浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

訃報

2015-03-26 20:34:03 | 日記
 訃報が届いた。

 訃報が届くと、厳粛な気分になる。姿勢を正して、亡くなられた方との交遊を思い出す。それと同時に、なぜ?と問いたくなる。
 もっともっと生きていて欲しかった。いや亡くなるなんてことは、考えてもいなかった。

 必要があるときに、連絡をしてその応答を待つ。最近はほとんどメールであるが、そして何度かのやりとりを経て、またしばらく連絡しないときが続く。それでも、死んでしまうなんてことを考えもしないので、またいつか連絡することもあるだろうという開いた状況のまま推移する。

 だが、死は、そうした関係を閉ざす。

 生きていく中で、無数にはりめぐらされた他者とのつながり。年齢を重ねていくと、もちろん新たなつながりもできるが、他方で今までのつながりが、無情なる死によって断ち切られていく。

 年を重ねると言うことは、新たにできるつながりと、失われていくつながりとが競いあうなかで、後者が徐々に増えていくことなのだろう。そして“孤“の感覚が強くなり、その“孤”に耐えられなくなって、自身もこの世を去って行く。

 今思うことは、良き人が逝ってしまうということだ。

 HKさん、さようなら。
                                合掌

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「銅像」(1)

2015-03-26 13:00:08 | 社会
 『週刊金曜日』に連載されている辺見庸の文を読んでいたら、そこに志賀直哉の「銅像」という随筆の紹介が載っていた。図書館から志賀直哉の全集を借りて、「銅像」を読んでみた。なかなか味のある文章だ。さすがに大家の文章は違う。文章の裏側に「大河」が流れている感じだ。

 今日は、そのさわりに書かれていることを紹介しよう。

 志賀は、幕末期の、有能なひとりの幕臣のことを記す。川路聖謨(かわじとしあきら)である。日露和親条約締結など、幕末に活躍した外交官であった。

 彼の、天保11年の日記を、志賀は紹介する。川路が佐渡奉行として赴任したときの日記である。

 「西洋人襲来の時、民兵の用ゆる備えの由にて、いつ頃より出来しや、竹槍数百本あり、これにて凡のこと、おし量るべきなり」

 彼我の武力の差を認識している川路は、西洋人が襲来してきたときに竹槍で戦おうとする日本の人々の状況を、即「おし量る」ことができたのである。

 志賀がこの文を読んだのは、戦時中だ。20世紀の中盤でさえ、日本の人々は竹槍で米軍と戦おうとしていたのである。川路が日記を書いたのは、1840年。それから100年が経過しても、日本人はまじめに竹槍で戦おうとしていたのである。志賀は、川路聖謨が「呆れた」こと、戦時下の日本人がそれ以上のことをしようとしたとして、以下の例を挙げる。

 「近江八幡にいる兵隊たちは銃がなく、毎日睾丸蹴りの稽古をしている」

 現時点から見れば、非合理そのものである。しかし当時の日本人は、彼我の戦力差を知ってか知らずか、まじめにこういう竹槍訓練などに従事していたのである。もちろん少しでも知識がある人は、疑問を抱いたであろうが・・・・

 集団は集団であるが故に、こうした非合理なことを信じ込んでしまうということはあり得ることだ。オウムについても然りである。オウム信者の、権力がオウムを標的にして攻撃を仕掛けてくるという、ボクらから見れば「妄想」と、米軍に対して竹槍や「睾丸蹴り」で戦うという、ボクらから見れば「妄想」と、どう違うのだろうか。

 普通の人々は、集団になると、非合理な信じられない「妄想」を、まさに物理的な力にしていくことがあるということを、知るべきなのである。

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