浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

「宰相A」

2015-03-25 21:02:49 | 
 『宰相A』は小説である。書いたのは田中慎弥。芥川賞作家である。おそらく「宰相A」は、安倍首相である。内容は、安倍首相が創造したい国家ができあがった後の時点、その時点を描く。そしてその時点でも、安倍首相は「宰相」なのだ。

 この小説は、アイロニーに富む。アイロニーとっても、それはどうやら「ロマン的イロニー」である。

 さて主人公Tは、母の墓参りのためにO町に行く。駅に降りて改札口をでようと思ったとき、そこが別世界だと気づく。そこに住む人々は、緑色の制服を着て英語を話す、姿形はアングロサクソン。それなのに、彼らはみずからを日本人と自称する。

 Tは日本軍に拉致される。その日本軍を擁する日本国は、「民主国家」である。その「民主国家」はアメリカとともに戦争をしているのだ。

 「世界は我が国のように正義と民主主義が確立されたばかりではありません。そこでアメリカ主導のもと、他の同盟国の協力も得て、戦争主義的世界的平和主義の精神を掲げ、横暴な反民主主義国家に対し、平和的民主主義的戦争を行っている」

 そしてその日本国の宰相は、「旧日本人」、つまりアジア系の人間が宰相になってるのだ。「旧日本人」にも受けが良いように、日本人的な精神をもった「旧日本人」たる日本人を宰相にしたのである。その宰相は、

 緑の服を着た六十くらいの男が現れる。いわゆる旧日本人、つまり日本人だ。中央から分けた髪を生え際から上へはね上げて固めている。白髪は数えられるくらい。眉は濃く、やや下がっている目許は鼻とともにくっきりとしているが、下を見ているので、濃い睫に遮られて眼球は見えない。俯いているためだけでなく恐らくもともとの皮膚が全体的にたるんでいるために、見た目は陰惨だ。何か果たさねばならない役割があるのに能力が届かず、そのことが反って懸命な態度となって表れている感じで、健気な印象さえある。

 そして宰相は、テレビで演説する。

 「我が国とアメリカによる戦争は世界各地で順調に展開されています。いつも申し上げる通り、戦争こそ平和の何よりの基盤であります。戦争という口から平和が流れるのです。戦争の器でこそ中身の平和が映えるのです。戦争は平和の偉大なる母であります。両者は切手も切れない血のつながりで結ばれています。健全な国家には健全な戦争が必要であり、戦争が健全に行われてこそ平和も健全に保たれるのです。」


「我々は戦争の中にこそ平和を見出せるのであります。戦争を通じてのみ平和を構築出来るのであります。平和を搔き乱そうとする諸要素を戦争によって殲滅する、これしかないのです。(中略)最大の同盟国であり友人であるアメリカとともに全人類の夢である平和を求めて戦う。これこそが我々の掲げる戦争主義的世界的平和主義による平和的民主主義的戦争なのであります。」

 そしてその日本社会は、国家至上主義のオーウェルの『1984年』を彷彿とさせるものだ。

 作家Tは、抵抗的な姿勢を見せるが、結局は日本という国家で、国家のお墨付きを得て、国家のための作品を書くようになる。しかしなぜ自分がそうなったのかはわからない。その経過の記憶は、消されているのだ。

 まさに安倍首相の妄想のなかにある国家社会が実現してしまった後の世界が描かれているといってもよいだろう。

 イロニーでもあり、警告でもある。

 なおこの作品は単行本となっているようだが、『新潮』2014年10月号に全文掲載されている。



 
 
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静岡市の生活圏にいないということ

2015-03-25 19:08:36 | 日記
 毎月何度か静岡に行っている。そのなかのひとつに研究会がある。毎月そこに参加しながら考えたことがある。それは、生活圏の問題である。

 静岡県は、伊豆、駿河、遠江の三国が合体し、静岡市を県庁所在地にしている。静岡市は、静岡県の中心となっている。地理的にも中心となる。浜松が中心となったら、伊豆の人が困るだろう。静岡市が県都になるのは、地理的にもやむを得ないことだ。

 ボクは浜松市に住んでいるから、浜松市を中心とした生活圏があり、静岡市とは基本的に無関係である。

 わが研究会の事務局は静岡大学にあり、会合も研究会も静岡市で行っている。いちおう県内各地から人は集まるが、駿河国の人がほとんどである。駿河国の人は静岡市を中心とした生活圏で生きているのだから、それは当たり前であり、生活圏と合致しているから参加することも容易である。

 ところが浜松に住んでいると、静岡に行くというそのこと自体がひとつの決断であり、「行くぞ!」という気持ちが必要なのだ。

 最近特に感じていることを記そう。ボク自身が静岡に行く場合は、きちんとした目的をもって、その目的だけのために行き、用事が済めば帰る。しかし、駿河国の人々は、生活圏を同じくしているので、多数の線でつながる関係ができる。多数の線でつながる一定の人間関係のなかに、単線だけでつながるボクが入り込むのだが、そこでボクは、実は大いなる違和感を感じるのだ。その違和感は、行けば行くほど大きくなり、一向に小さくはならない。
 つまりボクは、どうしても「よそ者」なのである。

 やはり、静岡市に本部がある事業は、静岡周辺の人々が基本的に担うべきである。

 浜松市が、県で行っている事業(たとえば企業へ様々な補助金を支給する事業)と同様な事業を立ち上げることがある。ボクは市当局に、なぜ県が行うことと同じ事を浜松市でも行うのかを質問したことがある。当局者は、「静岡に行くのがなかなかたいへんなのです」と答えた。そのときは反発したけれども、今はその気持ちがわかる。

 静岡市やその周辺に住んでいる人にはわからないだろうが、やはり浜松から静岡に行くのはたいへんなのだ。それは地理的な問題だけではなく、生活圏の問題でもあるのだ。


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「我が軍」が始動

2015-03-25 10:54:55 | 政治
 安倍首相が自衛隊のことを「我が軍」と呼んだことは、先日このブログで報じた。メディアではこれを問題視する姿勢がないようだが、しかしこれはものすごく重要な発言だ。日本国憲法の条文そのものの否定であり、法治国家の否定である。

 さて何度も記すが、戦争とは、一定の政治目的を達成するために、「敵」とされた者やそのもつ財産(家屋やその他)を破壊することである。安倍首相の「積極的平和主義」というのは、積極的に戦争に参加して、その結果としての「平和」を獲得しようとするもので、「平和」の前に、殺戮と破壊をしなければならないのだ。

 自衛隊は、もちろんそのための組織である。だから、自衛隊員こそが殺戮と破壊をする当事者となるのであり、また同時に「敵」からは殺戮と破壊の対象となる。

 自衛隊は、その訓練を始めているという情報が、下記に記されている。

http://lite-ra.com/2015/03/post-970.html
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