午後、原稿を書き終わってテレビをつけたら、常総市の鬼怒川の洪水の実況中継をしていた。堤防が決壊し、大量の泥水が住宅地域に流れ込み、濁流に洗われる民家には、逃げられなかった人たちの救出作業が行われていた。
このところ浜松も豪雨が降り続き、一昨日は近くの河川(安間川)も危険水位をこえ、避難勧告が出されていた。ボクが住むところの天竜川の川幅は、約1キロ。その川幅を濁流が流れ、あと数㍍水かさが高くなれば堤防をこえるというような状態は、今まで3回見ている。しかしそういう状態でも、安間川は大丈夫であった。だから、避難しなかったが、常総市の事態をみると、もう自然は大きく変わってしまったということを感じる。自然はもはや予定調和的ではない。
常総市などの被災民は、これから苦難の日々を生きていかなければならない、そう思うと、同情を禁じ得ない。大河川の近くに住む者として、他人事ではない。
おそらく被災者救援の募金活動が開始されるだろう。少ないけれども、協力しようと思う。
このところ浜松も豪雨が降り続き、一昨日は近くの河川(安間川)も危険水位をこえ、避難勧告が出されていた。ボクが住むところの天竜川の川幅は、約1キロ。その川幅を濁流が流れ、あと数㍍水かさが高くなれば堤防をこえるというような状態は、今まで3回見ている。しかしそういう状態でも、安間川は大丈夫であった。だから、避難しなかったが、常総市の事態をみると、もう自然は大きく変わってしまったということを感じる。自然はもはや予定調和的ではない。
常総市などの被災民は、これから苦難の日々を生きていかなければならない、そう思うと、同情を禁じ得ない。大河川の近くに住む者として、他人事ではない。
おそらく被災者救援の募金活動が開始されるだろう。少ないけれども、協力しようと思う。
この号に掲載されている文のほとんどを読み終えた。触発を受けたものもあるが、何だこれは!というものもあった。
その代表的なものが、関西学院大学准教授の鈴木謙介という人の文だ。「ジャーナリストにも読んで欲しい社会科学を学ぶための基本図書」というテーマ。何とも上から目線の題だ。文章は全く面白くないし、内容も貧しい。
9月号の特集は「知性の力を取り戻すために」である。ほかの人の文章は、みずからのクリアな問題意識をもとに、その問題意識を錬磨し、さらにその問題意識を掘り下げるためにどういう本を読んできたかという書き方になっている。鈴木謙介のものだけが、そういう問題意識もなく、ただ知識としての「社会科学」に関する文献を紹介している。ボクはこういう問題意識もなく、だらだらと字を綴るという文章は大嫌いである。
読んでみて、歴史家の坂野潤治、田原牧、赤石千衣子、堀川惠子がよかった。坂野氏の文は、ボクが歴史研究に従事しているというところから参考になった、ということなのだが、他の三氏は、問題意識を鮮明にした鋭角的な文であった。
鈴木謙介、横田由美子の文は、見劣りのする内容であった。どういう問題意識を持ち、何を必死に追いかけているか、それが文にまったく表れていない。
文を書く場合でも、研究をする場合でも、社会とつながった鋭い問題意識の有無は、決定的に重要で、何のために、という問いは、文を書く際にも考えるべきことである。
その代表的なものが、関西学院大学准教授の鈴木謙介という人の文だ。「ジャーナリストにも読んで欲しい社会科学を学ぶための基本図書」というテーマ。何とも上から目線の題だ。文章は全く面白くないし、内容も貧しい。
9月号の特集は「知性の力を取り戻すために」である。ほかの人の文章は、みずからのクリアな問題意識をもとに、その問題意識を錬磨し、さらにその問題意識を掘り下げるためにどういう本を読んできたかという書き方になっている。鈴木謙介のものだけが、そういう問題意識もなく、ただ知識としての「社会科学」に関する文献を紹介している。ボクはこういう問題意識もなく、だらだらと字を綴るという文章は大嫌いである。
読んでみて、歴史家の坂野潤治、田原牧、赤石千衣子、堀川惠子がよかった。坂野氏の文は、ボクが歴史研究に従事しているというところから参考になった、ということなのだが、他の三氏は、問題意識を鮮明にした鋭角的な文であった。
鈴木謙介、横田由美子の文は、見劣りのする内容であった。どういう問題意識を持ち、何を必死に追いかけているか、それが文にまったく表れていない。
