昨日は、地下鉄サリン事件から20年。被害に遭った方にとっては、長く苦しい20年であったことだろう。今でも寝たきりの女性と彼女を介護するお兄さんの姿が映されるとオウムの犯罪に思いを馳せる。
そういえばこの年は、阪神淡路大震災も起きた。そのときは村山政権。いつもこのブログで指摘することだが、自然は支配者に味方する。いつも悪政の自民党・公明党が下野しているときに、震災が起きる。
昨日届いた『週刊金曜日』も、オウムをとりあげていた。森達也と作家・中村文則との対談だ。中村の小説は読んだことがない。そもそもそういう作家がいたことすら知らなかった。だが、対談の内容を読んでいると、なかなかいい意見を開陳している。最近の作品は『教団X』。図書館で借りようとアクセスしたところ、浜松市では4冊購入していて、読みたいとリクエストしている人が、95人もいた。あきらめた。
中村は、現在の日本を、「制度としては民主主義だけど、現実としては独裁に近い」と指摘する。沖縄・辺野古の新基地建設や集団的自衛権に関する動きを見ていると、まさにそうだと相づちを打つ。
また中村はこうも言う。
昔だったら「戦争はダメだよね」ということを何の衒いもなく書けたのに、今は一から説明しないといけない時代になってきて、みんなが知っているようなことでも事細かに書かなきゃいけないことにジレンマもあります。かつては簡単に言えたことが自明じゃなくなっている。
いつの頃からか、若い人たちに何事かを説明しようとしたときに、今までだったら既知のもので説明しなくてもよかったことが、説明しないと理解してもらえないことがわかって愕然としたことがある。それはたとえば、地図上のイラクの位置である。山本一太というしばしばテレビに出ていた政治家(もちろんこういうアホは自民党議員だ)が、イラクの位置を答えられなかったことが一時話題になったが、要するに基礎的な知識でさえ、剥落しているのだ。
いつ頃からかわからないが、知というものが重要なものであるという認識がなくなってきたのだろう。子どもたちは、学校での知識はテストのためのみにある、テストで点数を獲るためのみにあるのであって、テストが終わればさっさと消してしまって良いものだという風潮が出てきたように思ったことがある。
知とか教養ということばは少数の学者や読書家のみの世界にあって、一般社会や、もちろん政治の世界でもすでに生命をなくしたものとなっている。
昨日、不動産関係の仕事をしている方から電話があった。日本の現状を憂えている方からだ。もうじき日本は、日の丸を各家で掲げるようになってしまうのではないかと話されていた。そうかもしれないとボクはこたえた。どこかがそうしたことを推進しようとすれば、簡単にそうなってしまうというおそれを持つからだ。
先述の対談で、森達也は、「行き着くところまで行くしかないかな、と思っている」と語っていた。ボクも、一面ではそういう思いをもつ。
知とか教養が顧みられない日本、過去の歴史についても同様だ。だから日本人は、同じ過ちを繰り返す。知とか教養より、カネだ、カネだ・・・・・
もうじき21世紀の「義和団の乱」が起きて、安倍率いる日本軍がその活躍を見せるときがくるのではないか。
そういえばこの年は、阪神淡路大震災も起きた。そのときは村山政権。いつもこのブログで指摘することだが、自然は支配者に味方する。いつも悪政の自民党・公明党が下野しているときに、震災が起きる。
昨日届いた『週刊金曜日』も、オウムをとりあげていた。森達也と作家・中村文則との対談だ。中村の小説は読んだことがない。そもそもそういう作家がいたことすら知らなかった。だが、対談の内容を読んでいると、なかなかいい意見を開陳している。最近の作品は『教団X』。図書館で借りようとアクセスしたところ、浜松市では4冊購入していて、読みたいとリクエストしている人が、95人もいた。あきらめた。
中村は、現在の日本を、「制度としては民主主義だけど、現実としては独裁に近い」と指摘する。沖縄・辺野古の新基地建設や集団的自衛権に関する動きを見ていると、まさにそうだと相づちを打つ。
また中村はこうも言う。
昔だったら「戦争はダメだよね」ということを何の衒いもなく書けたのに、今は一から説明しないといけない時代になってきて、みんなが知っているようなことでも事細かに書かなきゃいけないことにジレンマもあります。かつては簡単に言えたことが自明じゃなくなっている。
いつの頃からか、若い人たちに何事かを説明しようとしたときに、今までだったら既知のもので説明しなくてもよかったことが、説明しないと理解してもらえないことがわかって愕然としたことがある。それはたとえば、地図上のイラクの位置である。山本一太というしばしばテレビに出ていた政治家(もちろんこういうアホは自民党議員だ)が、イラクの位置を答えられなかったことが一時話題になったが、要するに基礎的な知識でさえ、剥落しているのだ。
いつ頃からかわからないが、知というものが重要なものであるという認識がなくなってきたのだろう。子どもたちは、学校での知識はテストのためのみにある、テストで点数を獲るためのみにあるのであって、テストが終わればさっさと消してしまって良いものだという風潮が出てきたように思ったことがある。
知とか教養ということばは少数の学者や読書家のみの世界にあって、一般社会や、もちろん政治の世界でもすでに生命をなくしたものとなっている。
昨日、不動産関係の仕事をしている方から電話があった。日本の現状を憂えている方からだ。もうじき日本は、日の丸を各家で掲げるようになってしまうのではないかと話されていた。そうかもしれないとボクはこたえた。どこかがそうしたことを推進しようとすれば、簡単にそうなってしまうというおそれを持つからだ。
先述の対談で、森達也は、「行き着くところまで行くしかないかな、と思っている」と語っていた。ボクも、一面ではそういう思いをもつ。
知とか教養が顧みられない日本、過去の歴史についても同様だ。だから日本人は、同じ過ちを繰り返す。知とか教養より、カネだ、カネだ・・・・・
もうじき21世紀の「義和団の乱」が起きて、安倍率いる日本軍がその活躍を見せるときがくるのではないか。