都内近郊の美術館や博物館を巡り歩く週末。展覧会の感想などを書いています。
はろるど
読売日本交響楽団 「ブルックナー:交響曲第6番」他 12/15
読売日本交響楽団第444回定期演奏会
スクロヴァチェフスキ 管弦楽のための協奏曲
ブルックナー 交響曲第6番
指揮 スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ
演奏 読売日本交響楽団
2005/12/15 19:00 サントリーホール2階
読売日響の次期常任指揮者に就任した、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキによる定期演奏会。彼の魅力を味わうことの出来るプログラムでしょうか。記念すべき演奏会とも言えそうです。
一曲目は「管弦楽のための協奏曲」。こう書くと、すぐさまバルトークの音楽を思い浮かべてしまいますが、この日演奏されたのは、指揮のスクロヴァチェフスキ自らが作曲したもの。全2楽章、約30分。やや平面的ながらも、彫りの深い音楽は、管弦楽の妙味を存分に堪能させてくれます。もちろん、聴き応えがあったのは、第2楽章(アダージョ)の「アントン・ブルックナーの昇天」(!)です。文字通り、ブルックナーに捧げられた音楽ですが、弦と管がシンプルに重ね合いながら、クライマックスを迎え、また消え行くという、どこかブルックナー風の流れを感じることの出来る内容に仕上がっています。トロンボーンの咆哮と、ヴァイオリンの痛切なソロ、そして時折聴かれる、祈るような音の塊。スクロヴァチェフスキの、全く揺らぐことのない明晰な指揮が、興味深いこの音楽を、豊かな表情でもって聴かせてくれました。これは見事だったと思います。(ちなみにこの曲は「改訂版」にて演奏されました。その辺もブルックナー風?…。)
メインはブルックナーの第6番です。スクロヴァチェフスキの手に掛かると、ブルックナーの宗教性やら大自然云々と言うような、どこか勿体ぶった雰囲気は、キレイサッパリと消え去ります。彼の目指すもの、それは、決して音楽から飛躍し過ぎない、文学性やら情緒性などを排した、音楽そのものの面白さなのでしょうか。特徴的なフレーズを掘り起こしたり、響きのバランスを、半ば驚かされるくらい個性的に仕上げる。実は私、スクロヴァチェフスキのブルックナーはやや苦手としているのですが、そのような好き嫌いを通り越すほどに、突き詰められた、独創的とも言えるアプローチで曲を楽しませてくれます。「この曲にこんな響きがあったのか。」そう思わせることの連続です。
第2楽章が圧巻でした。ここでスクロヴァチェフスキは、テンポをグッと落とし、オーケストラの各パートの音を幾重にも合わせていって、クライマックスへと音楽を進めていきます。出しゃばることのない抑制的なホルン。幾分即物的な木管群。そしてスクロヴァチェフスキの棒に捲し上げられるかのように、逞しく、また大きく響く弦のうねり。それらがゆっくりと、ゆっくりと、一つの大河になるかのようにまとまっていく。これほどこの楽章が、巨大に、また威厳をもって聴かれたのは初めてです。勿論、浪花節的に、曲へ没入していくわけでもない。思わず涙腺が緩んでしまいそうになりました。この楽章を聴いただけでも、この日のコンサートは心から満足出来た思えるほどです。
極限にまで遅めに進められたコーダ。スクロヴァチェフスキの音楽は、作為的ともとれる表現が、不思議な説得力を帯びてきます。終演後のカーテンコールは、彼の常任指揮者就任を祝うかのような雰囲気で、非常に華々しいものでした。(早めのブラボーが残念でした…。)こんなに力のある、そして陳腐な言葉で恐縮ですが、面白い音楽を作る方をシェフに迎えた読売日響。この日のオーケストラの状態は、あまり良いものとは思えませんでしたが、今後のこのコンビに大いに期待したいと思わせるコンサートでした。
スクロヴァチェフスキ 管弦楽のための協奏曲
ブルックナー 交響曲第6番
指揮 スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ
演奏 読売日本交響楽団
2005/12/15 19:00 サントリーホール2階
読売日響の次期常任指揮者に就任した、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキによる定期演奏会。彼の魅力を味わうことの出来るプログラムでしょうか。記念すべき演奏会とも言えそうです。
一曲目は「管弦楽のための協奏曲」。こう書くと、すぐさまバルトークの音楽を思い浮かべてしまいますが、この日演奏されたのは、指揮のスクロヴァチェフスキ自らが作曲したもの。全2楽章、約30分。やや平面的ながらも、彫りの深い音楽は、管弦楽の妙味を存分に堪能させてくれます。もちろん、聴き応えがあったのは、第2楽章(アダージョ)の「アントン・ブルックナーの昇天」(!)です。文字通り、ブルックナーに捧げられた音楽ですが、弦と管がシンプルに重ね合いながら、クライマックスを迎え、また消え行くという、どこかブルックナー風の流れを感じることの出来る内容に仕上がっています。トロンボーンの咆哮と、ヴァイオリンの痛切なソロ、そして時折聴かれる、祈るような音の塊。スクロヴァチェフスキの、全く揺らぐことのない明晰な指揮が、興味深いこの音楽を、豊かな表情でもって聴かせてくれました。これは見事だったと思います。(ちなみにこの曲は「改訂版」にて演奏されました。その辺もブルックナー風?…。)
メインはブルックナーの第6番です。スクロヴァチェフスキの手に掛かると、ブルックナーの宗教性やら大自然云々と言うような、どこか勿体ぶった雰囲気は、キレイサッパリと消え去ります。彼の目指すもの、それは、決して音楽から飛躍し過ぎない、文学性やら情緒性などを排した、音楽そのものの面白さなのでしょうか。特徴的なフレーズを掘り起こしたり、響きのバランスを、半ば驚かされるくらい個性的に仕上げる。実は私、スクロヴァチェフスキのブルックナーはやや苦手としているのですが、そのような好き嫌いを通り越すほどに、突き詰められた、独創的とも言えるアプローチで曲を楽しませてくれます。「この曲にこんな響きがあったのか。」そう思わせることの連続です。
第2楽章が圧巻でした。ここでスクロヴァチェフスキは、テンポをグッと落とし、オーケストラの各パートの音を幾重にも合わせていって、クライマックスへと音楽を進めていきます。出しゃばることのない抑制的なホルン。幾分即物的な木管群。そしてスクロヴァチェフスキの棒に捲し上げられるかのように、逞しく、また大きく響く弦のうねり。それらがゆっくりと、ゆっくりと、一つの大河になるかのようにまとまっていく。これほどこの楽章が、巨大に、また威厳をもって聴かれたのは初めてです。勿論、浪花節的に、曲へ没入していくわけでもない。思わず涙腺が緩んでしまいそうになりました。この楽章を聴いただけでも、この日のコンサートは心から満足出来た思えるほどです。
極限にまで遅めに進められたコーダ。スクロヴァチェフスキの音楽は、作為的ともとれる表現が、不思議な説得力を帯びてきます。終演後のカーテンコールは、彼の常任指揮者就任を祝うかのような雰囲気で、非常に華々しいものでした。(早めのブラボーが残念でした…。)こんなに力のある、そして陳腐な言葉で恐縮ですが、面白い音楽を作る方をシェフに迎えた読売日響。この日のオーケストラの状態は、あまり良いものとは思えませんでしたが、今後のこのコンビに大いに期待したいと思わせるコンサートでした。
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スクロヴァチェフスキが、読売日本交響楽団の次期常任指揮者に就任!
スクロヴァチェフスキ氏が次期常任指揮者に(読売日本交響楽団のHPから。)
読売日本交響楽団の第8代常任指揮者に、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ氏が就任することが決まり、12月16日に都内のホテルで記者発表が行われました。現常任指揮者の第7代ゲルト・アルブレヒト氏の後任で、任期は2007年4月から2009年3月末までの2年間です。
既に、「ぶらあぼ国内ニュース」では取り上げられていましたが、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキが、読売日本交響楽団の次期常任指揮者に就任することが決まりました。任期は2007年4月から2年間。読売日響とスクロヴァチェフスキのコンビは前々から定評がありましたが、まさか常任指揮者になられるとは思いもよりません。これは快挙と言っても良いと思います。
スクロヴァチェフスキは、先日のコンサートを含め、読売日響の公演で三回ほど接したことがありますが、(全て曲はブルックナーだったと思います。)いつも、個性的とも言える曲の解釈に戸惑いながらも、そのアプローチの強固な完成度と、オーケストラを束ねる求心力(音楽への強い愛情を伴った。)、そして全く年齢を感じさせない明晰な指揮に、強く感心させられます。個人的に言えば、定評のあるブルックナーよりも、バルトークかストラヴィンスキー辺りの音楽や、ハイドンからベートーヴェンに至る古典派の交響曲を生で聴いてみたいと思うのですが、ともかくこのような稀有な指揮者を、同時代として、しかも身近なオーケストラで聴くことが出来るとは、本当に大きな喜びです。今後、詳細や、記者会見の記事が、ぶらあぼなどのHPに載るかと思いますが、まずは心からご就任をお祝いしたいと思います。
読売日本交響楽団の第8代常任指揮者に、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ氏が就任することが決まり、12月16日に都内のホテルで記者発表が行われました。現常任指揮者の第7代ゲルト・アルブレヒト氏の後任で、任期は2007年4月から2009年3月末までの2年間です。
既に、「ぶらあぼ国内ニュース」では取り上げられていましたが、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキが、読売日本交響楽団の次期常任指揮者に就任することが決まりました。任期は2007年4月から2年間。読売日響とスクロヴァチェフスキのコンビは前々から定評がありましたが、まさか常任指揮者になられるとは思いもよりません。これは快挙と言っても良いと思います。
スクロヴァチェフスキは、先日のコンサートを含め、読売日響の公演で三回ほど接したことがありますが、(全て曲はブルックナーだったと思います。)いつも、個性的とも言える曲の解釈に戸惑いながらも、そのアプローチの強固な完成度と、オーケストラを束ねる求心力(音楽への強い愛情を伴った。)、そして全く年齢を感じさせない明晰な指揮に、強く感心させられます。個人的に言えば、定評のあるブルックナーよりも、バルトークかストラヴィンスキー辺りの音楽や、ハイドンからベートーヴェンに至る古典派の交響曲を生で聴いてみたいと思うのですが、ともかくこのような稀有な指揮者を、同時代として、しかも身近なオーケストラで聴くことが出来るとは、本当に大きな喜びです。今後、詳細や、記者会見の記事が、ぶらあぼなどのHPに載るかと思いますが、まずは心からご就任をお祝いしたいと思います。
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「元木孝美 『scape』」 トーキョーワンダーサイト 12/10
トーキョーワンダーサイト(文京区本郷)
「Emerging Artist Support Program 4 元木孝美『scape』」
11/26~12/18
トーキョーワンダーサイトが開催する、若手アーティスト支援のための展覧会。その第4弾は、元木孝美さんの個展でした。トタンによって作られた、小さな梯子状の作品が空間を飾ります。
会場はワンダーサイト2階の、2つの部屋です。入ってすぐの小部屋にあるのは3点の作品。この中で目を引いたのは、「tower」と呼ばれる、ズバリ、1メートル程度のトタンの塔です。幅5ミリ程度の薄っぺらいトタンの「線」が、約10センチ間隔で梯子状に連なり、高く積み上がる。「tower」で美しいのは、天井から当たるスポットライトによって生み出された影です。バネのように、しなやかに立つトタンの塔。そこに差し込む温かいライト。それが「tower」に、トタンの柔らかな質感を思わせる、優しい影を作り出しています。
2つ目の広い部屋にて展開されたインスタレーション。それが、今回の展覧会の目玉の「scape」です。初めの展示室にあったものと同じトタンの梯子が、壁に掛けられて、部屋をぐるっと一周する作品と、もう1点、床に直接置かれた、横30センチ、縦3メートル程度の作品。この2つが静かに佇んでいます。床に置かれたトタンの梯子は、コンクリートのひび割れた床に直に接していて、視線を落として屈んで眺めると、トタンがまるで建物の連なりのようにも見えてきます。砂漠の上の人口都市…。ゴウゴウと音を立てて唸る空調は、何やら砂嵐のようにも聴こえてきます。心地良さこそありませんが、近づいてはいけないような、禁じられた場のような気配をも漂わせていました。
元木さんについては、今回の展覧会で初めて存じ上げましたが、会場に置かれていた図録等によれば、トタンを使ったインスタレーションを一貫して展開されているようです。トタン製の都庁や、トタンによって象られたロゴなど、それらも少し見てみたいと思いました。(画像はワンダーサイトのHPより。)
「Emerging Artist Support Program 4 元木孝美『scape』」
11/26~12/18
トーキョーワンダーサイトが開催する、若手アーティスト支援のための展覧会。その第4弾は、元木孝美さんの個展でした。トタンによって作られた、小さな梯子状の作品が空間を飾ります。
会場はワンダーサイト2階の、2つの部屋です。入ってすぐの小部屋にあるのは3点の作品。この中で目を引いたのは、「tower」と呼ばれる、ズバリ、1メートル程度のトタンの塔です。幅5ミリ程度の薄っぺらいトタンの「線」が、約10センチ間隔で梯子状に連なり、高く積み上がる。「tower」で美しいのは、天井から当たるスポットライトによって生み出された影です。バネのように、しなやかに立つトタンの塔。そこに差し込む温かいライト。それが「tower」に、トタンの柔らかな質感を思わせる、優しい影を作り出しています。
2つ目の広い部屋にて展開されたインスタレーション。それが、今回の展覧会の目玉の「scape」です。初めの展示室にあったものと同じトタンの梯子が、壁に掛けられて、部屋をぐるっと一周する作品と、もう1点、床に直接置かれた、横30センチ、縦3メートル程度の作品。この2つが静かに佇んでいます。床に置かれたトタンの梯子は、コンクリートのひび割れた床に直に接していて、視線を落として屈んで眺めると、トタンがまるで建物の連なりのようにも見えてきます。砂漠の上の人口都市…。ゴウゴウと音を立てて唸る空調は、何やら砂嵐のようにも聴こえてきます。心地良さこそありませんが、近づいてはいけないような、禁じられた場のような気配をも漂わせていました。
元木さんについては、今回の展覧会で初めて存じ上げましたが、会場に置かれていた図録等によれば、トタンを使ったインスタレーションを一貫して展開されているようです。トタン製の都庁や、トタンによって象られたロゴなど、それらも少し見てみたいと思いました。(画像はワンダーサイトのHPより。)
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「熱狂の日」音楽祭2006 プログラム発表!
