
「老蘇の森」には、孝霊天皇の時代(紀元前290年~215年)に、“この地は地裂け水湧いて、とても人の住む所ではなかったが、石辺大連という人が神の助けを得てこの地に松・杉・桧を植えたところ、たちまち大森林になった”という謂れがあるそうです。
石辺大連は百数十歳まで生きたため「老蘇」(老が蘇る)意味から「老蘇の森」(おいそのもり)と呼ぶようになったと伝わるそうです。
そのため奥石神社は「おいそ神社」と読むのですが、奥石神社は「延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)」という927年にまとめられた全国の神社一覧に載せられている格式高く、由緒ある神社だそうです。
「延喜式内社」となった理由として、“繖山を御神体とする最も古く原始的、根源的な神社であったため”と書かれてありました。
「繖山」は、霊山としてアニミズム信仰の山として古代から信仰の対象とされていたことが伺い知れる話ですね。

奥石神社の御祭神は、藤原氏の祖とされる「天児屋根命」(あめのこやねのみこと)ですから、言い換えると中臣鎌足の祖ということになりますね。
鳥居は表参堂と裏参道にありますが、表参道の鳥居は民家の並ぶ町並みに突然現れます。

鳥居の横には石碑があり、「老蘇森」の石碑の横には「安産守護 鎌宮」の石碑がありました。
「鎌宮(かまみや)」とは奥石神社のもうひとつの呼び名で、「蒲生野宮(かまふのみや)」がなまって名付けられたとされています。
ここ安土町から東近江市につながる蒲生野(がもうの)では天智天皇(中大兄皇子)が薬猟を行っていたとの記録があるそうですので、中臣鎌足こと藤原鎌足の祖を祀る神社との関係がありそうです。

参道には老蘇の森と呼ばれるだけあって、こんもりと茂った木々が連なる道です。
左手に摂社の吉住稲荷社の赤い鳥居、右手に慰霊碑を見ながら約100mほどの参道を歩いていきます。

参道から境内への入り口の手前には御神木の姿がありました。
樹齢やサイズなど詳しいことは分かりませんが、真っ直ぐ一直線に伸びた巨木です。

参道を抜けると、老蘇の森を背景に拝殿と本殿が見えてきます。
この日は初宮参りの大家族が何組かご祈祷に参拝されており、境内にハレの雰囲気が漂っていました。


奥石神社は「鎌宮」と呼ばれていたこともあって、御神紋は鎌が交差した神紋になっており、いたるところに鎌の神紋を見ることが出来ます。
奥の方に見える神紋は、何となく“こち亀の両津勘吉の眉毛と目”に見えてしまうのはご愛嬌です。

この拝殿で面白いのは木鼻が象の形になっていることでしょうか。
寺院なんかではよく見かけますが、神社でもこのような木鼻があるのには少し驚きました。

本殿は、1581年に織田信長が家臣の柴田家久(勝家の一族)に命じて再建された建物で、この本殿は国の重要文化財となっています。
この神社の再建は安土城の城下町を形成する施策に関連したものだとされていますが、信長が本能寺の変で自害するのは、翌1582年6月のことですから、信長晩年の建造物ということになるのでしょうね。


「老蘇の森」は、万葉の昔から多くの歌に詠まれてきた太古からの森と言われます。
境内には老蘇の森への入口がありましたので少し覗いてみましたが、晴天の日中にも関わらず深い森の中にはほとんど光は射しておらず、鬱蒼と木々の茂る森に怖れをなしてしまい森の中へ入っていく勇気はありませんでした。