浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

善良な人でも、人を殺す

2015-03-22 07:55:29 | 近現代史
 昨日静岡に行った。基本的にボクは鈍行で行く。往復2時間余の間、電車の中だ。昔は鉄道の旅と言えば、線路の継ぎ目でゴットンゴトンとしたものだが、今はそれがほとんどない。昔は、昔はということを記さなければならないのが残念なのだが、深夜電車の通行がないとき、保線区の国鉄の労働者が夏は汗にまみれ、冬は寒風のなか線路の保守に従事した。彼らは国鉄労働組合の労働者たちだった。しかし、1980年代、その国鉄労働組合をつぶそうと、国鉄の分割民営化が行われた。JRだ。今、おそらく保線区の労働は非正規労働者か下請けの会社にやらせているのだろうと思う。公が民(企業)に売られた結果だ。そのために労働者の賃金は大きく下降し、企業はもうけ口を確保した。資本を持つものが優雅を誇り、持たない労働者が生活水準を落としていく。もう今の若者は、そうした社会のなかに生まれ育ち、それが当たり前となった社会で生きる。

 さてその往復の電車の中で、一冊の本を読み終えた。森達也・礫川全次『宗教弾圧と国家の変容』(批評社)である。主題はオウムである。地下鉄サリン事件という多くの犠牲を生み出した教団についての対談本である。オウム真理教という教団を、そしてその中にいる人々を、国家や社会は自分たちとは異なる「異物」として見続けた。排除すべきものとしてである。
 しかし森達也は、オウムの信徒を対象にして撮り続け、『A』『A2』というドキュメンタリー映画を制作した。森がそこに発見したのは、ふつうの日本人であった。「異物」として排除されるような者たちではなく、普通の人々。その普通の人々が、サリンをつくり、松本で、東京でサリンをまき、普通の人々を殺したのである。

 普通の善良な人々は人を殺さない、というのが、日常を普通に生きるボクたちの見立てである。その見立てのなかにボクたちは生きる。

 ところがそうではない。普通の人々が人を殺すことがあるのだ。その例は戦争である。すでに過去のものとして、日本人は想起することすらなくなった戦争。1945年に終わった戦争は東アジアでは日本が起こし、ふつうの日本人が兵士としてアジア太平洋地域に動員された。戦争である。戦争とは殺人と破壊を基本的な手段として、一定の政治的目的を達成しようとするものだ。戦争に動員されるということは、殺人と破壊を担うということなのだ。

 動員されていった兵士たちは、命令により人を殺し、破壊行為を行った。彼らは日本の社会のなかで特異な者たちであっただろうか。いや、そうではない。日本では善良な農民であり、労働者であった。

 つまり、一定の条件さえあれば、善良な人間でも人を殺すのだ。そういう事例は、振り返れば、あるいは世界を見渡せばたくさん転がっている。ボクたちは、人間がそういう存在であることをきちんと見つめるべきなのだ。

 オウムの事件でも、オウム真理教を信仰している者たちを、あるいはサリンをまいたオウム信者までも、特異な者たち、排斥すべき者たちとみるのではなく、普通の人々が何故にそうした行動をとったのか、そのメカニズムは何かを探る対象として見つめるべきなのだ。

 だがオウムの裁判は、そうした機会をつくらなかった。

 日本人は、普通の人々がアジア太平洋地域で戦争を引き起こし、そのなかで殺人を繰り広げ、破壊活動に従事した。残念ながら、そうした行為を行った日本という国家、それを担った日本人たちのそうした姿を凝視することがなかった。直視せず、「敗戦」を「終戦」といいかえ、みずからの所業を見つめなかった。そして、被害を受けた国や人々からその責任を問われると、そんなことはなかった、それは合法だったなどと否定する始末だ。

 凝視すべきことを凝視せず、考えるべきことを考えない、それが続いている。しかし、ボクたちは考え、凝視しなければならない。3月20日、メディアも地下鉄サリン事件やオウムについて大きく取り上げていた。いったいボクたちはここで何を考えなければならないのか。ボクたちが問われているのだ。

 なお本書には、たくさんの付箋が貼られた。それだけ考えさせられるところが多かったということである。1700円+悪税である。

コメント (1)
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