5月に熱狂の日音楽祭、モーツァルトの名曲200公演(yomiuri on-line)
「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン『熱狂の日』音楽祭2006」(東京国際フォーラム主催、読売新聞社特別協力)の会見が15日開かれ、演奏曲や出演者などが発表された。
公式HPにはまだ詳細が発表されていませんが、(メルマガでもまだのようです。)来年の「熱狂の日2006 モーツァルトと仲間たち」(2006年5/3~6、東京国際フォーラムにて。)のプログラム、または演奏者等が発表されました。現時点で最も情報が出ているのは、「ぶらあぼ」の国内ニュース(ブログ形式)です。
出演者一覧/プログラム-5月3日/5月4日/5月5日/5月6日
今、そのプログラムをザッと見渡してみて気になった公演は、ケルン室内合唱団とコレギウム・カルトゥシアヌム(ノイマン指揮)の「ミサ曲ハ短調」と「ヴェスペレ」。また、曲目は未定ながらも、コルボとローザンヌ声楽アンサンブルの公演。さらにはRIAS室内合唱団の「レクエイム」などでしょうか。声楽合唱、宗教曲関係のプログラムを中心に聴いてみたいと思いました。(モーツァルトの作品の中核を成す、オペラの本格的な公演はさすがに予定されていないようです。)また、一度聴いてみたかった、グラス・ハーモニカの演奏も予定されています。こちらも楽しみです。
今後も情報が追加されることかと思います。2006年、モーツァルト生誕250年の記念すべき「熱狂の日」。今年以上の盛り上がりを見せそうです。
*12/16追記:公式HPでも、公演の情報が掲載されました。
*関連エントリ
「今年の『熱狂の日音楽祭』のチケットは如何に?」(2006/4/9)
「『ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン〈熱狂の日〉音楽祭 2006』、ついに開幕!」(2006/4/30)
「『熱狂の日音楽祭』のあとは『ぶらあぼ』で!」(2006/5/4)
「モーツァルト市場で見つけたこんなもの…。 『熱狂の日音楽祭2006』」(2006/5/5)
「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン『熱狂の日』音楽祭2006」(東京国際フォーラム主催、読売新聞社特別協力)の会見が15日開かれ、演奏曲や出演者などが発表された。
公式HPにはまだ詳細が発表されていませんが、(メルマガでもまだのようです。)来年の「熱狂の日2006 モーツァルトと仲間たち」(2006年5/3~6、東京国際フォーラムにて。)のプログラム、または演奏者等が発表されました。現時点で最も情報が出ているのは、「ぶらあぼ」の国内ニュース(ブログ形式)です。
出演者一覧/プログラム-5月3日/5月4日/5月5日/5月6日
今、そのプログラムをザッと見渡してみて気になった公演は、ケルン室内合唱団とコレギウム・カルトゥシアヌム(ノイマン指揮)の「ミサ曲ハ短調」と「ヴェスペレ」。また、曲目は未定ながらも、コルボとローザンヌ声楽アンサンブルの公演。さらにはRIAS室内合唱団の「レクエイム」などでしょうか。声楽合唱、宗教曲関係のプログラムを中心に聴いてみたいと思いました。(モーツァルトの作品の中核を成す、オペラの本格的な公演はさすがに予定されていないようです。)また、一度聴いてみたかった、グラス・ハーモニカの演奏も予定されています。こちらも楽しみです。
今後も情報が追加されることかと思います。2006年、モーツァルト生誕250年の記念すべき「熱狂の日」。今年以上の盛り上がりを見せそうです。
*12/16追記:公式HPでも、公演の情報が掲載されました。
*関連エントリ
「今年の『熱狂の日音楽祭』のチケットは如何に?」(2006/4/9)
「『ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン〈熱狂の日〉音楽祭 2006』、ついに開幕!」(2006/4/30)
「『熱狂の日音楽祭』のあとは『ぶらあぼ』で!」(2006/5/4)
「モーツァルト市場で見つけたこんなもの…。 『熱狂の日音楽祭2006』」(2006/5/5)
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「レモンケーキ」 カフェ小倉山 11/26
「カフェ小倉山」
横浜美術館
レモンケーキとコーヒー
先月11日、横浜美術館に新しくオープンした「カフェ小倉山」です。ミュージアムショップの全面リニューアルに伴って、美術館入口横のスペースに先日完成しました。清潔感のある、真新しいミュージアムショップと一体になった大きな空間で、のんびりとコーヒーやケーキを楽しむことが出来ます。
ミュージアムショップ側。リニュアールされて雰囲気が一変しました。カジュアルな感じです。
こちらが「カフェ小倉山」。大きなカサが印象的な照明に、これまた大きな椅子が目を引きます。
「小倉山」ということ(?)で、甘味も充実しているようですが、この日注文したのは、レモンケーキ。オーソドックスで濃厚な、昔懐かしい味のするケーキでした。ちなみにコーヒーはなかなか美味です。
思い切って大きくカットされたレモンケーキ。トレーがどこか旧式です。
食事は、美術館併設レストランの「ブラッスリー・ティーズ」が知られていますが、「小倉山」は、ちょっとした休憩にもってこいのスペースです。美術館の行き帰りだけではなく、みなとみらいの人混みに疲れた時にも有効利用できそうなカフェでした。(ちなみにリニューアルしたミュージアムショップは、オンライン購入が可能です。今クローズアップされているのは、勿論、李禹煥グッズ。画集、図録等が販売されていました。欲しい!)
横浜美術館
レモンケーキとコーヒー
先月11日、横浜美術館に新しくオープンした「カフェ小倉山」です。ミュージアムショップの全面リニューアルに伴って、美術館入口横のスペースに先日完成しました。清潔感のある、真新しいミュージアムショップと一体になった大きな空間で、のんびりとコーヒーやケーキを楽しむことが出来ます。
ミュージアムショップ側。リニュアールされて雰囲気が一変しました。カジュアルな感じです。
こちらが「カフェ小倉山」。大きなカサが印象的な照明に、これまた大きな椅子が目を引きます。
「小倉山」ということ(?)で、甘味も充実しているようですが、この日注文したのは、レモンケーキ。オーソドックスで濃厚な、昔懐かしい味のするケーキでした。ちなみにコーヒーはなかなか美味です。
思い切って大きくカットされたレモンケーキ。トレーがどこか旧式です。
食事は、美術館併設レストランの「ブラッスリー・ティーズ」が知られていますが、「小倉山」は、ちょっとした休憩にもってこいのスペースです。美術館の行き帰りだけではなく、みなとみらいの人混みに疲れた時にも有効利用できそうなカフェでした。(ちなみにリニューアルしたミュージアムショップは、オンライン購入が可能です。今クローズアップされているのは、勿論、李禹煥グッズ。画集、図録等が販売されていました。欲しい!)
