訃報が届いた。
訃報が届くと、厳粛な気分になる。姿勢を正して、亡くなられた方との交遊を思い出す。それと同時に、なぜ?と問いたくなる。
もっともっと生きていて欲しかった。いや亡くなるなんてことは、考えてもいなかった。
必要があるときに、連絡をしてその応答を待つ。最近はほとんどメールであるが、そして何度かのやりとりを経て、またしばらく連絡しないときが続く。それでも、死んでしまうなんてことを考えもしないので、またいつか連絡することもあるだろうという開いた状況のまま推移する。
だが、死は、そうした関係を閉ざす。
生きていく中で、無数にはりめぐらされた他者とのつながり。年齢を重ねていくと、もちろん新たなつながりもできるが、他方で今までのつながりが、無情なる死によって断ち切られていく。
年を重ねると言うことは、新たにできるつながりと、失われていくつながりとが競いあうなかで、後者が徐々に増えていくことなのだろう。そして“孤“の感覚が強くなり、その“孤”に耐えられなくなって、自身もこの世を去って行く。
今思うことは、良き人が逝ってしまうということだ。
HKさん、さようなら。
合掌
訃報が届くと、厳粛な気分になる。姿勢を正して、亡くなられた方との交遊を思い出す。それと同時に、なぜ?と問いたくなる。
もっともっと生きていて欲しかった。いや亡くなるなんてことは、考えてもいなかった。
必要があるときに、連絡をしてその応答を待つ。最近はほとんどメールであるが、そして何度かのやりとりを経て、またしばらく連絡しないときが続く。それでも、死んでしまうなんてことを考えもしないので、またいつか連絡することもあるだろうという開いた状況のまま推移する。
だが、死は、そうした関係を閉ざす。
生きていく中で、無数にはりめぐらされた他者とのつながり。年齢を重ねていくと、もちろん新たなつながりもできるが、他方で今までのつながりが、無情なる死によって断ち切られていく。
年を重ねると言うことは、新たにできるつながりと、失われていくつながりとが競いあうなかで、後者が徐々に増えていくことなのだろう。そして“孤“の感覚が強くなり、その“孤”に耐えられなくなって、自身もこの世を去って行く。
今思うことは、良き人が逝ってしまうということだ。
HKさん、さようなら。
合掌