一つの本能

地上で生起する出来事は、人間の認識上は関連している場合もあるし、関連していない場合もある。しかし、繋げて捉えようとする力が本能的に働く。
 地上で誰かがそう捉えている事を前提に、我々は生きていなだろうか?
 そう言う人がいるかもしれないし、いないかもしれない。
 どっちにしても、いると考えてものを考え、行動する方がいいようだ。
 それが神や仏であろうと、闇の帝王であろうと、いようがいまいが世界の色んなことを主体的にまとめて考える事ができなければ物事うまくいかなし、その事自身自分にとって不幸だと思う。
 
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目に見えないものの一つ

教員現役の頃、授業参観があったが、正直な所好きではなかった。
 勿論、必要ないと言う意味ではない。
 どこか、トイレを覗かれている感じに似ているからだ。
 クラスの子ども達とはそれなりの時間を過ごしている。こども達と、気持ちを繋ごうとすれば、子どものに裸になってもらう前に、自分が裸にならないとならない。
 子どもの保護者であっても、付き合っている時間が違う。
 結局、どこかで保護者を意識し、子どもに集中できなかった。
 教室の中だって、そういうものだ。
  この目に見えないものが段々いい加減にされて行く時流が良いとは思えない。
  無神経すぎる。
 
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国境線

大昔、地球に国境線は無かった。今はどこがどうなっているか分らないほど、世界地図は国境線ではっきり区切られている。
 今、その線は濃くなっているのだろうか薄くなっているだろうか?

人、物、お金は間違いなく、国境線を越えて動いている。
 動きを中心に見ると、全体的に国境は薄れているようだし、今後一層薄れていくように見える。
 途中で人間が書いた線だから本来の地球に戻っているとも言える。
 これは、一人ひとりの人間(約60億)は今後をどう見てどう行動したらいいかのヒントになる。
 国を単位とした考えや行動はそれが競争や争いであっても自ずと国境がどうなるかの限界を持つ。(例え、オリンピック競技であっても)

 それが国益や主権行使の目途にもなるのではないだろうか。
 果たしてそんな外交や国際感覚で、人や国は発言し行動しているだろうか?
 どこかちまちまと要らないロスを出しながら、動いているように見える。
 例えば、軍拡競争、経済の国際競争や国際競争力競争に繋がる色んな動き‥今の教育の流れ‥。   総選挙自身、そんな事にならければいいが‥
  
     
 
 
 
 
 
 
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新インフルエンザで死者が出たのに?

新インフルエンザのパンデミックは収まっておらず、感染者や死者は増えている。日本でも死者が出た。
 恐れていた悪性ではないとの事だが、相手はウイルスで、悪性への変化は時間の問題とも言われている。よくは分らないが、この春、総理大臣が国民に直接テレビで<冷静に!>と呼びかけた事を思うと、現在が能天気に思える。
 国の安全のためと言って相手が人間であっても海外ににも出かけて行くのに、得体もしれず対処も困難とされるウイルスはより安全と考えているのだろうか?
 秋からが心配だといわれているのに。
 優先順位がメチャクチャになっている人間社会を見ると、安心はしていられない。

 

 
 
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月~金の午前中は、インターネットで中国と日本の株をリアルタイムで数字やグラフの変化を追っている。
 退職後、(見える世界)としてはじめた。損得が絡んだりはするが、実に面白い。
 教育は目には見えない(子どもの心)への挑戦だった。今は、(目に見える世界)ではじめたつもりが、やってみてっ分った事だが、数字の向こうに見ているものはやっぱり目に見えない世界である。そこには人間や自然もある。
 ただ、見ている所が違ってるので興味は尽きない。
 株は地球上の自然や人間・世界の歴史や未来、政治や宗教や哲学から芸術文化に至る恐らく地球上の全ての現象に自分の心を拡げ繋いでくれているような気がする。
 株という仕組みの良し悪しは別にして、囲碁や子ども同様、興味は尽きない。
 
  
 
 
 