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「アニッシュ・カプーア 『JAPANESE MIRRORS』」 SCAI 12/10
SCAI THE BATHHOUSE(台東区谷中)
「アニッシュ・カプーア 『JAPANESE MIRRORS』」
11/18~12/22
「インスタレーションの極致」。こう表現しても過言ではないほど、洗練され、完成された展覧会です。イギリスを代表する彫刻家として知られるアニッシュ・カプーアが、漆という「和」の素材を用いて、美しく、さらには驚きに満ちた世界を提供します。
直径1メートルはあろうかという、大きなお椀型(スピーカーのようでもある。)の彫刻作品。それはどれも、丹念に漆が塗られたと分かるほど、非の打ち所のない、美しい姿を見せています。高い質感を思わせる漆の控えめな艶やかさ。作品にはそれぞれ、「ASAGI」や「KUSA」など、日本の伝統的な色をイメージさせるタイトルが付けられ、鈍く、時には眩しく光っています。SCAIの入口に掛かる暖簾をくぐり、会場に入った瞬間、静かに配されたお椀型の彫刻、そして洗練された漆の輝き、さらにはそれらが作り出す静謐な場の気配に包まれるのです。
各作品の前に自分の体を持っていく。ここからは驚きの連続です。作品を見て、漆がまるで鏡のように仕上げられていることが分かった途端、一気に視覚が歪みだして、ぐるぐると、天地が逆転したかように場が動き出します。凝視することを許さない。しばらくこの作品が生み出す「乱反射」に慣れるまで、鏡面世界は見る者をひたすら惑わし続けます。遠近感の喪失、形の歪み、上下の逆転。おおよそ鏡が生み出すであろう、全ての錯視的な場を、漆のお椀は同時に提供してくれるのです。
もちろん、その漆による鏡面世界は、作品毎に異なった場を生み出します。目の前の作品から真後ろの作品、さらには斜め後ろの作品まで、各々が共鳴し、または反発して、永遠に回転しつつ、さらに立ち戻る。今自分が、SCAIに確かに居ることだけは認識できるものの、それ以外は、一体どの作品に自分が対応しているのか、はたまた、どのようにそれらが呼応し合っているのか、何もかもがぐちゃぐちゃになったかのような気持ちにさせられます。漆の眩い輝きが、時には前に立つ者を優しく吸い込む。そして、その吸い込まれた者は、また別の作品から吐き出される。SCAIの中に、いくつものミニ・ブラックホールが点在しているかのようです。
驚きと言えばもう一点、会場中央に置かれた、大きな円形が回転し続けている作品です。ぐるぐるとひたすら廻り続ける円形の台。中にはどうやら赤い、何か液体が塗り固められたようなものが入って、回転に合わすかのように、緩やかな曲線を描いています。一見、何らかの固体がただ廻っているだけのようにも思えますが、実は中身は液体、つまり水でした。回転による遠心力にて、常に一定の形を見せる液体。まさしく水の彫刻とも言えるでしょう。目を凝らして見ても、なかなか分からないほどに、ほぼ完璧に水が造形されています。もちろん、この水の形も、どことなくお椀の形をしていました。
また、お椀型の作品が、会場の音を反響する、要はそれぞれがスピーカーのような役割を果たしているのも、今回の展覧会の興味深い点です。ジーッと言うような静かな音が会場全体に響き渡るのは、まさにスピーカーか、反響板に変身した各作品のおかげでしょう。音の錯視。視覚の揺さぶりだけではなく、聴覚すら惑わせます。
錯視的な効果を追求したインスタレーションというのは、もちろん他にもあるのかと思いますが、アプーアの素晴らしい点は、作品がその効果を狙ったものだけではなく、やはり彫刻としての美感を保持している、つまり、作品の美しさと、彫刻の生み出す静謐感が先立っていることにあると思います。会場にはカプーアの図録がいくつか並べられていましたが、これらにも惹かれました。これはおすすめしたいです。上野の展覧会に出向いた際にでも是非いかがでしょうか。(画像は、SCAIのサイトのものです。)
「アニッシュ・カプーア 『JAPANESE MIRRORS』」
11/18~12/22
「インスタレーションの極致」。こう表現しても過言ではないほど、洗練され、完成された展覧会です。イギリスを代表する彫刻家として知られるアニッシュ・カプーアが、漆という「和」の素材を用いて、美しく、さらには驚きに満ちた世界を提供します。
直径1メートルはあろうかという、大きなお椀型(スピーカーのようでもある。)の彫刻作品。それはどれも、丹念に漆が塗られたと分かるほど、非の打ち所のない、美しい姿を見せています。高い質感を思わせる漆の控えめな艶やかさ。作品にはそれぞれ、「ASAGI」や「KUSA」など、日本の伝統的な色をイメージさせるタイトルが付けられ、鈍く、時には眩しく光っています。SCAIの入口に掛かる暖簾をくぐり、会場に入った瞬間、静かに配されたお椀型の彫刻、そして洗練された漆の輝き、さらにはそれらが作り出す静謐な場の気配に包まれるのです。
各作品の前に自分の体を持っていく。ここからは驚きの連続です。作品を見て、漆がまるで鏡のように仕上げられていることが分かった途端、一気に視覚が歪みだして、ぐるぐると、天地が逆転したかように場が動き出します。凝視することを許さない。しばらくこの作品が生み出す「乱反射」に慣れるまで、鏡面世界は見る者をひたすら惑わし続けます。遠近感の喪失、形の歪み、上下の逆転。おおよそ鏡が生み出すであろう、全ての錯視的な場を、漆のお椀は同時に提供してくれるのです。
もちろん、その漆による鏡面世界は、作品毎に異なった場を生み出します。目の前の作品から真後ろの作品、さらには斜め後ろの作品まで、各々が共鳴し、または反発して、永遠に回転しつつ、さらに立ち戻る。今自分が、SCAIに確かに居ることだけは認識できるものの、それ以外は、一体どの作品に自分が対応しているのか、はたまた、どのようにそれらが呼応し合っているのか、何もかもがぐちゃぐちゃになったかのような気持ちにさせられます。漆の眩い輝きが、時には前に立つ者を優しく吸い込む。そして、その吸い込まれた者は、また別の作品から吐き出される。SCAIの中に、いくつものミニ・ブラックホールが点在しているかのようです。
驚きと言えばもう一点、会場中央に置かれた、大きな円形が回転し続けている作品です。ぐるぐるとひたすら廻り続ける円形の台。中にはどうやら赤い、何か液体が塗り固められたようなものが入って、回転に合わすかのように、緩やかな曲線を描いています。一見、何らかの固体がただ廻っているだけのようにも思えますが、実は中身は液体、つまり水でした。回転による遠心力にて、常に一定の形を見せる液体。まさしく水の彫刻とも言えるでしょう。目を凝らして見ても、なかなか分からないほどに、ほぼ完璧に水が造形されています。もちろん、この水の形も、どことなくお椀の形をしていました。
また、お椀型の作品が、会場の音を反響する、要はそれぞれがスピーカーのような役割を果たしているのも、今回の展覧会の興味深い点です。ジーッと言うような静かな音が会場全体に響き渡るのは、まさにスピーカーか、反響板に変身した各作品のおかげでしょう。音の錯視。視覚の揺さぶりだけではなく、聴覚すら惑わせます。
錯視的な効果を追求したインスタレーションというのは、もちろん他にもあるのかと思いますが、アプーアの素晴らしい点は、作品がその効果を狙ったものだけではなく、やはり彫刻としての美感を保持している、つまり、作品の美しさと、彫刻の生み出す静謐感が先立っていることにあると思います。会場にはカプーアの図録がいくつか並べられていましたが、これらにも惹かれました。これはおすすめしたいです。上野の展覧会に出向いた際にでも是非いかがでしょうか。(画像は、SCAIのサイトのものです。)
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「吉村順三建築展」 東京藝術大学美術館 12/10
東京藝術大学美術館(台東区上野公園)
「吉村順三建築展」
11/10~12/25
東京藝術大学美術館で開催中の「吉村順三建築展」です。建築家吉村順三(1908-1997)の業績を、図面や精巧な模型を用いて、分かり易く紹介します。コンパクトによくまとめられた展覧会です。
吉村氏の建築において目立った点は、建物上部の空間の生み出し方に独自性(?)があること、つまり、上部が下から浮き上がっているように見えることです。一階部分は極力小さな堆積に押さえて、最低限の要素、例えば玄関や水回り等のみを設置し、二階部分には居間や寝室のスペースをたっぷりととる。建物上部は、下部の全てを覆った上に、さらに大きく出っ張って面を作り出す。まるで、小さな箱に、大きな平べったい箱が載っているようです。また、下部は大きな上部を支えるため、コンクリートにて強度が保たれているとのことですが、心なしかどこか不安定です。主に木造にて作られた上部の軽さ、または、上へと向かうような浮遊感を思わせます。
この上部の浮遊感が最も顕著に見られたのは、もちろん「軽井沢の山荘」でした。鬱蒼とした森の中で静かに佇む氏の山荘。周りは一面の木々に覆われ、視界の全て緑に包まれます。その中に、上部が持ち上がったような、浮遊感のある山荘がポツンと一棟。居住部分にあたる二階には大きな窓があり、そこを開け放した時に感じられるのは、森と一体になったような、自然が家の中へ飛び込んでくるような開放感です。一階部分を忘れさせるこの演出は、自分の居る場所の高さをも忘れさせて、木々の呼吸に包まれます。これはなかなか見事です。
もちろん、下部を小さくすることは、そのような演出効果を生むだけではなく、解説にも書かれていたように、防犯性を追求することにもつながります。また、氏の作品は全体的に、あまり建物が外へと繋がるような気配がなく、むしろ閉じているようにも見えました。ただ、その閉じていると言うのは、単に建物が外部を完全に遮断しているという意味ではありません。要は、内と外の境界線がハッキリと分けられた「内」の中(一階の小ささに守られた二階部分など。)で、例えば「軽井沢の山荘」のような、外の自然を大きく取り込む。言い換えれば、基本は内の安心感に包まれて、その上で、内が外を取り込むというような傾向が見られると思います。境界の曖昧さは排除され、あくまでもそれが厳格に区別された中での、外から内への緩やかな動き。私の勝手な思い込みではありますが、非常に興味深い点だと思いました。
最後に紹介されていたのは、比較的晩年の作品である「八ヶ岳高原音楽堂」です。この建物は、それまでに浮遊感を見せていた上部が、思い切り重厚な屋根へと転換して、下部をグッと押しつぶします。大地へ刺さるように、鋭角的な傾斜も見せる屋根は、下部をどっしりと保護する。これまでの氏の建物にはあまりなかったような造形なので、この辺の変化の様子には少し驚かされました。
これまでも、建築の展覧会をいくつか見てきてましたが、いつもその見せ方、つまり展示方法に難しさを感じさせる中で、今回の展覧会は、地味な構成でありながらも、要所を掴んだ上に分かり易い、優れた内容だと思いました。ただ少し残念だったのは、NHKの制作(?)による「軽井沢の山荘」をテーマとした映像です。全体的に「イメージビデオ」的で、あまり建物の素材や構成を見せてくれません。唯一、氏の作品を映像で見ることができるものだったので、もう一歩深いものであればと思いました。今月25日までの開催です。
「吉村順三建築展」
11/10~12/25
東京藝術大学美術館で開催中の「吉村順三建築展」です。建築家吉村順三(1908-1997)の業績を、図面や精巧な模型を用いて、分かり易く紹介します。コンパクトによくまとめられた展覧会です。
吉村氏の建築において目立った点は、建物上部の空間の生み出し方に独自性(?)があること、つまり、上部が下から浮き上がっているように見えることです。一階部分は極力小さな堆積に押さえて、最低限の要素、例えば玄関や水回り等のみを設置し、二階部分には居間や寝室のスペースをたっぷりととる。建物上部は、下部の全てを覆った上に、さらに大きく出っ張って面を作り出す。まるで、小さな箱に、大きな平べったい箱が載っているようです。また、下部は大きな上部を支えるため、コンクリートにて強度が保たれているとのことですが、心なしかどこか不安定です。主に木造にて作られた上部の軽さ、または、上へと向かうような浮遊感を思わせます。
