一昨日の午後7:00から、樋口先生をお招きして
”第4回ジオパークガイド養成講座”が、大島町役場1F会議室にて行われました。
講座の中で、特に興味深かった内容についてのご報告です。
今回は、① 遺跡 ② 流人 ③ 史跡 ④ 文化財 が、講義のテーマでした。
手元には、100ページ近い資料。
まずは、表題通り ”遺 跡 ”のお話からスタートしました。
いきなりですが、このブログをご覧の皆さん、
伊豆大島には、いつ頃から人々が住み始めたのでしょう?
これを知るには、人々の生活の痕跡を探しその遺跡の年代を調べるしかありません。
遺跡が謎を解き明かしてくれるのですね。
私は考古学を勉強したことは無く、正直さほど興味も持っていませんでした。
しかし今回先生のお話を聞いて、この謎解きの醍醐味に触れることができました。
答えは・・・何と!今から約8,000年前
”縄文時代早期 ”と思われる地層から、住居跡や土器が見つかっているとの事です。
しかも私が驚いたのは、”イノシシ”の骨も見つかっているのです。
大島に”イノシシ”は生息してなかったと思うので
きっと食料として、どこからか持ち込んだのでしょう。
火山で出来た誰も住んでいない所へ、なぜ人が住み始めたのでしょう?
樋口先生が、どなたか?に訊ねた事があるそうです。
この答えが最高でした。
「それは、人間本来が持っている冒険心でしょう。」
なるほど、”たまたま潮に乗って流れ着いた”のではないのですね。
新天地を求めて、自らやってきた訳です。食料の猪を積んで・・・。
ロマンを感じますね~。
では、どこに住み始めたのでしょう?
その答えは、島内50ヶ所以上に残る遺跡のどこか?となるのでしょうか。
遺跡は、西側の海岸線に多く存在するそうです。
”対岸の伊豆半島から来たから”というのが大きな理由かも知れませんが
ゴロタや砂浜が多く、漂着し易いと言う事も考えられます。
地形が関係しているのかも知れません。
また、生きていく為には水が必要です。
溶岩や火山礫・火山灰で出来た大島には川や湖がありません。
島に降り注いだ雨は、すぐに土中に染み込んでしまい貯まらないのです。
しかし波打ち際には、今でも真水が湧き出しているところが沢山有ります。
結構、これがポイントではないでしょうか。
島に住むと言う事は、火山と共存すると言う事。
様々な苦労があり、噴火に怯えた事も多々あったのでしょう。
そんな中でも人々は逞しく生き、様々な所と交流もあった様ですね。
遺跡からは、貴重な貝(オオツタノハ)の細工場跡(さいくばあと)や
他の島から持ち込まれたと思われる”上質な黒曜石で作られた矢じり?”
なども出ているそうです。
教室の様子です。50名以上の方が真剣に耳を傾けていました。
さて5分ほどの休憩をはさみ、お話は”流 人”に移りました。
島の歴史を語るうえに於いて、これは外せません。
今まで、八丈は重罪人、大島は軽犯罪 と思っていたのですが
実は、大島には”政治犯”が多かったそうです。
流刑者で、私が知っている名前は
役行者(えんのぎょうじゃ)・オタイネ ジュリア・源為朝・赤穂義士の遺児
などですが、興味深かったのは、日蓮宗の僧侶が69名ほど島流しに遭い
その内、大島にも13名が流されているというお話でした。
このお坊さん達が亡くなった後、10人の名前を刻んだ供養塔が建てられたのですが
(3名は、お寺が違う所)
島流しに遭った”言わば罪人の供養塔”を建てるのは当時ご法度。
で、どうしたかと言うと・・・
巡検に来る役人に見付からない様に隠す為
1メートル四方の溶岩を利用したとの事です。
ナルホド~納得、流れ広がった溶岩なら厚さが無く
広い面積を必要な時だけ隠すのに好都合だったのですね。
周囲を土で覆えば、地面に埋もれた大岩(岩盤)に見える訳です。
こんな所に溶岩が利用されていたとは・・・まさしくジオですね。
さて、この様なお話を聞いているうちにアッ!と言う間に
2時間が過ぎてしまいました。
結局、”史跡” ”文化財”は、用意して頂いた資料で自主勉強となりました。
もっとお話をお聞きしたかったのですが、残念!
その土地その土地・・・そこの土壌に根ざした生活が有ります。
その地域の歴史を知る事は、正にジオを学ぶ事なのですね。
ちょっと時間が足りませんでしたが、良い勉強ができました。
今回のお話も、きっとジオガイドに生かされるでしょう。
樋口先生、ありがとうございました。
さて先日、インフルエンザに倒れた西谷に代わり
「いい旅・夢気分」のロケをお手伝いしてきました。
その時の様子です。
86年の噴火でも流されなかった”三原神社”の前から下界?を撮っています。
この時収録した番組が
2月22日(水)20:00から”テレビ東京”で放映されます。
お時間の有る方は、是非ご覧になってくださ~い。 (ぎば)