浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

日本は、ファシズム?

2015-03-09 21:37:31 | 政治
 下記のブログを読んで欲しい。

http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-2061.html#comment13315
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シンポジウムの報告を読んで(1)

2015-03-09 18:33:57 | 政治
 去る2月18日に行われたシンポジウム「日本人人質殺害事件と戦場ジャーナリズム」が、『創』4月号に掲載されている。そこで指摘されたことは、きわめて重い。読んでいていろいろ教えられた。

 第一部では、TBSの金平さんの危機感と怒りをもった発言に注目した。それは、「「戦後」というような尺度が“無化”されつつある」という時代認識があるからだ。

 綿井健陽さんの「メディアが狙われる時、市民はもっと死んでいる」ということばは重い。後藤健二さんが殺されたシリアやイラクでは、名もなき市民が次々と殺されている。しかしそうしたことは想像はされるが、その実像は提供されないので、事実が事実として認識されないのである。まさに豊田直巳さんが言うように、「現場に行かないとわからないことはいっぱいある」ということだ。野中章弘さんの「映像ジャーナリストたちは、戦争の悲惨な実態、現実をみんなに知らせる、そういう役割を担って現場に行く」のである。しかし、「現場に行く」というとき、ジャーナリストは危険にさらされることがある。

 その後、金平さんは「フリーであろうとが企業ジャーナリストであろうが現場で見てきたことを、その中の公益性があると思われる情報をきちんと提供する」ことが強みだという。

 歴史研究のレベルで言うなら、個別的な史料や歴史的事実のなかに普遍性を発見し、それを叙述によって浮き出していくということだ。

 そして金平さんは「自分たちがやっていることが誰のためなんだ」ということを最後に指摘する。「何のため」というとき、その「何」に国家(権力)は絶対に入らない。

 「何のため」という問いは、きわめて重要だ。このブログを書いているボクにも、常に「何のため」が問われている。常に問われている自分を自覚すること、社会に向かって何事かを表現しようという人間は、その問いから逃れられないはずだ。
  
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世界から相手にされていない安倍首相

2015-03-09 14:55:11 | 政治
 ウィリアム皇太子が来日したとき、イギリスのメディアは安倍首相にはほとんどふれなかったし、一緒に映った写真もほとんどなかった。しかしその後中国へ行くと、習主席と一緒の写真がイギリスのメディアに頻出した。

 日本の首相は、無視されているのだ。

 そしてこれも。ここにも安倍首相は・・・・いない。ちょんまげの絵はあるのに。

 http://vigilantcitizen.com/vigilantreport/economist-2015-cover-filled-cryptic-symbols-dire-predictions/
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Journalism 3月号

2015-03-09 10:52:40 | メディア
 ポストの中を覗いたら、『Journalism』3月号が入っていた。何とも分厚い。驚いた。すると、その特集が、「朝日新聞問題を徹底検証する」であった。

 ボクは、朝日新聞出版発行の『Journalism』こそ、朝日新聞問題の検証をすべきだと、このブログにも書いていたが、ついにやった。

 たくさんの方々が寄稿している。今日届いたばかりでまったく読んではいないが、さすが朝日新聞である。こうした検証を通じ、朝日新聞が、現代社会の中で、あるいは国民から何が期待されているのかが一定程度明らかになっていくはずである。そうした期待を背景に、検証が無責任な批判に対する有効な反撃へと転化していくことになるのだろうと、ボクは思う。
 
 掲載された杉田敦氏の論文の表題、「自己批判を知らない歴史修正主義者に対抗する手段は徹底した自己批判である」はその通りだと思う(但し中身は通り一遍の内容。文中「女子挺身隊は日本政府による女学生の勤労動員であり、慰安婦とは本来関係ない」とあるが、女子挺身隊として動員されたのは女学生ばかりではない。批判するときはきちんと事実を確かめる必要がある)。自己批判や検証が行われることにより、少し自信を失いかけている、あるいはこの問題を気にかけざるを得ない記者たちのなかに、目に見えない軛を取っ払って、以前のように自由に取材し、書いていく自信といったものが湧き上がってくるならば、朝日新聞は「復興」するのだし、購読者も増加するだろう。ひょっとしたら、ボクも「朝日新聞」をまた購読し始めるかもしれない。

 この『Journalism』を編集しているのは、朝日新聞社員であるが、ここには社員の声はない。おそらく労働組合の機関誌紙などで、この問題に関する朝日社員の意見が交わされているのだろうが、今度は朝日新聞関係者の意見が公開されることもありではないかと思う。
 朝日新聞には、「読売」や「産経」、あるいは「日経」にはない自由な言論空間が存在するのだということを示すことも有効な反撃ではないかと思うのだ。

 無責任な攻撃に萎縮してしまってはいけないのである。

 ボクが戦後補償の問題に関わっていた頃の経験では、「慰安婦」報道にもっとも熱心だったのは、「読売」の某女性記者であった。「朝日」と同じような報道をしていたのに、「読売」も「産経」も、みずからのことは棚に上げて他者批判をするというきわめて醜悪な姿をさらけ出していた。

 「朝日」は道義的な優位性をもって、ジャーナリズムの本道を歩んで欲しいと思う。

 この3月号は、メディア問題に関心をもっている人にとって、読まなければならない文献になっていくことだろう。

 さて、読みはじめることにしよう。
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2015-03-09 00:00:00 | 日記
 人間は社会の中に生まれ、そして死んでいく。人間ということば通りに、人の間に人間は生き、そして様々な人と出会う。直接会う人もいれば、間接的に知り得た人もいる。

 ボクが、人の間で直接出会ったなかで、もっとも尊敬する人物は、無教会派のクリスチャンの平和運動家・故溝口正氏である。そして間接的に知り得たなかでもっとも尊敬する人は、『世界』の編集長であり、また「統一戦線」の結び目となっていた吉野源三郎氏である。

 ボクは吉野源三郎氏が書いた文の中で、「一粒の麦」という文がもっとも好きだ。聖書にある「一粒の麦もし地に落ちて・・・」ということばに即しながら、アメリカ帝国主義の侵略に抗して戦ったホーチミンをはじめとしたベトナムの人びとのことを記したものだ。

 この文は、最初は『世界』に書かれたものであるが、その後『同時代のこと』(岩波新書)に掲載され、また『人間を信じる』(岩波現代文庫、2011年刊)にも掲載されている。現実と理想と、そして人間の生き方が凝縮されている文だ。ボクはこれを何度も読み返す。

 今日も、それを読んでいた。

 そういえば、『人間を信じる』のなかに、「山本君に言いたかったこと」という文がある。これも『世界』に掲載されたものだが、その山本君というのは、もと全共闘議長の山本義隆氏のことである。

 ボクの学生時代も全共闘の運動の残り火があったが、彼らのいう「自己否定」が、形而上学的なそれであって、決して弁証法的なものではないこと、であるとするなら、彼らの「自己否定」は「自己存在否定」にならざるを得ないこと、したがって生存を続けるのなら全面的な「自己肯定」を追求せざるを得ないこと、その行き着く先は、自己が生存しているこの世界を肯定することにつながり、結果、資本主義国家・日本の大いなる担い手として生きていかざるを得ないこととなり、そうしたもと全共闘が多いことをボクは知っている。
 しかしそのなかに、この世界を肯定し、その尖兵として生きていくことを拒否した少数の人がいる。山本義隆氏もその一人だろうと、ボクは思う。将来を嘱望された研究者であった山本氏は、予備校の講師として生きてきた。

 今月号の『世界』の3月の新刊案内に『原子・原子核・原子力』という本を見つけた。これは読まなければ、と思った。

 山本氏は、今もなお志を持ち続けているからだ。

 山本氏は、東大闘争の渦中、吉野氏の娘さんの家庭教師として数学や物理を教えていた。山本氏が吉野氏とどういう話しをされたかはわからない。しかし、吉野氏がもっていた志を、山本氏がひそかに受け継いでいるのではないかとボクは思っている。

 吉野氏は、ホーチミン、そしてアメリカの攻撃の中で「僚友が殺されても殺されても、雄々しくそのあとを埋めて戦い、ホー・チミンの遺志と期待とを裏切らなかった。そして彼らも、また、一人一人、多くの実を結ぶ麦となっていったのである。」と「一粒の麦」に書いている。

 吉野氏自身は亡くなってはいるが、「一粒の麦」となって、ボクの精神の中に座標軸となって生き続けている。おそらく山本氏の精神の中にも、である。

 ホーチミンや吉野氏のような人びとの生き方が、「一粒の麦」となって多くの人の精神の中に受け継がれ、志として生き続けている。

 ボクらも、その志を、誰かに受け継いでいってもらいたいと思いながら、生きている。
 ボクも「一粒の麦」になりたいのである。
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