この上部の浮遊感が最も顕著に見られたのは、もちろん「軽井沢の山荘」でした。鬱蒼とした森の中で静かに佇む氏の山荘。周りは一面の木々に覆われ、視界の全て緑に包まれます。その中に、上部が持ち上がったような、浮遊感のある山荘がポツンと一棟。居住部分にあたる二階には大きな窓があり、そこを開け放した時に感じられるのは、森と一体になったような、自然が家の中へ飛び込んでくるような開放感です。一階部分を忘れさせるこの演出は、自分の居る場所の高さをも忘れさせて、木々の呼吸に包まれます。これはなかなか見事です。
もちろん、下部を小さくすることは、そのような演出効果を生むだけではなく、解説にも書かれていたように、防犯性を追求することにもつながります。また、氏の作品は全体的に、あまり建物が外へと繋がるような気配がなく、むしろ閉じているようにも見えました。ただ、その閉じていると言うのは、単に建物が外部を完全に遮断しているという意味ではありません。要は、内と外の境界線がハッキリと分けられた「内」の中(一階の小ささに守られた二階部分など。)で、例えば「軽井沢の山荘」のような、外の自然を大きく取り込む。言い換えれば、基本は内の安心感に包まれて、その上で、内が外を取り込むというような傾向が見られると思います。境界の曖昧さは排除され、あくまでもそれが厳格に区別された中での、外から内への緩やかな動き。私の勝手な思い込みではありますが、非常に興味深い点だと思いました。
最後に紹介されていたのは、比較的晩年の作品である「八ヶ岳高原音楽堂」です。この建物は、それまでに浮遊感を見せていた上部が、思い切り重厚な屋根へと転換して、下部をグッと押しつぶします。大地へ刺さるように、鋭角的な傾斜も見せる屋根は、下部をどっしりと保護する。これまでの氏の建物にはあまりなかったような造形なので、この辺の変化の様子には少し驚かされました。
これまでも、建築の展覧会をいくつか見てきてましたが、いつもその見せ方、つまり展示方法に難しさを感じさせる中で、今回の展覧会は、地味な構成でありながらも、要所を掴んだ上に分かり易い、優れた内容だと思いました。ただ少し残念だったのは、NHKの制作(?)による「軽井沢の山荘」をテーマとした映像です。全体的に「イメージビデオ」的で、あまり建物の素材や構成を見せてくれません。唯一、氏の作品を映像で見ることができるものだったので、もう一歩深いものであればと思いました。今月25日までの開催です。
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「丸山直文 『朝と夜の間』」 シュウゴアーツ 12/8
シュウゴアーツ(江東区清澄)
「丸山直文 『朝と夜の間』」
11/11~12/17
今回出向いた清澄のギャラリーの中で、最も魅力的だった展覧会です。「ステイニング」(綿布を水に浸し、アクリル絵の具を染み込ませながら描く。)という技法にて成された美しい絵画が数点、ギャラリーの空間を優しく包み込むように配されていました。
どの作品も、その「ステイニング」によるものなのか、実に透明感に溢れて、それこそ今、眼前の画面上に水が漂っているかのように、滑らかで落ち着いた光の移ろいを見せています。ゆらゆらと、水が揺らいでいるような線が画面を分けて、ソフトな空間を作り上げる。もちろんそこには、アクリル絵の具の鮮やかな色彩が、限りなく淡く、そして瑞々しく伸びやかに漂う。光が水に差し込んだ時の眩しさ。または、空に溶け込む虹の美しさ。アクリルにて、これほど柔らかい質感を見せる絵画もなかなかありません。
大地に広がる水田が描かれたような作品に目が奪われました。(作品のタイトルを忘れてしまいました。申し訳ありません。)伸びやかで淡いアクリル絵の具の瑞々しさが、あくまでも控えめなグラデーションを見せて水田の空間を作り上げる。そしてそのグラデーションの上に、濃い絵の具が曲線上に引かれていく。こうすることで、大まかに言えば、あぜ道に分けられた水田が、陽の明かりに柔らかく反射しながら煌めている様子が表現されるのです。作品のサイズよりも、はるかに大きく見える広がりのある画面。美しい水田が果てしなく続いているような気さえします。この空間の生み出し方は稀有です。素晴らしいと思います。
まさに虹のような空の中で、カラフルな蝶が舞う「light stroll」(2005年)も、その柔らかで広がりのある空間を、十分に堪能することの出来る作品でした。サーチライトが地面から投射されているような、薄い青や黄色の空に、まるで妖精のような蝶やトンボがひらひらと舞い続ける。あり得ない抽象的な世界が描かれていながらも、どこか懐かしいような、田舎の原風景を思わせます。自然の豊かな恵み、特にその源でもある水と光の存在感。ギャラリーの空間が、大自然の中へと転換して、そこで光のシャワー浴びながら、水の際を気持ちよく漂っている。そんな気持ちにもさせられる作品です。
もちろん、自然をイメージさせないような、アクリルの鮮やかな紋様を見せた、半ば抽象的とも言える作品もいくつか存在します。しかしそれも、決して無機質にならずに、やはりどこかの現実か、あるいは一度見た夢のような、既視感のある懐かしい世界、もしくは安らかな世界へと立ち戻させます。この両者の絶妙なバランス感は見事としか言い様がありません。
森美術館の「ハピネス展」等でも何度か拝見したことがあり、その際にも少し惹かれていたのですが、今回改めてまとめて見たことで、その魅力を再確認することが出来ました。これはおすすめしたいです。
「丸山直文 『朝と夜の間』」
11/11~12/17
今回出向いた清澄のギャラリーの中で、最も魅力的だった展覧会です。「ステイニング」(綿布を水に浸し、アクリル絵の具を染み込ませながら描く。)という技法にて成された美しい絵画が数点、ギャラリーの空間を優しく包み込むように配されていました。
どの作品も、その「ステイニング」によるものなのか、実に透明感に溢れて、それこそ今、眼前の画面上に水が漂っているかのように、滑らかで落ち着いた光の移ろいを見せています。ゆらゆらと、水が揺らいでいるような線が画面を分けて、ソフトな空間を作り上げる。もちろんそこには、アクリル絵の具の鮮やかな色彩が、限りなく淡く、そして瑞々しく伸びやかに漂う。光が水に差し込んだ時の眩しさ。または、空に溶け込む虹の美しさ。アクリルにて、これほど柔らかい質感を見せる絵画もなかなかありません。
大地に広がる水田が描かれたような作品に目が奪われました。(作品のタイトルを忘れてしまいました。申し訳ありません。)伸びやかで淡いアクリル絵の具の瑞々しさが、あくまでも控えめなグラデーションを見せて水田の空間を作り上げる。そしてそのグラデーションの上に、濃い絵の具が曲線上に引かれていく。こうすることで、大まかに言えば、あぜ道に分けられた水田が、陽の明かりに柔らかく反射しながら煌めている様子が表現されるのです。作品のサイズよりも、はるかに大きく見える広がりのある画面。美しい水田が果てしなく続いているような気さえします。この空間の生み出し方は稀有です。素晴らしいと思います。
まさに虹のような空の中で、カラフルな蝶が舞う「light stroll」(2005年)も、その柔らかで広がりのある空間を、十分に堪能することの出来る作品でした。サーチライトが地面から投射されているような、薄い青や黄色の空に、まるで妖精のような蝶やトンボがひらひらと舞い続ける。あり得ない抽象的な世界が描かれていながらも、どこか懐かしいような、田舎の原風景を思わせます。自然の豊かな恵み、特にその源でもある水と光の存在感。ギャラリーの空間が、大自然の中へと転換して、そこで光のシャワー浴びながら、水の際を気持ちよく漂っている。そんな気持ちにもさせられる作品です。
もちろん、自然をイメージさせないような、アクリルの鮮やかな紋様を見せた、半ば抽象的とも言える作品もいくつか存在します。しかしそれも、決して無機質にならずに、やはりどこかの現実か、あるいは一度見た夢のような、既視感のある懐かしい世界、もしくは安らかな世界へと立ち戻させます。この両者の絶妙なバランス感は見事としか言い様がありません。
森美術館の「ハピネス展」等でも何度か拝見したことがあり、その際にも少し惹かれていたのですが、今回改めてまとめて見たことで、その魅力を再確認することが出来ました。これはおすすめしたいです。
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「Tim Lokiec・仙谷朋子・多田友充」 ZENSHI 12/8
ZENSHI(江東区清澄)
「開廊記念展覧会 Tim Lokiec・仙谷朋子・多田友充」
11/11~12/17
清澄のギャラリービル内に、先日オープンしたという「ZENSHI」。その開廊を記念して開催されている展覧会です。上記3名の方による個展ですが、仙谷朋子さんの作品に最も惹かれました。
作品は写真が三点。まずは、「murmure -sasayaki-」と「murmure -zawameki-」に目がいきます。(「murmure」とは仏語の「つぶやき」の意味でしょうか。)共に横に大きく伸ばされた画面(縦560mm×横1265mm)にて、蓮の池(?)の景色がダイナミックに写し出されています。「sasayaki」は、今にも画面から飛び出してきそうなほど、花と葉へ大胆に近づいたアングルにて撮られ、また、全体がややぼかされたように、薄い暗がりに支配されています。一方の「zawameki」は、もっと蓮を鳥瞰的に捉えた作品です。蓮の上に広がる大空と、横に連なる送電線に鉄塔。それらが全て丸みを帯びて写し出されています。共に、色は、藍を基調とした落ち着いた雰囲気にまとめられて、若干、葉が、まさにザワザワとうごめいているような気配も漂わします。写真の中の揺らぎが心地良い作品です。
もう一点はモノクロの作品でしょうか。同じく蓮を捉え、二枚にて構成された「murmure -lotus-」。葉が無数に重なり合うその様は、どこか海のさざ波のようです。また、蓮の一枚一枚の葉は、上へと向かって、まるで両手を空へかかげているようにも見えます。蓮の生気が穏やかに伝わってくる作品です。
事前に調べて見た展覧会ではなかったのですが、思わぬ美しい作品に出会えました。今月17日までの開催です。
「開廊記念展覧会 Tim Lokiec・仙谷朋子・多田友充」
11/11~12/17
清澄のギャラリービル内に、先日オープンしたという「ZENSHI」。その開廊を記念して開催されている展覧会です。上記3名の方による個展ですが、仙谷朋子さんの作品に最も惹かれました。
作品は写真が三点。まずは、「murmure -sasayaki-」と「murmure -zawameki-」に目がいきます。(「murmure」とは仏語の「つぶやき」の意味でしょうか。)共に横に大きく伸ばされた画面(縦560mm×横1265mm)にて、蓮の池(?)の景色がダイナミックに写し出されています。「sasayaki」は、今にも画面から飛び出してきそうなほど、花と葉へ大胆に近づいたアングルにて撮られ、また、全体がややぼかされたように、薄い暗がりに支配されています。一方の「zawameki」は、もっと蓮を鳥瞰的に捉えた作品です。蓮の上に広がる大空と、横に連なる送電線に鉄塔。それらが全て丸みを帯びて写し出されています。共に、色は、藍を基調とした落ち着いた雰囲気にまとめられて、若干、葉が、まさにザワザワとうごめいているような気配も漂わします。写真の中の揺らぎが心地良い作品です。
もう一点はモノクロの作品でしょうか。同じく蓮を捉え、二枚にて構成された「murmure -lotus-」。葉が無数に重なり合うその様は、どこか海のさざ波のようです。また、蓮の一枚一枚の葉は、上へと向かって、まるで両手を空へかかげているようにも見えます。蓮の生気が穏やかに伝わってくる作品です。
事前に調べて見た展覧会ではなかったのですが、思わぬ美しい作品に出会えました。今月17日までの開催です。
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「フィリップ・ペロ展」 小山登美夫ギャラリー 12/8
小山登美夫ギャラリー(江東区清澄)
「フィリップ・ペロ展」
11/22~12/17
以前、拙ブログでも紹介した「フランス現代美術週間」の展覧会です。会場は、清澄庭園から隅田川方面へ歩いた工場地帯の中にある「小山登美夫ギャラリー」。倉庫風の大きなビル内に、最近、いくつものギャラリーが集団でオープンしたという話題の場所です。一度出向いてみたいと思っていたので、先日まとめてのぞいてきました。
