俯瞰しない限り人為的な解決は望めないのではないか‥こんな事では、人間はリスク(損失)を覚悟で自然の解決を望む他ない。
 
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今、国に求められているもの

 世界を視座にしても間に合わない。自然を含めた地球空間を視座にしない限り今日抱えている問題の基本的な解決は難しい事がはっきりしてきてはいないだろうか‥
 にも関わらず、総選挙の視座は世界どころか、前近代的な、国や(村)的な利益集団をベースに生み出された政策、或いは村的な利益集団そのものの選択を争っている。
 こんなことで、100年い1度と言われる経済危機のさなかにあって
 選択のマニフェストを発表して1ヶ月もたたない選挙戦の最中、とっくに地球的な課題であった新インフルエンザの対応を目前に突きつけられている。
 世界的に特別日本が遅れている訳ではないが、そういう問題ではない。
 これでは生起する危機を予測できないどころか、渦中に陥っても今日のように混乱するばかりである。何で、もっと多くの人がその事に気付かないのだろう?
 水は足元どころかひざかぶぐらいきている感じである。
 とんでもない方を向いて騒ぎ立ててる総選挙に一般市民はどう向き合ったらいいのだろう‥どこかに投票すればいいのか‥投票するしかないのか‥
 
 
 
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(出番を待ちながら)

今見てきた芝居の題名。解説に<この舞台は、晩年の生活にともなう悲しみ、希望、誇りをまるごとかかえながら、”人生捨てたものではない”と言う気分が溢れる。泣き笑いながら力を合わせて生きていく姿は、日本の高齢化社会を生きる人たちへ励ましを与えるでしょう。>と書かれているように、客席と舞台が一体になった(流石プロ)と思わせるいい芝居だった。
 ただ、もう一歩突っ込んで、老人の積極的な社会的役割や意味合いまで、描いて欲しかった。無駄の多い今の時代は特にそれを求めていると思う。
(老)は(老ける)意味だけではない。
何が無駄かを自他に意識させる社会的・人間的な位置にいる。
下手すると、しばしば見られる(老人は無駄)にされかねない・なりかねない
世相なのだから‥
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初めて分る棄権する人の気持ち

総選挙で、どう行動したらいいか迷っている。
  メディアなどを通して知るどの党派・評論する識者・メディアの解説も
 状況判断や政策の大元の【視座】のところで自分とは大きく離れてしまった。
 
民主主義とは言え、個人の意向を反映させる社会のシステムが見つけ難い。
 
社会の進歩や問題の解決は点在する個人から始まるだろうに、野党どころか   少数会派がでっかくのしかかって見える。世の中(或いは自分)は大丈夫だろうか?
      (この考えは、ベターな党派や白票で表せるだろうか?‥‥)

 
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政治でよくなっている?

 40になってからこの30年間、政治でよくなった事は何だろう?と思い出したが、
 近くの川の水が綺麗になったことと、水道水がいくらか美味しくなったこと以外に思い出せず、悪くなった事は教育を始め、切りなく出てくる。(妻も似たようなもの)
 この間、国政や地方政治の選挙が何十回行われたかしらないが、果たして我々は何を選択してどうなってきたのか疑問になる。
 もし、選挙や政治で我々は幸福から遠のいているとしたら、社会的にも個人的にも何か方法を考えないとしょうがないことになる。
 今度の選挙でそういう、過去の選挙や政治の反省が与野党、どの立候補者からも聞こえない。 与野党に限らず、まずはこれまでの政治の責任を詫びてからマニフェストを述べるのが国民への挨拶ではないか?(次元は違うが国民の責任はもっとある。)
  言葉ではなくこういうところで各政党の見ている先が分ろうと言うもの。
 
 
 

 
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