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そーめん

妻「昼、何にする?」
夫「そーめん。」
 この夏、ほとんどこれだった。1年通しても、そーめんがうどんに変わるぐらいで、正月であろうと誕生日であろうと聞かれたらこのパターンである。
 流石、晩飯は聞かれないので、結構いろんなものにありつける。
 朝飯だって、昼よりはいろいろある。
 たまに、「今日もそーめん?」と言われると
     「聞かれたから希望を言った」となる。
       
     ドジは(麺類)のようだ。
 

 
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やっと夏が来た

ここ2~3日で、やっと夏が来た感じがする。もう残暑見舞いの時期だ。
 しかし、例年に無く家の周りは夏らしく、せみ時雨や、せみのソロもよく聞ける。名前の分らないが聞いたことのある虫もよくなく。
 屋根上の方から何種類かの鳥の声が聞こえる。
 軒下には弟からもらった風鈴が時々リン‥りんとなる。
目の前の網戸越しには、例のスズメや山鳩、蝶もやってくるし、ガラス戸に真っ赤なヤモリがペッタリ張り付いていることもある。
 葉っぱより緑の濃い夏みかんもいくつかなっている。
 ただ、その下は雑草で歩くに歩けないようだ。
 いつか草取りをしなくてはと思いながら、碁会所に足を運ぶ。
 隣のおばさんに、言い訳がましく<そのうちに‥>と言うと、<一緒に手伝いますよ>と優しくいってくれる。
 業を煮やしているに違いない。 でも、どうしてか足が向かわない‥。
 こういうところは、似たもの夫婦だ‥
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核兵器への態度

昨日,NHKは終戦記念日の特別番組として(日本は核兵器にどう向き合うか?)をテーマにスタジオに専門家?を交え一般人?を中心に討論した。
 例えば、
 1、核を持たない
 2、核の傘でいい
 3、核を持つ
  とか、非核3原則、核抑止力につて
  2項あるは3項を設定し何れかの態度で考えを述べていた。(させていた。)
 主張のの如何を問わず、対立的な話し方をしていた事と、司会者の
 (現実)の言葉を主観的に使っていた事、
  視座が数人を除いて前近代的な視座であるのが気になった。
  主張の背景になる、社会観、歴史観、(出来れば自然観)を感じれなかった。  
    論理的に話すなら、手順を踏んで話して欲しかった、
  感覚で話すならば、どこかで聞いたような(要するにメディア的な)物言いではなく、個人の内から湧きでるような言葉だったら良かったのに、と思う。
 良い話も沢山聞けたが、全体的には複雑な気持ちにさせられた特別番組だった。

  
 


 
  
  
 
 
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世界的な時代の端境期?

「橋のない川」の作者住井すえさん(故人)は、被差別や戦前体制の中で「
どんなに権威のある人も、条理の無いものは無い。幼い頃の自分を裏切る事になるから、それなら自殺した方がましだ。」と90を過ぎて言い切っているのを当時の残っていた映像で見た。
 続いて「命は文化だ。」とも言っていたが「命と心は文化だ。」の方が分りやすいと思った。
 
 毎日、100人からの自殺者をここ11年出し続け、人はバラバラになり、会話も困難なぐらい言葉は通じ難くなっている。
 果たして、文化は進歩と後退のどちらへ進んでいるのだろう?
 歴史的にはどんな文化も退廃・後退・滅亡、そして新しい文化の誕生を
 繰り返している。
 今は、世界的な文化の端境期ではないかと思う。
  (慌てる事は無いが)乗遅れにご注意! の感じ。
 
 
 
 
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人間は何をしているのか?

 党首の顔に地球も世界も人の命の尊厳も暮らしや、心を感じない。

党首は撒き餌を競い、人々はそれに群がる。
 地球も家の中も色々あるのに、関係なく大人は動く。
  大人が夢を失い、子どもは夢を抱けない。
 大人が会話を忘れ、そこで子どもは育つ。
 それでも何事も無いように、箱の中はいつも何時も笑っている。
 今日も100人からの人が命を自ら断ち、閉塞し身動きできない子どもや若者が何十万と息を潜め身を潜めてる。
 しかし、その間から、無数に小さいが新しい芽が育っている。
 地球の自然は、撒き餌なんかに目目もくれず全力で応援している。
 今朝だって早々と、ハトとスズメが挨拶に来たよ。
 
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