弱々しく、またヨレヨレしたタッチにて描かれたデッサン。対象はどれも人間の営みです。どこか生活感が漂っていながらも、道化のような不可思議な行動をとっている者もいる。デフォルメされた体に手に顔。露骨に性器を思わせる形があったり、乳房から乳のようなものが滴り落ちていたりする様が見て取れます。幾分、エロティズム的。それにしても、この「ヘタウマ」のような絵。定まらない、モノが解体しそうな線。あまりにも奇妙です。
ただ、奇妙と言いつつも、描かれている人間の姿は、どこか寓話的なイメージを持っているので、不思議な取っ付き易さと温かみが伝わります。その辺が魅力なのでしょうか。神話を題材にしたような物語なのか、はたまた何かの幻想世界なのか。危うい画面の構成は、夢の儚さをも連想させます。
展示作品の殆どは、あまり色のないものばかりだったのですが、会場内の図録等を見ると、鮮やかなカラーの作品も多く制作しているようです。カラー作品は一点だけ展示されていましたが、出来ればそちらをもう少し見たいと思いました。
*ところで、このギャラリーの入っているビルですが、初めにも触れた通り、外見は全くの倉庫(下層階は今もそのように使用されています。)なので、中のアートな空間とのギャップにまず驚かされます。地図を片手に、江東区の工場地帯をさまようことしばらく、ようやく見つけた大きな倉庫。「本当にここがギャラリーなのか?」と思っておそるおそる中へ入ってみると、突然、半ば場違いな「ギャラリー案内所」があり、ちゃんとご親切な受付の方までいらっしゃる。「案内所」のあるギャラリーなど、なかなかないでしょう。ちなみに、その先にあるギャラリーへのエレベーターがクセものでした。(ギャラリーは全てビルの上層階にあります。)ブーブーとひたすらブザーが鳴り続けないためにも、皆さん、「閉」ボタンをちゃんと押しましょう。
「フィリップ・ペロ展」
11/22~12/17
以前、拙ブログでも紹介した「フランス現代美術週間」の展覧会です。会場は、清澄庭園から隅田川方面へ歩いた工場地帯の中にある「小山登美夫ギャラリー」。倉庫風の大きなビル内に、最近、いくつものギャラリーが集団でオープンしたという話題の場所です。一度出向いてみたいと思っていたので、先日まとめてのぞいてきました。
弱々しく、またヨレヨレしたタッチにて描かれたデッサン。対象はどれも人間の営みです。どこか生活感が漂っていながらも、道化のような不可思議な行動をとっている者もいる。デフォルメされた体に手に顔。露骨に性器を思わせる形があったり、乳房から乳のようなものが滴り落ちていたりする様が見て取れます。幾分、エロティズム的。それにしても、この「ヘタウマ」のような絵。定まらない、モノが解体しそうな線。あまりにも奇妙です。
ただ、奇妙と言いつつも、描かれている人間の姿は、どこか寓話的なイメージを持っているので、不思議な取っ付き易さと温かみが伝わります。その辺が魅力なのでしょうか。神話を題材にしたような物語なのか、はたまた何かの幻想世界なのか。危うい画面の構成は、夢の儚さをも連想させます。
展示作品の殆どは、あまり色のないものばかりだったのですが、会場内の図録等を見ると、鮮やかなカラーの作品も多く制作しているようです。カラー作品は一点だけ展示されていましたが、出来ればそちらをもう少し見たいと思いました。
*ところで、このギャラリーの入っているビルですが、初めにも触れた通り、外見は全くの倉庫(下層階は今もそのように使用されています。)なので、中のアートな空間とのギャップにまず驚かされます。地図を片手に、江東区の工場地帯をさまようことしばらく、ようやく見つけた大きな倉庫。「本当にここがギャラリーなのか?」と思っておそるおそる中へ入ってみると、突然、半ば場違いな「ギャラリー案内所」があり、ちゃんとご親切な受付の方までいらっしゃる。「案内所」のあるギャラリーなど、なかなかないでしょう。ちなみに、その先にあるギャラリーへのエレベーターがクセものでした。(ギャラリーは全てビルの上層階にあります。)ブーブーとひたすらブザーが鳴り続けないためにも、皆さん、「閉」ボタンをちゃんと押しましょう。
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「ミラノ展」 千葉市美術館 12/4
千葉市美術館(千葉市中央区中央)
「ミラノ展 -都市の芸術と歴史- 」
10/25~12/4(会期終了)
ミラノの長い芸術史にスポットを当てた異色の展覧会です。展示作品数は約70点ほど。3世紀頃の銀杯からダ・ヴィンチを超えて、カナレットからモランディ、さらにはフォンターナまでも網羅します。今回も、恵泉女学園大学の池上英洋さんご引率の鑑賞会に参加して見てきました。(以下、レクチャーのメモを引用しながらの感想です。)
ミラノの起源は約紀元前4世紀頃。ローマによって「ガリア人の地」と呼ばれたミラノは、南欧の中心として、主に西ローマ帝国の首都になった以降栄えていきます。(286年~ミラノ帝都時代)その後、コンスタンティヌス1世による「ミラノ勅令」によってキリスト教が公認(313年)され、初代ミラノ司教に聖アンプロシウスが(4世紀後半)登場。これによって、ミラノはキリスト教美術の最先端の地としても発展します。しかし、その後のホノリウスによるラヴェンナ遷都(404年)により、ミラノの地位は徐々に低下。最終的にはゲルマンの侵攻を受けて、長い「停滞期」へと突入していく。ミラノが再び脚光を浴びるのは、コムーネと呼ばれる自治都市の時代。特にその最大の都市として輝く、12世紀以降のことでした。
ローマ時代の品はあまり多く展示されていません。円柱上に守り神のように載せられていたという「皇帝の肖像」。(3-4世紀。肖像はマクシミニアヌスの可能性。)鼻と顎の部分が外れていましたが、がっしりとした味わいを見せています。また、大理石が主流であったこの時期としては珍しいブロンズ製の「男子胸像」(3世紀末?)、さらには、司教座教会(ドゥオーモ)に置くための聖遺物を入れたとされる、「聖ナザーロの聖遺物箱用容器」(4世紀、東方三博士の礼拝の場面が描かれている。)などが並びます。
中世の都市国家ミラノをまず支配したのはヴィスコンティ家です。この時期に、名高いミラノ大聖堂(ドゥオーモ)が建設され始めますが、その後、傭兵隊長上がりとも揶揄されたフランチェスコ・スフォルツァに主権が移ります。このヴィスコンティ家とスフォルツァ家は、共に中世ミラノ美術史にとって非常に重要です。美術を保護し、芸術家のパトロンとして、この時期のミラノの美術を支えた両家。かのダ・ヴィンチを宮廷へ招いたのもスフォルツァ家の一員、イル・モーロ(1452-1508年)です。
展覧会のハイライトも、このヴィスコンティ家とスフォルツァ家によるミラノ支配期の展示でしょうか。街の守護聖人として、ミラノの街のミニチュアを腕に抱いて立つ像「聖母マリアにひざまずき都市ミラノを献ずる聖アンブロシウス」(1330年)や、個人礼拝時に、各々が接吻して信仰を示したと言う、その名も「接吻牌(パーチェ)」(15世紀半ば。牌の中央にヴィスコンティ家の紋章。聖体拝領的な儀式。現在、この習慣は残っていない。)、さらには宮廷内の娯楽用として使われた美しいタロットカード「ヴィスコンティ家のタロットカード」(1447年頃)などが並びます。この中では特に、最後のタロットカードが印象に残りました。一見、まるで薄い石板にて出来ているようですが、実は厚紙にて作られていて、それぞれ計四枚のカードには、剣(スペード)、棒(クラブ)、杯(ハート)、金貨(ダイヤ)の絵柄が、実に精巧に描かれています。当時の宮廷の権勢を示すような贅沢な品です。
スフォルツァやその妻の描かれた作品(「フォランチェスコ・スフォルツァおよびビアンカ・マリア・ヴィスコンティの肖像」)を見た後は、いよいよレオナルド・ダ・ヴィンチ(とされる)の二作品が迎えてくれます。それが、共にチョークにて描かれた、「レダの頭部」(1511-1519年)と「キリストの頭部」(1494年頃)です。作品の魅力、完成度とも、圧倒的に前者が勝っているでしょうか。未だ見つかっていない(もしくは失われた)「レダと白鳥」の一部分を、素描にて美しく捉えた「レダの頭部」。まさにレオナルド的とも言える、水流のような美しい髪の毛の描写はもちろんのこと、その顔の表情も絶品です。モナリザを思わせるような口の立体感と、控えめに伸びた柔らかい鼻筋、さらには、深い陰影を見せる目の描写。どれもが自然と透き通るように、そしてミクロの点を端正に積み重ねたように精巧に描かれています。この二点、つまり「レダの頭部」と「キリストの頭部」は、レオナルドの真作かどうか、研究者によっては解釈が分かれているとのことですが、少なくとも「レダの頭部」に関しては、素描としては実に見応えのある美しい作品です。(一方の「キリストの頭部」は、悪くはありませんが、少々タッチも荒く、いささか魅力に欠けるようです。)
ダ・ヴィンチの弟子である、ベルナルディーノ・ルイーニ(弟子の中では最も成功した。)と、マルコ・ドッジョーノの作品も展示されています。特にドッジョーノの「カナの婚礼」(1519-1522年)は面白い作品です。ヨハネ福音書におけるイエスの「奇蹟」の場面を描いたこの作品は、構図がどこか「最後の晩餐」のよう。新郎がどこに描かれているのか分からないとのことで、やや謎めいた画面を見せていますが、明朗で華やかな雰囲気はなかなか魅力的です。(ルイーニの「ハムの嘲笑」は、レオナルド的な構図と、リッピやラファエロを思わせる鮮やかな色彩が見事とのことでした。)
「レオナルド的」と言えば、ダ・ヴィンチの「聖アンナと聖母子」から場面を借りた作品、チェザーレ・ダ・セストの「聖母子と子羊」(1515年頃)も面白い構図を見せています。隆々としたミケランジェロ風の肉体。レオナルドを超えて、新たなる時代への萌芽を思わせる作品ですが、構図は当然ながらも、植物の描写や背景の設定などは、レオナルドの技術を忠実に受け継いでいます。イタリア・ルネサンス期の輝かしい美術史における、多様な形式を包み込んだ作品。その折衷が興味深いとのことでした。
ルネサンス期を過ぎ、バロック期へ差し掛かると、イタリアはスペインとフランスの影響下におかれ、その独自性を失い始めます。現在のミラノの文化イメージを象る、スカラ座やブレラなどが力を持ったのは、オーストリア宮廷時代の18世紀のことです。外国文化流入の歴史とも言えるミラノ。1778年、スカラ座のこけら落としとして上演された演目は、映画「アマデウス」にて一躍有名となったアントニオ・サリエリの「エウロパ・リコノシゥータ」。確かにこの辺から、俄然、身近なミラノのイメージが湧き上がってきます。
バロック期の作品としてやはり美しいものは、以前、上野の西洋美術館のドレスデン国立美術館展でも出品があった、カナレットの風景作品です。「聖マルコの象徴~ヴェネツィア」(1742年以前)。細部にまで精巧に描かれた建物や人物。写真の誕生以前の「風景写真」として、特にイギリスにて有名になったカナレットですが、この輝かしい明るさは、イギリスの暗がりにはない光なのかもしれません。
展覧会の第6章、「スカラ座と19世紀のミラノ」のセクションでは、クラシックファンにとって嬉しい作品がいくつか展示されています。その中では、やはりフランチェスコ・アイエツの「ジョアッキーノ・ロッシーニの肖像」(1870年頃)でしょうか。アイエツの肖像画は、もう一点展示されていましたが、それとは比較にならないほど、実に生き生きとした人物像が描かれています。お腹の出た恰幅の良いロッシーニが、楽譜を手にしながらどっぷりと椅子に座る様子。表情は生々しく、顔の皺一本一本まで丁寧に陰影がつけられています。視線を斜めに向けて、やや口を引き締めたようなその顔からは、オペラを書いて書いて書き尽くしたロッシーニの、どことない倦怠感すら感じられます。肖像画としては、これ以上の完成度のものがないと思うほどに優れた作品です。
もう一点は、ヴィンチェンツォ・ジェミトの「ジュセッペ・ヴェルディの肖像」(1873年)です。こちらはブロンズによる彫刻ですが、苦虫を噛み潰したような、ヴェルディの気難しい雰囲気が巧みに表現されています。ヴェルディと言うと、いつも下を向いて、ポケットに手を入れながら、肩をすくめて歩いている印象がありますが、この彫刻のヴェルディはまさにそれでしょう。
