浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

「相棒」

2015-03-18 21:59:36 | メディア
 テレビでは、ニュース番組の他、テレビ朝日の「相棒」だけをみているが、しかし今日の最後は、不自然。

 「杉下」の「相棒」である「甲斐」が、“ダークナイト”という犯罪者であった。しかし、それまでの番組で、そういう気配を見せていなかった。きわめて唐突で、不自然であった。

 アイデアが尽きたのか。失望。

 これで、これも見なくなる。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国民への忍耐の押しつけ

2015-03-18 15:25:47 | 政治
 ドナルド・キーンさんの発言(『毎日新聞』記事)

戦後70年:今も続いている国民への忍耐押しつけ

2015年02月26日

 お国のために我慢すること、お国のために死ぬことが、日本の伝統なのだろうか。若き日に「源氏物語」と出合った感動を抱き続け、日本国籍を取得した日本文学研究者のドナルド・キーンさんに聞いた。【聞き手・高橋昌紀/デジタル報道センター】

 米国海軍の日本語将校として、太平洋戦争に従軍しました。武器は取りたくなかった。だから、語学の能力を生かそうと思ったのです。1943年2月に海軍日本語学校を卒業し、日本軍から押収した文書の翻訳任務に就きます。ある日、小さな黒い手帳の山に行き当たりました。同僚たちは避けていた。なぜか。悪臭が立ちこめていたからです。それは死んだ日本兵たちが所持していた日記でした。血痕がついていたんです。軍事機密が漏えいする恐れがあることから、米軍は兵士が日記をつけることを禁止していました。日本軍は違いました。部下が愛国的かどうか、上官が検閲する目的があったのでしょう。

 「軍紀旺盛なり」。部隊が内地にいるころはまだ、勇ましい言葉で埋まっています。ただし、やがては南洋の最前線に送られる。輸送船団の隣の船が突然、雷撃を受ける。乗船していた部隊もろとも、海の藻くずとなる。戦争の現実に日記の調子が変わってきます。上陸したガダルカナル島(1942年8月~43年2月の戦いで日本兵約2万800人が戦病死)はもちろん、南の楽園ではなかった。食糧はない、水はない。マラリアは流行する。米軍の爆撃は激しい。覚悟したのでしょう。最後のページに英語でつづっているものもありました。「戦争が終わったら、これを家族に届けてほしい」

 我々と同じ人間なんだ。戦時プロパガンダが伝えるような「狂信的な野蛮人」などではないのだ。胸を打たれました。従軍前はコロンビア大学で日本人教授(故・角田柳作氏)に師事し、日本の文化を学んでいました。それでも、中国大陸における日本軍の蛮行を聞くにつれ、日本は怖い国だと思うようになっていました。それが皮肉にも、自分が戦争に参加することによって、一般の日本人を知った。心から、彼らに同情しました。日本文学において、日記は一つの伝統的なジャンルを形作っています。平安朝の昔から、優れた日記文学が残されています。しかし、無名の日本兵たちが残した日記ほど、感動的なものはめったにありません。

 最初の玉砕となったアッツ島の戦い(1943年5月)に参加し、手りゅう弾を胸で破裂させて自決した日本兵の遺体を目にしました。沖縄戦(1945年3~6月)では乗船した輸送船をめがけ、特攻機が突入してきました。なぜ、日本人は死を選ぶのか。ハワイ・真珠湾に設けられた捕虜収容所で出会ったのは、文学、映画、音楽を愛する日本人たちでした。彼らのためにレコード鑑賞会を開いたとき、敵も味方もなかった。ところが、そんな彼らは「日本には帰れない」という。ホノルルのハワイ大学の図書館で、日露戦争の資料を探し回りました。実はロシア軍の捕虜になった日本軍将兵は数多かった。それを教えたかった。「俺は将校だから、ロシア軍将校と同じようにウオッカを飲ませろ」などと要求したケースもあったそうです。

 捕虜になることは恥--などということは軍部が強要した大うそです。戦争なのだから、命のやり取りは仕方がありません。しかし、相手に敬意を払うことはできる。能「敦盛」で源氏方の武将、熊谷直実は平氏の武将を一騎打ちで組み伏せるが、元服間もない自分の息子と変わらぬ若さと知り、見逃そうとしました。なんと、人間的でしょうか。味方が押し寄せてきたために熊谷は仕方がなく、敦盛を討ち取ります。その後に出家し、菩提(ぼだい)を弔うことを選ぶことになります。