文を書く場合でも、研究をする場合でも、社会とつながった鋭い問題意識の有無は、決定的に重要で、何のために、という問いは、文を書く際にも考えるべきことである。
朝日新聞社が発行しているJournalism9月号の特集は、「知性の力を取り戻すために」である。そのなかをいくつか読んだが、中日新聞の田原牧氏の文章が、もっとも衝撃的であった。
『ジャスミンの残り香』で開高健ノンフィクション賞を授与されたことは知っていたが、読んだことはない。だが、Journalismに掲載されている「「公の歴史」から消された過去を眺めるともう一つの現代史が立ち上がってくる」は、現在のボクにとりきわめて有益なものであった。
1923年9月16日、大杉栄、伊藤野枝、橘宗一が虐殺されてから92年。今年も9月19日、彼らの墓がある静岡市の沓谷霊園で墓前祭を行う。11時からだ。そしてその後、14時から静岡市のあざれあで記念講演会を催す。
田原氏の文。
権威づける政治権力の対極にいた抵抗者、不服従者の存在は意識的につなぎ留めておかない限り、歴史から抹消されていく。脳裏に刻んでおかねばならないのは抵抗者たちの墓標である。
現在、「参戦法案」が参議院で審議され、今月中にも可決成立させるという安倍政権の強硬姿勢が報じられている。現在の議席数は、自民党、公明党が多数を占めているから、強行すれば可決されるだろう。
だがボクらは、それを予想してきた。問題はその後、どういう行動を展開するかである。
田原氏の文。
喧噪に彩られたハレの季節は、そう長くは続かない。叛乱はやがて閉ざされ、抵抗者たちは自滅していく。
もちろん田原氏は、そうだからといって終わりを宣告しているのではない。
田原氏は、『公害原論』の著者、故宇井純氏のことばを引く。
展望の有無を語っているうちは闘えない。
田原氏は末尾をこう結ぶ。
ある一群の人たちは現在の政治、社会状況を俯瞰し、人びとは過去から学ぶことができず、結局、歴史はくり返されるしかないとため息をつく。そうかもしれない。でも、もしそうだとすれば、この国の歴史の裏面に刻まれてきた叛乱の季節もまた、私たちの前に遠からず現出してくる。嘆息している暇はない。
歴史はくり返されるとするなら、大杉栄や伊藤野枝のような人物も再び出てくるのだろう。
9月19日は、そうした日になる。
『ジャスミンの残り香』で開高健ノンフィクション賞を授与されたことは知っていたが、読んだことはない。だが、Journalismに掲載されている「「公の歴史」から消された過去を眺めるともう一つの現代史が立ち上がってくる」は、現在のボクにとりきわめて有益なものであった。
1923年9月16日、大杉栄、伊藤野枝、橘宗一が虐殺されてから92年。今年も9月19日、彼らの墓がある静岡市の沓谷霊園で墓前祭を行う。11時からだ。そしてその後、14時から静岡市のあざれあで記念講演会を催す。
田原氏の文。
権威づける政治権力の対極にいた抵抗者、不服従者の存在は意識的につなぎ留めておかない限り、歴史から抹消されていく。脳裏に刻んでおかねばならないのは抵抗者たちの墓標である。
現在、「参戦法案」が参議院で審議され、今月中にも可決成立させるという安倍政権の強硬姿勢が報じられている。現在の議席数は、自民党、公明党が多数を占めているから、強行すれば可決されるだろう。
だがボクらは、それを予想してきた。問題はその後、どういう行動を展開するかである。
田原氏の文。
喧噪に彩られたハレの季節は、そう長くは続かない。叛乱はやがて閉ざされ、抵抗者たちは自滅していく。
もちろん田原氏は、そうだからといって終わりを宣告しているのではない。
田原氏は、『公害原論』の著者、故宇井純氏のことばを引く。
展望の有無を語っているうちは闘えない。
田原氏は末尾をこう結ぶ。
ある一群の人たちは現在の政治、社会状況を俯瞰し、人びとは過去から学ぶことができず、結局、歴史はくり返されるしかないとため息をつく。そうかもしれない。でも、もしそうだとすれば、この国の歴史の裏面に刻まれてきた叛乱の季節もまた、私たちの前に遠からず現出してくる。嘆息している暇はない。
歴史はくり返されるとするなら、大杉栄や伊藤野枝のような人物も再び出てくるのだろう。
9月19日は、そうした日になる。