最後のセクションは、20世紀ということで、突如現代アートの世界が出現します。渋い色遣いが心に留まるモランディの三点も見応えがありましたが、ここではフォンターナの「空間概念(夜)」(1956年)が特に印象的です。フォンターナと言うと、鮮やかな色彩を放つ画布に、鋭い牙を剥いたようなシャープな切れ込みがイメージされますが、ここで展示されている作品は、鋭さや鮮やかさが全く見られずに、むしろゴツゴツとした無骨な印象を与えてくれます。ボツボツとキャンバスに開けられた無数の穴。どっぷりとのせられた黒の絵具と、スパンコールの僅かな煌めき。しっかりとしていない、崩れ落ちそうな危ういバランス感覚も魅力的です。私のフォンターナへ先入観が覆されるような作品でした。
長々と既に終了した展覧会について書いてしまいましたが、一つの都市の美術史をターゲットにした企画の面白さと、ダ・ヴィンチだけに限らない出品作の質の高さなどがとても印象に残りました。ミラノの文化の多様性の面白さが、良く伝わる内容に仕上がっていたと思います。
「ミラノ展 -都市の芸術と歴史- 」
10/25~12/4(会期終了)
ミラノの長い芸術史にスポットを当てた異色の展覧会です。展示作品数は約70点ほど。3世紀頃の銀杯からダ・ヴィンチを超えて、カナレットからモランディ、さらにはフォンターナまでも網羅します。今回も、恵泉女学園大学の池上英洋さんご引率の鑑賞会に参加して見てきました。(以下、レクチャーのメモを引用しながらの感想です。)
ミラノの起源は約紀元前4世紀頃。ローマによって「ガリア人の地」と呼ばれたミラノは、南欧の中心として、主に西ローマ帝国の首都になった以降栄えていきます。(286年~ミラノ帝都時代)その後、コンスタンティヌス1世による「ミラノ勅令」によってキリスト教が公認(313年)され、初代ミラノ司教に聖アンプロシウスが(4世紀後半)登場。これによって、ミラノはキリスト教美術の最先端の地としても発展します。しかし、その後のホノリウスによるラヴェンナ遷都(404年)により、ミラノの地位は徐々に低下。最終的にはゲルマンの侵攻を受けて、長い「停滞期」へと突入していく。ミラノが再び脚光を浴びるのは、コムーネと呼ばれる自治都市の時代。特にその最大の都市として輝く、12世紀以降のことでした。
ローマ時代の品はあまり多く展示されていません。円柱上に守り神のように載せられていたという「皇帝の肖像」。(3-4世紀。肖像はマクシミニアヌスの可能性。)鼻と顎の部分が外れていましたが、がっしりとした味わいを見せています。また、大理石が主流であったこの時期としては珍しいブロンズ製の「男子胸像」(3世紀末?)、さらには、司教座教会(ドゥオーモ)に置くための聖遺物を入れたとされる、「聖ナザーロの聖遺物箱用容器」(4世紀、東方三博士の礼拝の場面が描かれている。)などが並びます。
中世の都市国家ミラノをまず支配したのはヴィスコンティ家です。この時期に、名高いミラノ大聖堂(ドゥオーモ)が建設され始めますが、その後、傭兵隊長上がりとも揶揄されたフランチェスコ・スフォルツァに主権が移ります。このヴィスコンティ家とスフォルツァ家は、共に中世ミラノ美術史にとって非常に重要です。美術を保護し、芸術家のパトロンとして、この時期のミラノの美術を支えた両家。かのダ・ヴィンチを宮廷へ招いたのもスフォルツァ家の一員、イル・モーロ(1452-1508年)です。
展覧会のハイライトも、このヴィスコンティ家とスフォルツァ家によるミラノ支配期の展示でしょうか。街の守護聖人として、ミラノの街のミニチュアを腕に抱いて立つ像「聖母マリアにひざまずき都市ミラノを献ずる聖アンブロシウス」(1330年)や、個人礼拝時に、各々が接吻して信仰を示したと言う、その名も「接吻牌(パーチェ)」(15世紀半ば。牌の中央にヴィスコンティ家の紋章。聖体拝領的な儀式。現在、この習慣は残っていない。)、さらには宮廷内の娯楽用として使われた美しいタロットカード「ヴィスコンティ家のタロットカード」(1447年頃)などが並びます。この中では特に、最後のタロットカードが印象に残りました。一見、まるで薄い石板にて出来ているようですが、実は厚紙にて作られていて、それぞれ計四枚のカードには、剣(スペード)、棒(クラブ)、杯(ハート)、金貨(ダイヤ)の絵柄が、実に精巧に描かれています。当時の宮廷の権勢を示すような贅沢な品です。
スフォルツァやその妻の描かれた作品(「フォランチェスコ・スフォルツァおよびビアンカ・マリア・ヴィスコンティの肖像」)を見た後は、いよいよレオナルド・ダ・ヴィンチ(とされる)の二作品が迎えてくれます。それが、共にチョークにて描かれた、「レダの頭部」(1511-1519年)と「キリストの頭部」(1494年頃)です。作品の魅力、完成度とも、圧倒的に前者が勝っているでしょうか。未だ見つかっていない(もしくは失われた)「レダと白鳥」の一部分を、素描にて美しく捉えた「レダの頭部」。まさにレオナルド的とも言える、水流のような美しい髪の毛の描写はもちろんのこと、その顔の表情も絶品です。モナリザを思わせるような口の立体感と、控えめに伸びた柔らかい鼻筋、さらには、深い陰影を見せる目の描写。どれもが自然と透き通るように、そしてミクロの点を端正に積み重ねたように精巧に描かれています。この二点、つまり「レダの頭部」と「キリストの頭部」は、レオナルドの真作かどうか、研究者によっては解釈が分かれているとのことですが、少なくとも「レダの頭部」に関しては、素描としては実に見応えのある美しい作品です。(一方の「キリストの頭部」は、悪くはありませんが、少々タッチも荒く、いささか魅力に欠けるようです。)
ダ・ヴィンチの弟子である、ベルナルディーノ・ルイーニ(弟子の中では最も成功した。)と、マルコ・ドッジョーノの作品も展示されています。特にドッジョーノの「カナの婚礼」(1519-1522年)は面白い作品です。ヨハネ福音書におけるイエスの「奇蹟」の場面を描いたこの作品は、構図がどこか「最後の晩餐」のよう。新郎がどこに描かれているのか分からないとのことで、やや謎めいた画面を見せていますが、明朗で華やかな雰囲気はなかなか魅力的です。(ルイーニの「ハムの嘲笑」は、レオナルド的な構図と、リッピやラファエロを思わせる鮮やかな色彩が見事とのことでした。)
「レオナルド的」と言えば、ダ・ヴィンチの「聖アンナと聖母子」から場面を借りた作品、チェザーレ・ダ・セストの「聖母子と子羊」(1515年頃)も面白い構図を見せています。隆々としたミケランジェロ風の肉体。レオナルドを超えて、新たなる時代への萌芽を思わせる作品ですが、構図は当然ながらも、植物の描写や背景の設定などは、レオナルドの技術を忠実に受け継いでいます。イタリア・ルネサンス期の輝かしい美術史における、多様な形式を包み込んだ作品。その折衷が興味深いとのことでした。
ルネサンス期を過ぎ、バロック期へ差し掛かると、イタリアはスペインとフランスの影響下におかれ、その独自性を失い始めます。現在のミラノの文化イメージを象る、スカラ座やブレラなどが力を持ったのは、オーストリア宮廷時代の18世紀のことです。外国文化流入の歴史とも言えるミラノ。1778年、スカラ座のこけら落としとして上演された演目は、映画「アマデウス」にて一躍有名となったアントニオ・サリエリの「エウロパ・リコノシゥータ」。確かにこの辺から、俄然、身近なミラノのイメージが湧き上がってきます。
バロック期の作品としてやはり美しいものは、以前、上野の西洋美術館のドレスデン国立美術館展でも出品があった、カナレットの風景作品です。「聖マルコの象徴~ヴェネツィア」(1742年以前)。細部にまで精巧に描かれた建物や人物。写真の誕生以前の「風景写真」として、特にイギリスにて有名になったカナレットですが、この輝かしい明るさは、イギリスの暗がりにはない光なのかもしれません。
展覧会の第6章、「スカラ座と19世紀のミラノ」のセクションでは、クラシックファンにとって嬉しい作品がいくつか展示されています。その中では、やはりフランチェスコ・アイエツの「ジョアッキーノ・ロッシーニの肖像」(1870年頃)でしょうか。アイエツの肖像画は、もう一点展示されていましたが、それとは比較にならないほど、実に生き生きとした人物像が描かれています。お腹の出た恰幅の良いロッシーニが、楽譜を手にしながらどっぷりと椅子に座る様子。表情は生々しく、顔の皺一本一本まで丁寧に陰影がつけられています。視線を斜めに向けて、やや口を引き締めたようなその顔からは、オペラを書いて書いて書き尽くしたロッシーニの、どことない倦怠感すら感じられます。肖像画としては、これ以上の完成度のものがないと思うほどに優れた作品です。
もう一点は、ヴィンチェンツォ・ジェミトの「ジュセッペ・ヴェルディの肖像」(1873年)です。こちらはブロンズによる彫刻ですが、苦虫を噛み潰したような、ヴェルディの気難しい雰囲気が巧みに表現されています。ヴェルディと言うと、いつも下を向いて、ポケットに手を入れながら、肩をすくめて歩いている印象がありますが、この彫刻のヴェルディはまさにそれでしょう。
最後のセクションは、20世紀ということで、突如現代アートの世界が出現します。渋い色遣いが心に留まるモランディの三点も見応えがありましたが、ここではフォンターナの「空間概念(夜)」(1956年)が特に印象的です。フォンターナと言うと、鮮やかな色彩を放つ画布に、鋭い牙を剥いたようなシャープな切れ込みがイメージされますが、ここで展示されている作品は、鋭さや鮮やかさが全く見られずに、むしろゴツゴツとした無骨な印象を与えてくれます。ボツボツとキャンバスに開けられた無数の穴。どっぷりとのせられた黒の絵具と、スパンコールの僅かな煌めき。しっかりとしていない、崩れ落ちそうな危ういバランス感覚も魅力的です。私のフォンターナへ先入観が覆されるような作品でした。
長々と既に終了した展覧会について書いてしまいましたが、一つの都市の美術史をターゲットにした企画の面白さと、ダ・ヴィンチだけに限らない出品作の質の高さなどがとても印象に残りました。ミラノの文化の多様性の面白さが、良く伝わる内容に仕上がっていたと思います。
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「野村和弘 ライオン」 タグチファインアート 12/8
タグチファインアート(中央区日本橋茅場町)
「野村和弘 ライオン」
11/19~12/24
タグチファインアートで開催中の野村和弘氏の個展です。タイトルは「ライオン」。素人的には、何か動物のライオンに関係した作品の展示かと思ってしまいますが、会場内に入ると、それは簡単に覆されました。小さくて真っ赤に塗られたキャンバスがポツンポツンと数点。ギャラリーの無機質な空間に浮かぶ赤の連鎖。「何も描いてないのか。」一瞬そう思ってしまいますが、近づいて見てみることで、初めて作品が姿を現してくれました。
キャンバスには超ミクロの点が、木や草のような象りを持って配されています。黒、黄、オレンジ、白など。爪楊枝の先よりも細く、目を凝らして見ないと分からないほどに小さな点。野村氏によれば、この点にて描かれた植物は「生命の樹」なのだそうです。一本の樹に6つの果実がなっている。良く見れば、確かに、幹の太さとは不釣り合いなほどに大きい実が、枝からぶら下がっていることが分かります。一見無機質な真っ赤なキャンバスに生った果実。近づいて、なめ回すようにキャンバスを見ることで、ようやく果実が生っていることが見て取れるのです。
「生命の樹」の下には、同じく超ミクロの点にて、何らかの数字が書かれていました。その数字は、各キャンバスに使われた点の総数なのだそうです。作品のスタイルは実に簡素でありながらも、謎解きを一つずつ解すようにじっくりと見させる。全貌を直ぐさま現さない。キャンバスの前に漠然と立って鑑賞することを拒んで、見ることを強制するかのように訴えかけてきます。作品を見ることはどういうことなのかと言う、半ば当たり前な美術の見方を、もう一度立ち返って考えさせる意味もあるのでしょうか。
一点だけ、緑のキャンバスの作品がありました。赤のキャンバスよりも、点の色が目立ち、果実が前面に押し出されてきます。この作品に一番惹かれました。唯一、この作品の前だけは、何かホッとさせられるような空気が流れています。
さて、初めにも触れたタイトルの「ライオン」。作品を見ただけでその意を汲み取られる方は、まずいないのではないでしょうか。その謎は、タグチファインアートのサイト内にて明かされています。
「ライオン」云々以前に、丁寧に仕上げられたキャンバス(その額も含めて。)の色、またはミクロの、まるで作家の細かい神経が通ったような点、そしてどことなく漂う緊張感が魅力的な作品です。抽象性の中に潜む、自然へと開かれた絵心。素直に面白いと思いました。
「野村和弘 ライオン」
11/19~12/24
タグチファインアートで開催中の野村和弘氏の個展です。タイトルは「ライオン」。素人的には、何か動物のライオンに関係した作品の展示かと思ってしまいますが、会場内に入ると、それは簡単に覆されました。小さくて真っ赤に塗られたキャンバスがポツンポツンと数点。ギャラリーの無機質な空間に浮かぶ赤の連鎖。「何も描いてないのか。」一瞬そう思ってしまいますが、近づいて見てみることで、初めて作品が姿を現してくれました。
キャンバスには超ミクロの点が、木や草のような象りを持って配されています。黒、黄、オレンジ、白など。爪楊枝の先よりも細く、目を凝らして見ないと分からないほどに小さな点。野村氏によれば、この点にて描かれた植物は「生命の樹」なのだそうです。一本の樹に6つの果実がなっている。良く見れば、確かに、幹の太さとは不釣り合いなほどに大きい実が、枝からぶら下がっていることが分かります。一見無機質な真っ赤なキャンバスに生った果実。近づいて、なめ回すようにキャンバスを見ることで、ようやく果実が生っていることが見て取れるのです。
「生命の樹」の下には、同じく超ミクロの点にて、何らかの数字が書かれていました。その数字は、各キャンバスに使われた点の総数なのだそうです。作品のスタイルは実に簡素でありながらも、謎解きを一つずつ解すようにじっくりと見させる。全貌を直ぐさま現さない。キャンバスの前に漠然と立って鑑賞することを拒んで、見ることを強制するかのように訴えかけてきます。作品を見ることはどういうことなのかと言う、半ば当たり前な美術の見方を、もう一度立ち返って考えさせる意味もあるのでしょうか。
一点だけ、緑のキャンバスの作品がありました。赤のキャンバスよりも、点の色が目立ち、果実が前面に押し出されてきます。この作品に一番惹かれました。唯一、この作品の前だけは、何かホッとさせられるような空気が流れています。
さて、初めにも触れたタイトルの「ライオン」。作品を見ただけでその意を汲み取られる方は、まずいないのではないでしょうか。その謎は、タグチファインアートのサイト内にて明かされています。
「ライオン」云々以前に、丁寧に仕上げられたキャンバス(その額も含めて。)の色、またはミクロの、まるで作家の細かい神経が通ったような点、そしてどことなく漂う緊張感が魅力的な作品です。抽象性の中に潜む、自然へと開かれた絵心。素直に面白いと思いました。
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「江戸絵画のたのしみ」 千葉市美術館 12/4
千葉市美術館(千葉市中央区中央)
「平成17年度所蔵作品展5 江戸絵画の楽しみ」
10/25~12/4(会期終了)
ミラノ展と同時開催されていた、江戸期の日本絵画の展覧会です。タイトルも会場の雰囲気も共に地味ではありますが、中は名品揃いでかなり見応えがあります。千葉市美術館のコレクションにて構成された企画ですが、この美術館の所蔵品展は、毎度のことながら本当に目が離せません。
やはり見所は、あまりも凄まじい伊藤若冲の三点です。墨にて、殆ど一筆書きのようにサラッと軽妙に描かれた「寿老人・孔雀・菊図」と、月明かりに照らされた梅の花が美しい「月夜白梅図」、さらには透き通るようなオウムの羽が見事としか言い様のない「鸚鵡図」。どれも、若冲の類い稀な才能を存分に味わうことの出来る素晴らしい作品ですが、その中でも「鸚鵡図」は絶品です。
この作品では、特にオウムの真白な羽の描写が非常に優れています。羽は丁寧に一枚一枚小気味良いタッチにて描かれていて、そのフワフワとしたような柔らかな質感と、オウムの体つきの立体感が見事に表現されていますが、さらにその羽が、まるで霧のように朧げにぼかされて、絹本の目地に染み渡るかのように、美しく透き通っているのです。羽と羽の隙間から、今にも空気がもれてきそうなほどに、全く平面的にならないで、厚みを持たして描かれる様子。そして、その羽から浮き出てくるような嘴と目の立体感。または羽との美しい対比。これには参りました。
また、オウムの止まっている台の精巧さにも目を見張らされます。鮮やかな赤と緑、それに青の三色にて、細かい意匠が細部にまで凝らされた、まるで十字架のような台の美しさ。オウムの存在感に全く負けることはありません。台からぶら下がるチェーンのたわみまで実に自然に表現され、その果てにはチェーンの下に繋がる装飾品にまで、しなやかな揺らぎが与えられています。この一点を見るだけでも、今回の展覧会の価値は十分にあると思うほどです。
若冲以外にも、円山応挙や池大雅の作品などが見応え十分でした。池大雅の「竹梅図」。上へ上へと伸びゆく竹の力。葉も実に端正に、その表面のスベスベとした感触が伝わるほど、生き生きと描かれています。墨にて描かれた竹の作品にて、これほどに力感が漲っているのも珍しいのではないでしょうか。
展覧会の構成もなかなか秀逸でした。単に時系列に、またはジャンル別に作品を見せるのではなく、例えば「いろいろな形」や「身の回りの小さな情景を描く」など、それぞれにテーマを設定して作品を展示します。特に「筆墨の技を味わう」のセクションでは、水墨画の技法、例えば、指墨(指や爪に墨をつけて描く。)などが紹介されました。なかなか興味深い展示です。
ミラノ展の「オマケ」とするのには、あまりにも勿体ない展覧会でした。この美術館の日本画のコレクションは、これからも追っかけていきたいです。
「平成17年度所蔵作品展5 江戸絵画の楽しみ」
10/25~12/4(会期終了)
ミラノ展と同時開催されていた、江戸期の日本絵画の展覧会です。タイトルも会場の雰囲気も共に地味ではありますが、中は名品揃いでかなり見応えがあります。千葉市美術館のコレクションにて構成された企画ですが、この美術館の所蔵品展は、毎度のことながら本当に目が離せません。
やはり見所は、あまりも凄まじい伊藤若冲の三点です。墨にて、殆ど一筆書きのようにサラッと軽妙に描かれた「寿老人・孔雀・菊図」と、月明かりに照らされた梅の花が美しい「月夜白梅図」、さらには透き通るようなオウムの羽が見事としか言い様のない「鸚鵡図」。どれも、若冲の類い稀な才能を存分に味わうことの出来る素晴らしい作品ですが、その中でも「鸚鵡図」は絶品です。
この作品では、特にオウムの真白な羽の描写が非常に優れています。羽は丁寧に一枚一枚小気味良いタッチにて描かれていて、そのフワフワとしたような柔らかな質感と、オウムの体つきの立体感が見事に表現されていますが、さらにその羽が、まるで霧のように朧げにぼかされて、絹本の目地に染み渡るかのように、美しく透き通っているのです。羽と羽の隙間から、今にも空気がもれてきそうなほどに、全く平面的にならないで、厚みを持たして描かれる様子。そして、その羽から浮き出てくるような嘴と目の立体感。または羽との美しい対比。これには参りました。
また、オウムの止まっている台の精巧さにも目を見張らされます。鮮やかな赤と緑、それに青の三色にて、細かい意匠が細部にまで凝らされた、まるで十字架のような台の美しさ。オウムの存在感に全く負けることはありません。台からぶら下がるチェーンのたわみまで実に自然に表現され、その果てにはチェーンの下に繋がる装飾品にまで、しなやかな揺らぎが与えられています。この一点を見るだけでも、今回の展覧会の価値は十分にあると思うほどです。
若冲以外にも、円山応挙や池大雅の作品などが見応え十分でした。池大雅の「竹梅図」。上へ上へと伸びゆく竹の力。葉も実に端正に、その表面のスベスベとした感触が伝わるほど、生き生きと描かれています。墨にて描かれた竹の作品にて、これほどに力感が漲っているのも珍しいのではないでしょうか。
展覧会の構成もなかなか秀逸でした。単に時系列に、またはジャンル別に作品を見せるのではなく、例えば「いろいろな形」や「身の回りの小さな情景を描く」など、それぞれにテーマを設定して作品を展示します。特に「筆墨の技を味わう」のセクションでは、水墨画の技法、例えば、指墨(指や爪に墨をつけて描く。)などが紹介されました。なかなか興味深い展示です。
ミラノ展の「オマケ」とするのには、あまりにも勿体ない展覧会でした。この美術館の日本画のコレクションは、これからも追っかけていきたいです。
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「美の伝統 三井家伝世の名宝 後期展示」 三井記念美術館 12/3
三井記念美術館(中央区日本橋室町)
「美の伝統 三井家伝世の名宝 後期展示」
11/17~12/25
日本橋の新たなランドマークとなった「日本橋三井タワー」。高さ200メートル近くあるこの超高層ビルの中に、今年10月、三井グループの所有するお宝を集めた「三井記念美術館」が開館しました。そのオープニングを飾るこの展覧会、その名は「美の伝統 三井家伝世の名宝」。三井グループの強烈な自負も感じられる堂々とした企画です。
展示は前期と後期に分かれていて、作品の多くは展示替えされます。私もその両方を見るつもりでいたのですが、うっかりしている間に前期が終了。先日ようやく後期展示の方を見ることが出来ました。
会場には、国宝や重要文化財をいくつか含む貴重な品々が、約120点程度並びます。器や屏風画、碑文から刀、それに切手まで、時期も、平安時代から昭和期までと幅広くカバーします。また、前期展示では、硯箱や能面も出品されていたそうです。ジャンル別にコンパクトにまとまった展示。なかなか見応えがありました。
一番惹かれた作品は「日月松鶴図屏風」(16世紀)です。右隻と左隻に大きく広がる金屏風には、満月と三日月が重々しい質感を見せながら燦然と輝き、その下には伸びやかな松と、水辺に集う凛とした鶴が配されています。彩色は実に鮮やかです。特に、松の葉の抹茶色のようなフサフサとした表現と、深い藍をたたえた水の配色の見事さ。画面を引き立てます。そしてシャープに生き生きと描かれた鶴の味わい。特に左隻にいる、松の木に体の半分を隠しながら、しなやかな曲線を描いて、グッと回り込むかのようにこちらへ頭を向けている鶴が絶品です。もちろん、中央にて、姿勢を正すかのように、月に向かって目を向ける鶴の体のラインも素晴らしい。これには心が奪われました。
絵画ではもう一点、円山応挙の「雲龍図」(1874年)も見事です。淡い墨の濃淡にて描かれた、ダイナミックな龍と渦巻く雲。雲の渦が、右から龍に迫るかのように動き、龍もそれに向かうかのように力強く対峙する。円山応挙の作品では、前期に出品された「雪松図屏風」も拝見したかったのですが、この作品も見応え十分でした。
一番初めの、落ち着いた木目調にまとめられた「展示室1」では、名品揃いの器が出迎えてくれます。その中では、黒楽茶碗の二点、長次郎の「銘俊寛」(16世紀)と本阿弥光悦の「銘雨雲」(17世紀)に特に惹かれました。共に黒光りする重々しい質感の茶碗ですが、「銘雨雲」では、器の上部がまるで刃のような鋭さを見せていて、そのデザイン性の高さに思わず唸ってしまいます。一方の「銘俊寛」はもっと柔らかい、優しい雰囲気をたたえていて、温もりすら感じられる作品です。私としては「銘俊寛」の方が好みですが、「銘雨雲」もキレの良い造形にも惹かれます。こればかりは甲乙がつきません。
仮名や漢字の美しさを存分に味わうことの出来る碑文や、思わず恍惚としてしまう見事な日本刀も多数展示されています。日本橋にまた新たなアートの拠点が出来ました。今後の企画展にも期待したいところです。今月25日までの開催です。
「美の伝統 三井家伝世の名宝 後期展示」
11/17~12/25
日本橋の新たなランドマークとなった「日本橋三井タワー」。高さ200メートル近くあるこの超高層ビルの中に、今年10月、三井グループの所有するお宝を集めた「三井記念美術館」が開館しました。そのオープニングを飾るこの展覧会、その名は「美の伝統 三井家伝世の名宝」。三井グループの強烈な自負も感じられる堂々とした企画です。
展示は前期と後期に分かれていて、作品の多くは展示替えされます。私もその両方を見るつもりでいたのですが、うっかりしている間に前期が終了。先日ようやく後期展示の方を見ることが出来ました。
会場には、国宝や重要文化財をいくつか含む貴重な品々が、約120点程度並びます。器や屏風画、碑文から刀、それに切手まで、時期も、平安時代から昭和期までと幅広くカバーします。また、前期展示では、硯箱や能面も出品されていたそうです。ジャンル別にコンパクトにまとまった展示。なかなか見応えがありました。
一番惹かれた作品は「日月松鶴図屏風」(16世紀)です。右隻と左隻に大きく広がる金屏風には、満月と三日月が重々しい質感を見せながら燦然と輝き、その下には伸びやかな松と、水辺に集う凛とした鶴が配されています。彩色は実に鮮やかです。特に、松の葉の抹茶色のようなフサフサとした表現と、深い藍をたたえた水の配色の見事さ。画面を引き立てます。そしてシャープに生き生きと描かれた鶴の味わい。特に左隻にいる、松の木に体の半分を隠しながら、しなやかな曲線を描いて、グッと回り込むかのようにこちらへ頭を向けている鶴が絶品です。もちろん、中央にて、姿勢を正すかのように、月に向かって目を向ける鶴の体のラインも素晴らしい。これには心が奪われました。
絵画ではもう一点、円山応挙の「雲龍図」(1874年)も見事です。淡い墨の濃淡にて描かれた、ダイナミックな龍と渦巻く雲。雲の渦が、右から龍に迫るかのように動き、龍もそれに向かうかのように力強く対峙する。円山応挙の作品では、前期に出品された「雪松図屏風」も拝見したかったのですが、この作品も見応え十分でした。
一番初めの、落ち着いた木目調にまとめられた「展示室1」では、名品揃いの器が出迎えてくれます。その中では、黒楽茶碗の二点、長次郎の「銘俊寛」(16世紀)と本阿弥光悦の「銘雨雲」(17世紀)に特に惹かれました。共に黒光りする重々しい質感の茶碗ですが、「銘雨雲」では、器の上部がまるで刃のような鋭さを見せていて、そのデザイン性の高さに思わず唸ってしまいます。一方の「銘俊寛」はもっと柔らかい、優しい雰囲気をたたえていて、温もりすら感じられる作品です。私としては「銘俊寛」の方が好みですが、「銘雨雲」もキレの良い造形にも惹かれます。こればかりは甲乙がつきません。
仮名や漢字の美しさを存分に味わうことの出来る碑文や、思わず恍惚としてしまう見事な日本刀も多数展示されています。日本橋にまた新たなアートの拠点が出来ました。今後の企画展にも期待したいところです。今月25日までの開催です。
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新国立劇場 「ホフマン物語」 12/3
新国立劇場 2005/2006シーズン
オッフェンバック「ホフマン物語」
指揮 阪哲朗
演出 フィリップ・アルロー
合唱 新国立劇場合唱団
管弦楽 東京フィルハーモニー交響楽団
キャスト
ホフマン クラウス・フロリアン・フォークト
ニクラウス/ミューズ 加納悦子
オランピア 吉原圭子
アントニア 砂川涼子
ジュリエッタ 森田雅美
リンドルフ/コッペリウス/ミラクル博士/ダペルトゥット ジェイムズ・モリス
アンドレ/コシュニーユ/フランツ/ピティキナッチョ 青地英幸
ルーテル/クレスペル 彭康亮
ヘルマン 黒田諭
ナタナエル 渡辺文智
スパランツァーニ 柴山昌宣
シュレーミル 泉良平
アントニアの母の声/ステッラ 林美智子
2005/12/3 15:00~ 新国立劇場オペラ劇場 4階
2003年のプレミエにて好評を博したという、アルロー演出「ホフマン物語」の再演です。指揮はその時と同じく阪哲朗。私はプレミエを観に行かなかったので、今回が初めてのアルロー、またはホフマン体験となりました。
「光の魔術師」とも形容されるフィリップ・アルローですが、その彼の手に掛かると、ステージはとても華やかに、そして美しく輝きます。蛍光色を多用した衣装と、妖し気に瞬く照明の交錯。舞台はカジュアルな雰囲気で進みますが、どこか耽美的な匂いも漂わせています。また、人物の動きも実に細かく描写されます。心情をコミカルに演出させること。悪役リンドルフが見せる、お茶目な、まるで道化のような演技には驚きです。もちろん、ホフマンの「格調高い」一途な恋心も、なにかマヌケ見えてきます。ロマン派的な、芸術至上主義や愛への賛美は、もっとホフマンの内面にまで降りて来て、半ばドタバタ劇的な心情遍歴へと変換されます。ホフマンの、半ば突発的に湧き上がる感情に寄り添って組み立てられる劇。夢物語の曖昧さとムリヤリ感がストレートに表現されました。夢の中を彷徨うホフマンは、目覚めてみれば破滅するしかなかった。ホフマンの弱さが生み出した、惨たらしい運命の必然性にスポットが当てられます。
読み替えは殆どなく、ストーリーに忠実に展開しますが、幕切れのホフマンの死には仕掛けがありました。酔っぱらって前後不覚となったホフマン。彼はそのまま曖昧に死なずに、アンドレの差し出す拳銃によって、こめかみに弾丸をぶち込むのです。「バン!」と響き渡る大きな銃声。それは、ホフマンの死を、現実としての痛みを伴うかのように、明確に意識させます。また、さらに面白いのは、それまでの「夢物語」の登場人物が、死んだホフマンを囲むようにして現れることです。リンドルフやオランピアが見守るホフマンの死。もちろん、ホフマンの夢物語を生み出したミューズも登場します。そして彼女は、ホフマンの死に「芸術」という名誉を与えることよりも、その死に引導を渡したかのように存在します。ミューズの位置付けが興味深い演出でした。
さて、音楽面については、特に歌手陣が好調です。最近の新国立劇場の公演としても、かなり高水準ではないでしょうか。特にタイトルロールのフォークトと、リンドルフのモリス。発音こそやや不明瞭ですが、声量、質ともに、最上と思えるほどの充実ぶりです。コミカルな演技と凄みのある声。モリスの存在感には、場が引き締まるほどの強さがありますが、フォークトの甘美で柔らかく、また張りのある声も見事です。そして、オランピアの吉原圭子とアントニアの砂川涼子も、共に美しい歌を聴かせてくれました。特に難曲を危なげなくこなした吉原圭子には、大いに拍手を送りたいと思います。また、脇役も手堅く殆ど穴がありません。唯一、少し残念だったのは、ニクラウスの加納悦子でしょうか。彼女には以前、「ナクソス島のアリアドネ」の公演にて、十分に務めを果たしたような美しい歌声を聴かせてくれたことがありますが、今回は、少々分が悪く、他に埋没していました。彼女には、演出によって重要な位置付けが与えられていただけに、もう一歩の存在感があればと思います。
指揮は阪哲朗です。私は彼の音楽を支持します。このオペラの音楽が持つ、軽妙洒脱な柔らかい響きこそ表現されずに、随分と重々しい雰囲気に仕上がっていましたが、それでも、万全とは言えない東フィルを、歌手に寄り添うかのようにしてまとめた手腕は見事です。時には劇的に、山場をはっきりと示しながら、それでいてどこか控えめな所もある器用な指揮ぶり。時折、金管が耳をつんざくように響き渡って、どこか暴力的な様相も呈してきます。第二幕こそ、やや表情がだれるようにも思いましたが、総じて、アクセルとブレーキを交互に踏み分けるように、生き生きとした音楽を作り出していました。また、ホールのサイズに合わせるかのように、無理をしないで、コンパクトにしっかりと聴かせることにも成功しています。カーテンコールでは、冷ややかな拍手にて迎えられていた阪ですが、私が今年聴いた新国立劇場の公演の中では、一月の「マクベス」のフリッツァ、そして9月の「マイスタージンガー」のレックに続いて、感銘した演奏を聴かせてくれました。
今後も再演を重ねて欲しい良質の演出と、失礼ながら実に強力だった歌手陣。見て、聴いて楽しめる公演でした。あと一回、火曜日の公演が予定されていますが、これはおすすめしたいです。
オッフェンバック「ホフマン物語」
指揮 阪哲朗
演出 フィリップ・アルロー
合唱 新国立劇場合唱団
管弦楽 東京フィルハーモニー交響楽団
キャスト
ホフマン クラウス・フロリアン・フォークト
ニクラウス/ミューズ 加納悦子
オランピア 吉原圭子
アントニア 砂川涼子
ジュリエッタ 森田雅美
リンドルフ/コッペリウス/ミラクル博士/ダペルトゥット ジェイムズ・モリス
アンドレ/コシュニーユ/フランツ/ピティキナッチョ 青地英幸
ルーテル/クレスペル 彭康亮
ヘルマン 黒田諭
ナタナエル 渡辺文智
スパランツァーニ 柴山昌宣
シュレーミル 泉良平
アントニアの母の声/ステッラ 林美智子
2005/12/3 15:00~ 新国立劇場オペラ劇場 4階
2003年のプレミエにて好評を博したという、アルロー演出「ホフマン物語」の再演です。指揮はその時と同じく阪哲朗。私はプレミエを観に行かなかったので、今回が初めてのアルロー、またはホフマン体験となりました。
「光の魔術師」とも形容されるフィリップ・アルローですが、その彼の手に掛かると、ステージはとても華やかに、そして美しく輝きます。蛍光色を多用した衣装と、妖し気に瞬く照明の交錯。舞台はカジュアルな雰囲気で進みますが、どこか耽美的な匂いも漂わせています。また、人物の動きも実に細かく描写されます。心情をコミカルに演出させること。悪役リンドルフが見せる、お茶目な、まるで道化のような演技には驚きです。もちろん、ホフマンの「格調高い」一途な恋心も、なにかマヌケ見えてきます。ロマン派的な、芸術至上主義や愛への賛美は、もっとホフマンの内面にまで降りて来て、半ばドタバタ劇的な心情遍歴へと変換されます。ホフマンの、半ば突発的に湧き上がる感情に寄り添って組み立てられる劇。夢物語の曖昧さとムリヤリ感がストレートに表現されました。夢の中を彷徨うホフマンは、目覚めてみれば破滅するしかなかった。ホフマンの弱さが生み出した、惨たらしい運命の必然性にスポットが当てられます。
読み替えは殆どなく、ストーリーに忠実に展開しますが、幕切れのホフマンの死には仕掛けがありました。酔っぱらって前後不覚となったホフマン。彼はそのまま曖昧に死なずに、アンドレの差し出す拳銃によって、こめかみに弾丸をぶち込むのです。「バン!」と響き渡る大きな銃声。それは、ホフマンの死を、現実としての痛みを伴うかのように、明確に意識させます。また、さらに面白いのは、それまでの「夢物語」の登場人物が、死んだホフマンを囲むようにして現れることです。リンドルフやオランピアが見守るホフマンの死。もちろん、ホフマンの夢物語を生み出したミューズも登場します。そして彼女は、ホフマンの死に「芸術」という名誉を与えることよりも、その死に引導を渡したかのように存在します。ミューズの位置付けが興味深い演出でした。
さて、音楽面については、特に歌手陣が好調です。最近の新国立劇場の公演としても、かなり高水準ではないでしょうか。特にタイトルロールのフォークトと、リンドルフのモリス。発音こそやや不明瞭ですが、声量、質ともに、最上と思えるほどの充実ぶりです。コミカルな演技と凄みのある声。モリスの存在感には、場が引き締まるほどの強さがありますが、フォークトの甘美で柔らかく、また張りのある声も見事です。そして、オランピアの吉原圭子とアントニアの砂川涼子も、共に美しい歌を聴かせてくれました。特に難曲を危なげなくこなした吉原圭子には、大いに拍手を送りたいと思います。また、脇役も手堅く殆ど穴がありません。唯一、少し残念だったのは、ニクラウスの加納悦子でしょうか。彼女には以前、「ナクソス島のアリアドネ」の公演にて、十分に務めを果たしたような美しい歌声を聴かせてくれたことがありますが、今回は、少々分が悪く、他に埋没していました。彼女には、演出によって重要な位置付けが与えられていただけに、もう一歩の存在感があればと思います。
指揮は阪哲朗です。私は彼の音楽を支持します。このオペラの音楽が持つ、軽妙洒脱な柔らかい響きこそ表現されずに、随分と重々しい雰囲気に仕上がっていましたが、それでも、万全とは言えない東フィルを、歌手に寄り添うかのようにしてまとめた手腕は見事です。時には劇的に、山場をはっきりと示しながら、それでいてどこか控えめな所もある器用な指揮ぶり。時折、金管が耳をつんざくように響き渡って、どこか暴力的な様相も呈してきます。第二幕こそ、やや表情がだれるようにも思いましたが、総じて、アクセルとブレーキを交互に踏み分けるように、生き生きとした音楽を作り出していました。また、ホールのサイズに合わせるかのように、無理をしないで、コンパクトにしっかりと聴かせることにも成功しています。カーテンコールでは、冷ややかな拍手にて迎えられていた阪ですが、私が今年聴いた新国立劇場の公演の中では、一月の「マクベス」のフリッツァ、そして9月の「マイスタージンガー」のレックに続いて、感銘した演奏を聴かせてくれました。
今後も再演を重ねて欲しい良質の演出と、失礼ながら実に強力だった歌手陣。見て、聴いて楽しめる公演でした。あと一回、火曜日の公演が予定されていますが、これはおすすめしたいです。
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