 熊谷のような心を持たず、ひたすらに敵を殺すことを誇ることは、本当に恐ろしいことです。京都には(豊臣秀吉の朝鮮出兵で)切り落とした敵の耳を埋めた「耳塚」が残っています。これが武士ですか。「源氏物語」に魅了されたのは、そこに日本の美しさがあふれていたからです。西洋の英雄物語の主人公たちと違い、光源氏は武勇をもって、女性たちに愛されたわけではありません。彼が活躍した平安朝期にはたったの一人も、死刑になっていません。憲法9条を改正すべきだとの主張があります。現行憲法は米国の押しつけであると。しかし、忘れてはいませんか。この戦後70年間、日本は一人の戦死者も出さなかったではないですか。それならば男女平等だって、土地改革だって、押しつけではないですか。改めるべきなのですか。

 政府と軍部は都合良く、日本人の美徳である我慢強さを利用しました。作家の高見順(1907~65年)は昭和20(1945)年の日記で「焼跡で涙ひとつ見せず、雄々しくけなげに立ち働いている」国民の姿を記しました。彼は敗北であっても、戦争の終結を望んでいました。戦争指導者は国民に愛情を持っているのだろうかと疑っていました。何やら、東日本大震災(2011年3月11日)に重なるものがあるように思えてなりません。あれほどの地震と津波に見舞われながら、互いに助け合う日本人の姿に世界が感動しました。けれども、国民は理不尽に忍耐を押し付けられてはいないでしょうか。

 杜甫(712~770年)の有名な詩「国破れて山河あり」について、松尾芭蕉(1644~1694年)は反論しています。山も河も崩れ、埋まることもあるではないか。それでも残るのは人間の言葉である、と。終戦直後の日本文学も言論統制が解かれ、一つの黄金期を迎えました。谷崎潤一郎、川端康成らに加え、三島由紀夫、安部公房などの新しい才能が咲き誇ります。

 東日本大震災の福島原発事故では放射能によって、国土の一部が汚染されてしまいました。しかし、国民の半数が反対しているにもかかわらず、世界中を震撼(しんかん)させた事故がまるでなかったかのように、原発再稼働の動きは進んでいます。戦後70年を迎え、言葉の力が再び試されています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

すでに知られていたことだが

2015-03-18 08:49:51 | 近現代史
 リテラに「東京大空襲」に関する文が掲載されていた。すでに明らかになっていたことだが、考えてみれば、ボクが知っていることでも、あるいはメディアが過去に報じたことでも、読む人にとっては初見ということがある。ネトウヨの根拠もないイデオロギッシュな発言も、何度も繰り返していれば多くの人の知識となるよう意図的に広めているような気がする。一度書いたことをもう一度書き込むことはあまりしたくはないし、すでに古びた知識を指摘することもしたくはないのだが、やはりこの事実は知っておいたほうが良い。

 なお、マリアナ諸島を飛び立った米軍爆撃機は、富士山をめざして飛行してくる。そしてその後、東西の主要都市への爆撃へと向かうのだ。しかし、爆撃を終えた後、あまった爆弾は、当時軍需工場があたくさんあり、上空から目標としてわかりやすい(浜名湖と天竜川にはさまれている)ところであったために、浜松に爆弾を捨てていたのである。だから東京や横浜と同様に空襲回数が多いのである。

 この文にも出ているが、軍需工場などではなく、庶民が暮らすところへの空襲を開始したカーチス・ルメイは、戦後航空自衛隊育成に尽力したとして勲章を受けている。この事実を知ったときの複雑な気持ちは、今も継続している。日本国家に対する、不信感である。

東京大空襲の真実…市民に逃げるなと
東京大空襲の語られない事実…住民に逃げるなと命令、米の空襲司令官に日本が勲章授与

http://lite-ra.com/2015/03/post-953.html

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

辺野古における海上保安庁の暴力

2015-03-18 00:04:39 | 政治
 海上保安庁が、いかに暴力をふるっているかがよくわかる。

http://ryukyushimpo.jp/photo/storyid-240276.html

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする