浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

わからないことだけど、なるほどと思うこと

2013-04-19 10:24:05 | 日記
 今日の『中日新聞』東海本社版の一面トップは、金融商品取引を装った詐欺事件のことである。高齢女性が、社債購入費として1000万円を渡すというので警察官がその場所までついていき、現れた男を、他の事件で3300万円だまし取ったことがわかって逮捕した。

 しかし、1000万円を持って行った女性は、儲け話が妨害されたと立腹し、その金融機関の口座を解約したという。女性はそれまでに1000万円、その逮捕劇があった後でも2200万円を渡したという。この高齢女性、3200万円をだまし取られたわけだが、そうとは思っていないようだ。

 毎日のように、「オレオレ詐欺」が報道される。今日の社会面でも、愛知県津島市の女性が750万円だまし取られたという。

 わからないことは、なぜこれほど同様の詐欺事件が報道されているのに騙されるのかということだ。

 そしてもう一つ、なぜ高齢者はこんなにも多額のカネを持っているのかということだ。これについては町田の住人なら、ボクよりも深く考えるのだろうが、ボクはわからないからわからないとしておく。要するに、持っているからもっているのであって、その究明は無理としかいいようがない。

 最初の疑問を考える。

 ボクの場合は、こんなにも手口を含めて何度も報道されているから、おそらく騙されない。騙される人びとについて、まず考えられることは、新聞、テレビニュースなどに接していないということが予想される。こういう詐欺事件が頻発していることを知らないのかもしれない。

 ひょっとして、詐欺事件が頻発していることを聞いたことはあるが、他人事としてしかみていない。あらゆる情報は他人事として存在し、みずからの記憶に刻むべきこととは考えない。日常生活を維持していくことに関わること以外は、関係のない情報として処理していく、という生き方があるのではないか。

 ボクは政治のこと、経済や社会のことなど、色々考えることがいっぱいあって、どう考えるべきかを知るために本を読んだりして情報を蓄積していくのだが、そういう例は、ひょっとして稀なのではないか。

 ボクの知る人物には、働いている場合でも、仕事を始め自分自身の身の回りのことだけで精一杯だというように生きている人、またはボクと同じように、政治や社会のことを知って怒ったり、失望したりする人もいる。そして後者のほうは圧倒的に少ない。

 社会がよくならないのは、生活の再生産を維持するためにだけ生きている、そういう人が多いからではないかと思う。日常生活という世界の中だけで生きていると、日常生活の世界の中での怒りや絶望はあるが、日常生活を取り巻く外の世界のことは、おそらく「自然現象」、つまり人知の及ばないことなのだろう。甘受し、耐えることなのだろう。

 消費税がアップする。それもおそらく「自然現象」なのだろう。

 詐欺にあうことは、多かれ少なかれ、すべての国民が体験していることなのだと思う、今も、これからも。

 
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【本】鈴木正『倚りかからぬ思想』(同時代社)

2013-04-18 09:31:59 | 日記
 来日しているアウンサンスーチーさんのインタビューを聴いていたら、スーチーさんの行動原理は、フランクルの『夜と霧』に記されているものとほぼ同じであった。自らの個人的な生活ではなく、自らに社会や歴史から要請されたことに、絶望することなく全力で取り組む。「やりたいことではなく、すべきことをする」、「困難に遭遇したときには、過去の楽しかったことを思いだす、その思い出が力を与えてくれる」、「過去は、よりよい現在、よりよい未来をつくる力となる」などと応えていた。


 さて鈴木正さん。思想史家といえばよいのだろうか、狩野亨吉などの研究家である。年齢をみたら80代半ばである。もうそんな年になったのかと驚いた。我が家にも鈴木さんの本が何冊かある。

 ユニークな思想史家であって、まさに「倚りかからない」思想を紡いできた人である。なによりも、思想というものを生活との関連で捉えようとした。

 その鈴木さんが、最近書かれたものをまとめたのがこの本である。線こそ引かなかったが、付箋をたくさんつけた。

 たとえば、「理論は実践的、実践は理論的に」。「支配者は裏切る」。とくに後者なんか、最後の最後まで一億玉砕を叫んでいたら、ウラでは支配者たちが降伏の裏工作に励んでいたり、また「鬼畜米英」を叫んでいた支配者たちが、アメリカと手を組みアメリカは素晴らしい、などとのたまわる。

 庶民は、躍らされる。そうならないようにしようというのが、「戦後」のスタートであったはずだが、今や昔通り、庶民は躍らされるようになってしまった。

 日常生活と、最近の政治の動きと、そして思想史とが、うまい具合に調和されながら、筋を通した主張が散りばめられている本が、これだ。

 ただし、著者の責任ではないが、校正ミスが多い。これは出版元の同時代社の力量の問題。
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ボストンのテロ

2013-04-17 10:06:23 | 日記
 ボストンマラソンのゴール地点二箇所で爆発が起き、多くの死傷者が出たという。こういう無差別のテロは、糾弾されるべきものであって、いかなる理由があろうと、一片たりとも擁護できるものではない。

 ところで、今日の新聞に、その爆発物は、「殺傷能力を高めるために爆弾内にベアリング球のような球状の散弾を詰め込んだ「りゅう散弾」タイプのもの」とあった。

 ボクは、そう書かれると、ベトナム戦争の際に、アメリカ軍が人びとが暮らすところにボール爆弾なるものを大量に投下したことを想起せざるを得ない。ボール爆弾も同様で、爆弾から無数のボールが四方八方に飛び散って近隣にいる人びとのからだの中に入り込み、多くの苦痛を与えるという、人間を苦しませるための爆弾であった。

 ことバンクの説明はこうだ。

米軍がベトナム戦争用に開発した散弾形の爆弾。合金製外被に約300個の小鋼球を埋め込んだ子爆弾を,約600個詰めた爆弾で,空中で破裂,子爆弾をまきちらす。子爆弾は着地により爆発して鋼球を飛散させる。


 ベトナム戦争の頃、この爆弾使用を非難するメディアはほとんどなかった。

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立ち位置のこと

2013-04-16 20:17:16 | 日記
 「遺稿集」の二校、そして書き上げた「解題」を印刷会社に渡したので、少し時間ができるようになった。夕方少しの時間畑に行くが、今日は午後2時頃から、じっくりと農作業に従事した。まさに晴耕雨読の日々。

 今日は『永山則夫 封印された鑑定記録』を読み終えることができた。よい本だった。

 少し時間ができたので、村上春樹の『海辺のカフカ』を図書館にリクエストした。その後は『1Q84』に挑戦しよう。最近また新刊を出したようだが、これもいつか読むことにしよう。

 さて、どうしたら鋭角的な切り込みができるか、について考えたい。

 まず、自らの立ち位置を決めることだ。いかなる立場でものを考えるか、である。見え方は、立場によって異なる。たとえばバスに乗っているとき、自転車に乗っているとき、車に乗っているとき、歩いているとき、同じ道を通っていても、風景は異なって見えるし、考え方も異なる。

 ボクは、いつも「底辺の視座」ということを語る。もっとも虐げられた人の眼から社会や政治を見ることが必要だと思う。社会問題についてどう考えていいかわからないというとき、果たして自分自身の立ち位置はしっかりしているのだろうか。フラフラとしているのではないか。

 たとえば、「満洲移民」について、ボクは書いたことがある。「満洲移民」をどう考えるか。その場合、別々の二つの眼からみる。一つは「満洲」という傀儡国家が「建国」される前から住んでいた中国人などの庶民、彼らは日本からの移民によって土地や家屋を接収されている。もう一つは、移民してきた日本人。彼らはどちらかというと貧農であった。日本の「満洲」侵略政策のある種の担い手として、日本から追い出され、そして戦争末期かれらは日本国家に棄てられた。日本人「満洲移民」は、二度にわたって棄てられた。

 これら二つの視座からみれば、「満洲移民」をどう考え叙述するかは明らかである。

 ジャーナリストの本多勝一が、『殺す側の論理と殺される側の論理』を書いている。本多はもちろん「殺される側」から視る。
 『本多勝一集』は、ジャーナリストをめざす者にはぜひ読んで欲しいと思う。ついでに、斉藤茂男の本も読んで欲しいと思う。本多は朝日新聞社が相対的によい時代の記者、斉藤茂男は共同通信の記者だった。斉藤はすでに亡くなっている。

 今日はこれまで。
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【本】堀川惠子『永山則夫 封印された鑑定記録』(岩波書店)

2013-04-16 13:01:16 | 日記
 著者、渾身の作だろう。堀川さんは、永山事件について書いてきた。前作も見事なものであるが、今回も、おそらく永山事件について書く最後の本だという気持ちがあったのだろう、素晴らしいとしかいいようがない。

 
 最近の刑事事件の裁判に於いて、被害者の応報的な気分感情、それに同情する世間の雰囲気により、厳罰化が進むだけではなく、なぜそのような犯行を起こしたのか、それを問う姿勢がきわめて弱くなっている。

 本書は、石川義博医師による鑑定書、それは永山少年の生育過程のみならず、彼の感情や意思、そういうものを十分に咀嚼し、この事件の背景を納得的に説明しているものであるが、そしてその鑑定書を書くために石川医師と永山則夫というひとりの少年の対話の記録としての膨大な録音テープ、そして堀川さんの鋭い問題意識とがうまい具合に融合して書かれたものだ。

 この本を読むことによって、なぜ永山があのような犯罪を起こしたのか、永山少年の生まれてから事件を起こすまでの短い永山少年にとっての生活、そしてそこで育まれた感情、意志を理解することができる。

 そして、家族の崩壊が叫ばれる中、家族の持つ意味というものをもう一度考えさせる内容となっている。

 石川医師の鑑定書、そして録音テープという「材料」を、永山少年の生の軌跡に織り込みながら、現代の世相に斬り込んでいく。

 裁判員裁判、そして応報的な感情が高まっている今、刑事事件の本質に迫る営為は今後もなされていかなければならない。そのための重要な一冊として、歴史に刻まれる本である。

 とてもよい本である。多くの方々に読んでもらいたいと思う。

 〈追加〉本書は、石川医師が永山則夫本人や母親、姉から聞いたこと、永山の裁判の時に兄の証言など、そして堀川さんがみずから調べたことを統合して、ほぼ時系列に叙述している。

 犯行に近づけば近づくほど追い込まれていく永山の精神状態を知るにつけ、読んでいてその陰惨さに心が重くなる。そして永山の家族の悲劇的なその後も記されていて、さらに気が重くなる。しかし、極度の貧困が家族に覆いかぶさる中で、いかなる事態が起きるか、きちんと知るべきだと思う。貧困が政策的につくり出されている中、貧困がいかに犯罪的な役割を果たすか。

 ボクはこの本に何も書き込まず、付箋も貼ることがなかった。だが、この本は持っていたい。そして少し時間をおいてからもう一度読まなければならないと思った。

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社説

2013-04-15 08:33:09 | 日記
 『朝日新聞』の社説は、どうも文になっていない。たとえば昨日の社説。

米軍と憲法―最高裁長官は何をした

 戦争の放棄を定める憲法9条のもとでも米軍が駐留できる。その解釈を与えた最高裁の判決の裏に、何があったのか。

 半世紀前の1957年。米軍旧立川基地の拡張に反対する学生ら7人が基地内に入り、日米安保条約にもとづく刑事特別法違反に問われた。「砂川事件」である。

 東京地裁は59年3月に、米軍駐留は憲法9条に違反するとして7人に無罪を言い渡した。

 判決が確定すれば、米軍を取り巻く状況は一変する。審理は高裁をとばして最高裁にまわった。交渉中の安保条約改定を前にこの裁判はいつ、どう決着するか。日米両政府は注視した。

 このときの駐日米大使マッカーサー2世から米政府にあてた公電を米公文書館が公開した。

 当時の田中耕太郎最高裁長官と大使ら米外交官との、非公式なやりとりを伝えている。

 公電によると長官は、米側に判決の時期と、世論を割りかねない少数意見を避け、15判事の全員一致で判決したいという考えなどを伝えたという。

 憲法上の争点を地裁判事が判断したのは不適切だった、との発言も引用されている。米大使は自らの印象として「長官は地裁判決は覆されるだろうと思っている」と記した。

 その言葉どおり、最高裁は12月に地裁判決を全員一致で覆した。翌日の公電は「全員一致の判決は、裁判長の手腕と政治力に負うところがすこぶる大きい」と長官をたたえた。

 忘れてはいけないのが、この最高裁判決の重みだ。

 日米安保条約のような高度に政治的な問題に司法判断を下さないという「統治行為論」を示し、その後の在日米軍がからむ訴訟で用いられ、いまも拘束力をもち続けている。

 外交公電がつねに正しいとは限らない。発した側の外交官に都合のよい記載になっていると疑われる場合もある。

 だが一国の司法の長が裁判の利害関係者と会い、判決の行方をほのめかしたという記録は、放っておけない。

 司法の独立は守られたか。

 評議は適切に行われたのか。

 田中長官は74年に亡くなっている。それでも、当時の行動や発言の記録の開示を、市民団体が最高裁に求めている。もっともな要請だ。

 すでに公開された公文書は、上訴や立証の方法に至るまで、外務省と米側が密接にやりとりしていたことも伝える。

 戦後史をつらぬく司法の正統性の問題だ。最高裁と政府は疑念にこたえなくてはならない。


 以上のように、ほぼワンセンテンス毎に行を変えているが、内容的にもそれぞれの文を並べただけで、相互の関連が感じられない。こういう書き方の文に、行間に筆者のいいたいことが詰まっている場合もあるが、社説はまったくそうではない。行間は空白だ。
 また文にパトスがない。紋切り型の文が、ただ並べてあるだけだ。自らが書いている社説を読んでもらう、わかってもらいたい、という気持ちがまったく感じられない。官僚的な文。血が通っていない。だから社説全体が、抽象度を増し、無の世界へと走り去っていく。書いている人にむなしさはないのだろうか。


 ちなみに、以下は昨日の『中日新聞』の社説である。比べて欲しい。昔の『朝日』の社説がなつかしくなる。


攻めの農業と言う前に 週のはじめに考える   2013年4月14日


 環太平洋連携協定(TPP)の不安をかき消すように“攻めの農業”が叫ばれます。だがその前に、農家と消費者が守るべきものがあるはずです。

 愛知県半田市の北村真也さん(24)は、一年間の研修期間を終えて、間もなく地元で就農します。

 サラリーマン家庭の長男。祖母が家庭菜園で育てた野菜を食べて「おいしい」と感じたのをきっかけに、市内の農業高校から東京農大へ進み、有機野菜を育てるサークル「緑の家」に所属した。四年生になる前に一年間、南ドイツの農場で働いて、「大丈夫、農業で食べていこう」と決めた。


必要とされる存在に

 研修に通うのは、同じ愛知県の江南市にある佐々木正さん(66)の農園です。

 佐々木さんは元教師。四十五歳で専業農家に転じ、十五年ほど前から新規就農希望の研修生を受け入れて、農薬や化学肥料を使わない有機農業の栽培技術を教えています。「自立すること。現場で工夫することを教わりました。もう何も不安はありません」と北村さんはこの一年を振り返る。

 農林水産省の青年就農給付金などを元手に、近所のつてで二反(二十アール)の畑を借りられるめどがついています。一年に何度も収穫できる軟弱野菜(葉物)から始め、五年後には一町歩(一ヘクタール)に広げ、法人化をめざす。できた野菜は宅配します。

 身の丈を超えた大規模化には反対です。一人で一町歩耕して百二十世帯に売るよりも、二人で五反ずつをよく活用して、百四十世帯によいものを届けるべきだと考えます。

 日常に食べられるものを作る。地域に必要とされる存在になる。安全安心を求める地元消費者と結び付く。地域の農業者同士がネットワークを結んで支え合う-。これが、北村さんの“農業”です。

 「今農業に必要なのは、人づくり。そして、消費者との関係づくり。人のつながりを強くして地域の農業を守ること。攻めの農業? あまりピンと来ませんねえ」と、佐々木さんは苦笑します。

 畑の隅でブロッコリーが黄色い小さな花をつけ、ミツバチとモンシロチョウがとまったり、離れたり。穏やかな春の午後でした。


救世主にはなれない

 そもそも、“攻めの農業”って何だろう。まず例に挙げられるのが輸出です。農水省の資料には、こうあります。

 <今後十年で倍増が見込まれる世界の食市場に、日本の農林水産物・食品が評価される環境を整備し、日本の「食文化・食産業」の海外展開と日本の農林水産物・食品の輸出促進を同時に推進する>

 政府は、例年五千億円前後で推移している農林水産物の輸出額の倍増を企図しました。もちろんそれ自体、容易ではありません。

 一昨年の輸出額四千五百十一億円のうち約半分が加工品、四分の一が盆栽や真珠といった非食料品でした。食料品の多くは、サケ、マスなどの水産物が占め、純粋な農産物は百八十億円分しかありません。農業の救世主とは言い難い。

 農地を集約し、経営の大規模化を図るにしても、地平線のかなたまで続く大農園に飛行機で種をまくような国々に、結局は太刀打ちできません。

 TPPという名の黒船は、こと農業に関して言えば、成長至上主義の終焉(しゅうえん)を告げに来たのかもしれません。

 作り手は規格にあった品物を効率良く育てて淡々と送り出す。買い手の側は値段の安さをひたすら求め、消費する。その繰り返しでは農業の持続可能性が、もう保てないということを。

 二月の終わり、第七十二回中日農業賞授賞式のあいさつで、審査委員長の生源寺真一・名古屋大学教授が言いました。

 「世界一鋭敏だった日本人の食べる力、味わう力が、衰えているような気がします」

 農学者が消費者の心配をしています。


持続可能性の問題だ

 食べる力、良いものを選ぶ力が弱まれば、食べ物を作る力も衰える。埼玉県の面積に等しい耕作放棄地があることは、よく知られるようになりました。それを除いても農地の利用率は約九割にとどまっています。

 手入れのよい水田や畑がつくり出す景観美は、確実に衰退しています。

 勇ましく海外へ打って出るのもいいでしょう。だがその前に守りを固める必要がありそうです。

 環境、防災、水循環、それにエネルギーなど食料生産以外の機能も含め、地域に不可欠な農業という価値をどうやって維持していくか。総合的には持続可能性が実現できるかどうかに、帰着するでしょう。農家、消費者それぞれに、考え直す時なのです。
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自分への投資ということ

2013-04-15 06:20:10 | 日記
 生きているということは、自分の眼前に入れ替わり立ち替わり、様々な問題が提起されてくるということだ。そしてそれらに対し、ごく短時間のうちに何らかの態度決定を迫られ、人は今までの自分自身の経験や知見をもとに、判断を下していく。

 これは、振り返って見ると、幼いときから行われてきた。

 だが社会にでると、この態度決定には重大な責任が伴ってくる。間違った決定をすると、他人からの評価が下がってしまうということもある。他人からの評価なんか気にしない、ということは、個人的な生活のレベルでは通用するが、仕事の面ではそれは通らない。

 ボクの例で考える。ボクは、何らかの仕事を引き受ける場合、自らが現時点でもっている力量を超える(大幅に超えるのではない)ような、つまりある程度努力しないといけないようなレベルのものを引き受ける。そしてその引き受けた仕事には、全力で取り組む。「あの人に仕事を頼むと、確実なものができる」という評価を得られるように。

 そのために必要なことは何か。簡単に言ってしまうと、時間とカネである。よいものをつくるためには、時間とカネをかけることが必要だ。これもボクの事例で説明する。

 1937年から38年にかけての南京事件に参加した兵士の手紙を発見した。「南京事件なんかなかった」などという、なんの検証もしていない言説を振りまく輩が多い中、その手紙をどう処理するか。まず南京事件のなかに手紙に書かれた事実を位置づけるために、関連文献を集め、読む。ここでまず本を買うカネ、そしてその本を読む時間が必要となる。

 兵士が所属した部隊がよくわからなかった。手紙の末尾には、部隊名があるのだが、部隊長の名前の、たとえば「鈴木部隊」などという書き方が多かったのである。そこで防衛省の戦史資料室に何度か通って、その部隊名を特定し、その部隊の行動した軌跡を調べた。ここでも、東京まで行くカネ、そして調べるという時間が必要となる。

 すると、その兵士が手紙を投函した場所が、その部隊が通過した経路と合致した。

 これでその手紙の内容は、信憑性をぐっと高めた。

 ところが、これにいちゃもんをつけてくる輩がいた。自分では何も調べたりしていないのに、史料的根拠を持たない数冊の本を読み、その内容を信じ込んでいる者からだ。

 そこで、その手紙を書いた兵士が所属した部隊のルートを実際にたどる、中国への旅を二度行った。ここでもカネと時間がかかる。

 南京では、その兵士が宿泊した銀行の建物を発見したり、杭州近くの上陸地点を確定できたり、大きな成果が上がった。

 これでこの手紙は南京事件を物語る盤石の信憑性を持つこととなった。

 そしてこの手紙に関しては、国際的な大会で発表し、また歴史書に叙述した。

 以上のように、そういう創造的な仕事をする場合、時間とカネをつかわなければならない。それなしに良い仕事はできないのだ。

 学生時代は、時間はあるがカネはない。社会人になると、カネはある程度自由になるが時間はなくなる。しかしだからといって、その状況に甘んじていてはいけない。時間もカネも捻出しなければならないのだ。

 そして自分自身の創造的な仕事に打ち込むのである。先ほど「あの人に仕事を頼むと、確実なものができる」という評価は、そうしたある種の「投資」によって獲得されるのである。

 しかし問題は残る。どのように時間をかけ、何にカネをつかうかをどう考え判断していくか。もちろん仕事の内容やケースによって異なる。そこに現れてくるのが、問題意識である。これについては稿をあらためよう。

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信じられないこと

2013-04-14 21:56:24 | 日記
 安倍内閣の支持率が上昇したというニュースを、車の運転中に聞いた。支持率は60パーセントを超えている。信じられないことだ。

 人びとは、社会の動向をきちんと見抜く力を失ってしまったようだ。最近株価が上昇している。何を隠そうボクも若干の株を持っている。そこで100株売った。3万円近く儲けてしまった。またボクは少しだけれども外貨預金もしている。勉強の意味で買っておいたものだ。いつのまにか、日本円に換算した値が上昇している。少額ではあるが、これらはいわゆる「余裕資金」である。その「余裕資金」を大量に保有している人びとは、きっと喜んでいるのだろう。

 だが、日本国民で株に投資したり、外貨預金をしている人はそんなに多くはない。無貯金世帯が3割いるという統計があるから、そういう人びとはもちろん「余裕資金」はないだろうし、普通の生活をしている人は「余裕」なんかないだろうと思う。

 だとすると、株価の上昇をよろこんでいるのは、一握りの階層でしかない。

 安倍政権の政策に対する「期待感」にのって、外国資本が入り込み株価をつりあげている。しかし外国資本は、日本経済なんかに興味はなく、ただ投資して金儲けができればよいのだから、株価があがってこれ以上あがらないなあと判断するとき、外国資本は儲けをかっさらってさっと引き上げていく。今まで、世界各地で行われてきたことだ。そのおそれは十分にある。日本経済が活気にあふれて株価が上昇しているのではないのである。庶民は、低賃金で苦しい生活を続けているから国内需要が高まっているわけでもなく、企業が設備投資を国内でどんどんすすめているわけでもない。政府・自治体も公共事業を行う余裕はない。

 日本という国の国民は、上層の階層が喜ぶことを喜ぶようだ。今日の『中日』に面白い記事があった。貴戸理恵(関西学院大学教員)の「就職活動での生存戦略」という記事の中に、格差を問題だと見なす人は、2008年が53・3パーセント、2012年では39・1パーセントになったというのだ。社会の問題を問題視しなくなった人が増えているようなのだ。

 円安となり輸出はいいかもしれないが、輸入にカネがかかるようになる。石油はもちろん上昇する(石油価格は下がっているようだから円安の影響を受けていないように見えるが)。するとほとんどすべての生活物資の価格が上昇していくはずだ。実際ティッシュペーパーやトイレットペイパーの価格は近いうちに上がるという。

 一部の企業の一時金がアップされるかもしれないが、勤労者全体から見ればほんの一部。

 自分自身の生活状況を客観的にみることができなくなっているのかもしれない。安倍内閣の政策は、格差をより拡大させる方向に社会を持って行こうとしているのに、そういう内閣を支持してしまう不思議さ。

 

 
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久しぶりの高校生

2013-04-13 22:53:59 | 日記
 先日、高校生に「人間の尊厳」について話そうとした。フランクルの『夜と霧』をもとにして話そうと思っていたのだ。

 ところが、高校生はヒトラーを知らない。もちろんアウシュヴィッツ収容所も知らない。「聞いたことある?」と尋ねても、首を振るばかり。知っていたのはたったひとり。


 そうなると、フランクルに至るまでの説明を延々としなければならない。

 
 いつの頃か、当然知っていると思って話していたら、全然知っていなかった。ボクの話す声は空間に即消え去っていたのだ。それがわかったのは、もうかなり前。高校生の脳から日本人共通の「知」が消えていることは、ボクも知っていたはずなのに。わかってもらうためには、詳しい説明が必要だ。「神は細部に宿り給う」である。


 日本人が当然脳に刻印しておかなければならない「知」が、昔はあった。たとえばヒロシマ、ナガサキ、第五福竜丸。だから話は案外通じたのだ。

 ところが、今若者と話していて、話が通じないことがよくある。なぜなのか。

 中学校は高校への受験教育の場、普通高校は大学受験教育の場。職業高校は、部活動に専念する場。今や、「知」は、学校にはないのだ。

 受験に必要な「知識」は、合格するために一時的に記憶にとどめておけばよいもの。試験が終われば、消してしまう。ヒロシマ、ナガサキも、若者にとって「知」ではなく「知識」。

 「知識」のなかに「知」があること、「知識」には軽重があること、そういうことをまず若者に理解させなくてはならない。

 だが今や、無知が跋扈している時代。首相も、「無知」のうえに政治を行っている。それで平気なのだ。だって誰もとがめないのだから。

 いや、今日の『中日新聞』の特報欄は、憲法九六条に関する首相(自民党)の「無知」をわかりやすく説明している。だけど、あの人たちに理解できるかな?

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【本】三木卓『柴笛と地図』(集英社)

2013-04-12 13:16:09 | 日記
 とても面白かった。舞台は1950年代前半の静岡高校を中心とした高校生の世界だ。三木卓は、静岡市内の中学校、そして静岡高校で思春期を過ごした。

 今の高校生がこれを読んだら、とても高校生の世界とは思えないだろう。なぜなら、政治や文学、音楽などの話が綺羅星のようにでてくる、それも会話の中に。この頃、ほとんどの高校生は、内外の文学を読み、クラシック音楽を聴き、そして少数の高校生が政治を論じた。

 この情景は、ボクの高校時代のものでもあった。文学を読むのは当たり前。読んでいないと話のなかには入れなかった。ボクも、この頃もっともたくさんの文学を読んだ。教室の中は、文学談義で華が咲いていた。クラシックでは、トスカニーニのレコードは・・・、ワルターはどうの・・・・という話もあった。

 学校の授業だけではなく、幅広い教養をもつことが当たり前の世界。大学受験は、個人的な作業であった。高校の授業に大学受験のハウツーなんか求めなかった。

 ところがいつの頃からか、おそらく1970年代前半。高校が受験教育の場に成り下がり、高校から教養というものが消えていった。

 三木卓のこの小説は、そうした教養主義的な匂いが強かった時代の高校生の姿を描いている。もちろんこの時代、大学への進学率はとても低かった。ボクの頃でも、いま調べたら、20%にもいっていない。三木卓の時代は、8%。高校への進学だって、ボクらの頃が75%。三木卓の時代が50%を超える程度だった。

 この小説に記された議論は、もちろん政治については時期が異なるので内容は違っているが、文学や音楽の論議については、ものすごく懐かしさを感じた。太宰がどうのこうの、『鋼鉄はいかに鍛えられたか』を読んだか?、平野謙等の「政治と文学」の議論は・・・等々。

 同じような情景が、1950年代前半の静岡、1960年代末の浜松でみられたということだ。

 この本は、遺稿集の「解題」に活かすことができる。読んで良かった。
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遺稿集、そして三木卓

2013-04-11 20:32:37 | 日記
 今、静岡県の女性史研究の先駆者であった人の遺稿集をつくっている。これになかなか時間をとられている。

 今日、彼女の高校時代、といっても1950年代ではあるが、それから長年つきあいのある方からの追悼文が送られてきた。その文の中に、芥川賞作家の三木卓が、彼女のことを小説のなかに書き込んでいるという記述があった。

 そういえば、彼女から、三木卓との交遊を聞いたことがあった。三木卓は、中学、高校時代に静岡にいた。

 ボクは、遺稿集の巻末に解題を書かなければならないので、指摘されていた三木卓の小説を読まなければならないと思った。その時刻、16時45分。インターネットで調べたら、その本がもっとも近い東図書館にあった。車を走らせると、なぜかボクの車の前には、車もないし、信号も青だった。彼女が、「これ、読みなさいよ」と言っている気がした。

 その本を借りて今読んでいる。三木卓は、彼女に愛情をもっていたことは確実だと思った。

 いやそれよりも、そこで書かれている高校生たちが語っている内容なんかは、ボクが高校生の頃と似通っているのだ。三木卓の小説の舞台は、1950年代前半。ボクの高校時代は1960年代末から70年代はじめである。

 同じように、高校の中に社会科学研究会を組織して、エンゲルスの『空想から科学へ』などを読み、いろいろ論じあっていたことを思いだす。こういう時代は、いつ頃まで続いたのだろうか。おそらく、70年代半ばに消えていったのだろうとボクは思っている。

 ボクは今、その本を読み耽っている。その書名は『柴笛と地図』である。

 なお、町田の住人に断っておくけれども、ボクは「あとがき」に、彼女から「この人はお友だちなのよ」といわれたことを書き記し、そのことをいまもなお町田の住人から揶揄されていることを記しておいた。事実は事実。

  「思い起こせば、かつてMさんは私のことを「お友だちなのよ」と紹介されたことがあった(その場に居合わせたTさ  んはいまだにこのことを揶揄する)。」

 ボクは、すべての原稿が揃った以上、解題を早期に仕上げなければならない。しかし、Tさんが編集した、Sさんの遺稿集の解題のようには、とても書けない。それだけボクは、彼女のことを知っていないからだ。


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コラムの比較

2013-04-10 12:54:23 | 日記
 昔々、『朝日新聞』の朝刊に「天声人語」というコラムがありました。人びとは、批判的な精神と幅広い教養、そして少し余韻を残した筆致に感動したものです。

 でも、今、『朝日新聞』の「天声人語」は、「権声刃語」と化しています。権力の声を刃(やいば)のように振り下ろしてくるのです。

 それにひきかえ、『中日新聞』は、往年の「天声人語」にあった批判的精神と教養、そして余韻を残す筆致に溢れています。「社説」も同様です。『朝日新聞』から、かつてのあの格調高い内容が消えてどのくらい経つのでしょうか。『朝日新聞』が、自公政権翼賛の御用新聞となったのはいつ頃だったのか、あまりにも時間が経過していて、思い出せません。

 さて、下記二つは、サッチャーイギリス元首相の死にちなんだコラムです。最初が、『中日新聞』の4月9日。あとが、『朝日新聞』の4月10日。読み比べてください。批判的な精神がジャーナリズムの本質です。


 テムズ川のほとりにそびえる英国会議事堂。下院本会議場の入り口付近に、三体の立像がある。一体は第一次大戦時の首相ロイド・ジョージ、もう一体は第二次大戦時の首相チャーチル。残る一つがサッチャーさんの像だ

▼銅像の除幕は、二〇〇七年。サッチャーさんは名宰相と並んだ自分の像を見て、上機嫌で語った。「(鉄の女だから)鉄の像の方が良かったわね」「これ以上の連れは望むべくもないわ」と

▼チャーチルらが大戦という国難に総力戦を指導して勝利を得たのに対し、サッチャーさんは政治・経済改革で歴史に名を刻んだ。非寛容なキリスト教徒にして小売業者だった父に多大な影響を受けた元首相は、極端に妥協を嫌う市場主義の信奉者となった

▼共産圏との対峙(たいじ)という微妙なバランスの中で培われた欧州の福祉重視の政策を、目の敵にした。弱肉強食の市場原理を至上のものとした

▼そうした新自由主義的な改革は、レーガン米大統領とも共鳴し合い、一九八〇年代の政治潮流を形作った。その後のソ連崩壊と冷戦終結やグローバリズム時代の到来を見れば、サッチャーさんは、歴史の勝者に見える

▼だが、行き過ぎた規制緩和は金融危機の連鎖を招いた。サッチャー時代の英国で起きた格差拡大は、いま世界共通の難題だ。サッチャーさんは逝った。恐らく、敗者のすすり泣きには耳をふさいだまま。



 亡くなった英国のサッチャー元首相は、寝る前にスコッチウイスキーをたしなんだという。現職のころは、その味を世界に広める伝道師を自任していたと回顧録にある

▼中曽根元首相の書く思い出話が愉快だ。サッチャー首相との間でロボット開発の話になった。中曽根氏は言った。ロボットは鉄でできたフランケンシュタインではない。多神教の日本ではかれらを兄弟のように扱う。「祝日には『一杯やりなさい』とコップのビールを置いてくる」と

▼サッチャー首相はすかさず「そのときはビールにしないでスコッチに」と言って笑わせた。当時、スコッチは高嶺(たかね)の花だった。英国は日本の高率の酒税を引き下げるよう強く求めていた。実現したのは後継の竹下政権の時である。サッチャー首相のおかげで安く飲めるようになると、はやすメディアもあった

▼「鉄の女」の強力なリーダーシップは日本政治にも影響を与えた。小泉元首相が演じた「抵抗勢力」との攻防は、その好例だろう。ご本家は、身内の保守党内の穏健派を「ウエット」と呼んで排除した。弱虫、臆病といった意味である

▼回顧録では、穏健派もやがてそう呼ばれることを受け入れたと書いている。蔑称がいつか本来の意味から離れることは政治の世界では珍しくない、保守党を意味する「トーリー」も、元はアイルランドの追い剥(は)ぎのことだった、と

▼罵(ののし)りあいからでも対話は生まれるという政治観だろうか。その奥底にあったのは烈々とした矜恃(きょうじ)に違いない。


 『朝日新聞』のコラムから、矜恃が消えて多くの時間が経過しました。しかし、コラム子には、ひとりよがりの矜恃だけが遺されているようで、サッチャーの政治がお好みのようです。

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フランクル

2013-04-09 20:04:18 | 日記
 知らなかった。あの3・11以降、フランクルの『夜と霧』が多くの人に読まれているのだという。3・11は、人びとに生と死の問題を突きつけた。そこで人びとは、「あの本を読もう!」ということになったのだろう。

 人間が生きる意味とは、何か。こういった根源的な問いに、フランクルは応える。もちろん、具体的なことを示すのではない。一人ひとりの人生は、それこそユニークそのものであるから、こう生きなさい、そこに生きる意味があるのだ、などと言えるものではない。やはり、それぞれが行動しながら、生きながら模索していくものなのだ。

 今日、『現代思想』の臨時増刊号(『imago』と雑誌名はなっている)を購入した。先頭には、フランクル自身の文がいくつか(もちろん翻訳されて)掲載されている。その文を読むだけでも、『夜と霧』で記された内容をより深く理解できるようになると思った。

 それ以降は、日本人の対談(姜尚中と池田香代子)や論攷が並んでいる。対談以外は読んでいないが、いずれも力作である。

 この本も購入して、手元に置いておきたい。定価は1500円。1500円の価値は十二分にある。
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漂流する日本

2013-04-09 07:32:56 | 日記
 政治に対する失望が広がっている。昔、「出たい人より出したい人を」という選挙標語があった。しかし今、政治の世界では「出たい人」ばかり、それも金銭欲と名誉欲にまみれた輩が多い。たとえばこの記事。


維新・大阪府議も還流 税控除狙い約640万円    2013年4月8日 17時19分

 大阪維新の会の宮本一孝大阪府議(42)(門真市選出)が、自民党に所属していた2009~10年に、少なくとも約640万円の寄付金をそれぞれ自身が代表を務める自民党支部と後援会を使って「還流」させ、所得税控除を受けていたことが8日、分かった。

 宮本氏は取材に対し「法律の範囲内の一般的な節税で、不正だったという認識はない。当時、自民党で共有していた方法だ」と釈明した。

 政治家が自らの資金管理団体に直接寄付する場合は「寄付者に特別な利益が及ぶ」として、租税特別措置法により所得税控除が受けられない。政党支部を経由することで規定を免れ、最大で約3割の控除を受けていた。


 大阪府議の報酬は、月額93万円。あと政務調査費が月額59万円。年収200万円以下の人びとが増えている中、高額な報酬をもらって、さらに節税に励む。

 倫理も道徳もない輩が議員への道を歩み、そして当選していく。

 寺島実郎が今月号の『世界』でこういう。

 「政治で飯を食うということは、ものすごい覚悟と責任を伴うということが忘れ去られています。かつてであれば、ある知的レベルの人が「ばかもの」と言えば引っ込んだ連中が、繰り返し鉄面皮にも登場してくる。そのような「政治好き人間」が、風の吹いている方向に向かって動き、その風によって当選するチルドレンが右に左にさまようことで、国民の政治に対する失望感がさらに深まるという悪循環の中に入っている」(161頁)

 国会議員には、年間ひとり二億円の経費がかかる(報酬も含む)といわれる。みずからの定見もなく、議員を続けるためのみに浮浪し続ける姿をいつも見せつけられる。それは地方議員も同様だ。彼らにとって政党政派は関係なく、当選できるならどこでもよいのだ。

 そのような風潮をつくりだしたのが、松下政経塾だ。そこには、思想などと関係なく、にかく政治家になりたいという輩が集まった。そして今彼らが政治家になっている。浜松市長も、静岡市長もその出身だ。また議員でも、同塾出身を必ず前面にだす。

 佐高信は、同塾を「未熟塾」と評している。

 政治家であり続けることだけを目的とした輩が、今の日本の舵取りをしている。思想も定見もない輩だ。

 日本はどこまで漂流を続けるのか。
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『世界』

2013-04-08 21:48:49 | 日記
 岩波書店の『世界』5月号が発刊。ボクが高校時代から購読し続ける唯一の雑誌である。今日早速購入して読んでいる。

 現在購読している雑誌は、今までも何回か紹介しているが、『現代思想』。まだ購入していないので、青土社にアクセスしたら、『現代思想』の臨時増刊号、それも『夜と霧』のフランクル特集という。これまた買わなければならない。『現代思想』は、浜松の図書館では駅前図書館にある。書店では谷島屋書店とイトーヨーカドーにある熊沢書店しかおいていない。『世界』も、すべての書店で扱っているわけではない。こういう雑誌は、あまり読まれないのだ。だからこそ、人びとに「真実」が伝わらないのだろう。

 ちなみに『芸術新潮』はほとんどの書店にある。『DAYS JAPAN』は谷島屋だけかな。ボクはこれらは直接購読。それ以外にもマイナーな『POSSE』や『けーし風』(これらは季刊)も購読している。これらも直接。

 『世界』を購入するついでに新書コーナーを見たら、上杉忍氏の『アメリカ黒人の歴史』(中公新書)が新刊として並んでいた。これも買った。このあとがきにもあるように、同名の書(本田創造・著)は岩波書店からもでている(新書)。それも良書である。上杉氏は何をつけ加えたのだろうか。

 「あとがき」を読んでいたら、社会主義体制の崩壊は、「史的唯物論にもとづく「観念的」進歩史観に重大な変更を迫った」とある。そのとおりなのだが、しかし上杉氏もボクも、史的唯物論の時代に歴史を学んだはずだ。それを「「観念的」進歩史観」と書かれると、釈然としないものが残る。

 そして『世界』。今月号で唸ったのは、古関彰一氏の「自民党改憲案の書かれざる一条」。さすがに『新憲法の誕生』の著者らしく、あるいはすこし毛色の変わった憲法研究をされている古関氏ならではの指摘である。自民党改憲案には「開戦規定」がない!その理由を氏は論じているのだが、なるほどと思う。

 すべてを読み終えたわけではないが、今野晴貴「ブラック企業が日本の未来を食いつぶす」は、とくに「就活」をしている人は読むべき。「正社員」ならどこの会社でもいい、というものではない。大庄、ユニクロ、ワタミなどは、典型的なブラック企業。若い「正社員」を酷使して若者の精神を破壊してしまうようだ。同氏は新書でも書いているが、『POSSE』という雑誌もそうした若者向けの労働問題誌である。

 知は力である。知がないと、生き抜いていけない時代になっているのに、知に向き合おうとしないのは、自分の価値を貶めているようなものだ。

 諸君、とらえず『世界』を読もう。図書館ではなく、買うこと。一食ぬいても読む価値がある。ボクは、学生時代そうして本を買ってきた。それはボクだけではない。

 今も、昼食をB級ならぬC級で済ますことによって、かろうじて本代を捻出している学者を、ボクは知っている。その息子たちは栄華を極めた生活をしているというのに・・・・。

 本を読もう。『中日新聞』の4月1日の社説もそれだった。知は力なり、である。
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