海津天神社は琵琶湖からほど近い場所に位置し、山崎山(307.6m)の裾野に建てられた神社で梅の季節には境内横の梅苑に咲く紅白の梅の花が美しい神社です。
約800本のソメイヨシノが並ぶ「海津大崎の桜」からも距離的に近いことから、海津というと初春の華やかなイメージを連想してしまいます。
「天神社」のその社名の通り菅原道真公を御祭神として祀った天満宮になりますので、各地に広がった天神信仰の社の一つということになります。
勧請は1191年と伝わるそうですから、平安時代が終わって鎌倉時代始まってすぐくらいの時代になるようです。
以前に正月の初詣に参拝したことがあって、その時は大勢の参拝客でにぎわっていた記憶があるのですが、1月も7日ともなると参拝客は当方を入れても5組だけのゆったり参拝です。
ある年の正月に参拝しようとした際には途中の道中の豪雪のため断念して引き返したことがあったことを思えば、この晴天には違和感を感じてしまいます。
鳥居を抜けて境内に入ると、まず正面に拝殿がありますが、松の内とあって今年の干支の酉の絵馬がかけられています。
この神社の酉は、ニワトリとヒヨコの可愛らしい図柄になっていますね。道真公の神社ですから絵馬には「合格」の文字もあります。
海津天神社の少し変わっているところは本殿がデンと構えているのではなく、約10棟の社が並んで建てられていることでしょうか。
本殿(天神社)を挟んで「大鍬神社」と「小野神社」があり、他にも「貴船社・恵比寿社・稲荷社・白山社」などの摂社が並びます。
これだと祈願したい内容に併せて社が選べるといった感じですね。
「天満宮」の勧請は鎌倉初期ということでしたが、「大鍬神社と小野神社」については社伝によると、9~10世紀が創祀とされていますので天神社の勧請以前よりあった神社のようです。
御祭神は「大鍬神社」が大己貴命(おおなむちのみこと)、「小野神社」が天押足彦命(あまのおしたちひこのみこと)が祀られているそうです。
海津天神社は“1571年(比叡山焼き討ちの年)に織田信長の兵火にあい社領を失ったとされています。
なぜ信長は湖西の神社にまで兵火を及ぼしたのか不思議だったのですが、これは浅井長政の高島郡侵攻と関係があるのかもしれません。
その後の1576年に高島郡司 磯野員昌が本殿を寄進し、1585年には豊臣秀吉が社領を寄進して以降は歴代の将軍から朱印状が与えられてきたようです。
磯野員昌という人を調べてみると、佐和山城主にして元浅井家家臣、転じて織田家家臣、信長の勘気にふれ追放、最後は帰農。なかなか数奇な運命の方みたいですね。
神社は本殿の右には「大鍬神社」「恵比寿社」「八坂社」「稲荷社」が並び、石段の上には「愛宕社」と「白山社」の社が並びます。
石段を登った突き当たりには「愛宕社」の社がよく茂った木々の中にひっそりと鎮座していました。
本殿の左には「小野神社」「靖国社と国狹槌社」「貴船社」が並びこちらにも上へ行く石段があります。
石段の上にあるのは「金毘羅社」。これより先は神の領域ですので進むことは出来ません。
梅苑の梅の木は一部に蕾が膨らんで花が開きかけているものもありましたが、開花はまだ当分先といった感じです。
雪の下から草木の新しい芽が出てくるのも季節的にはまだ先なんだけど、一度は雪が降ってくれないと冬の季節感が感じられませんね。
約800本のソメイヨシノが並ぶ「海津大崎の桜」からも距離的に近いことから、海津というと初春の華やかなイメージを連想してしまいます。
「天神社」のその社名の通り菅原道真公を御祭神として祀った天満宮になりますので、各地に広がった天神信仰の社の一つということになります。
勧請は1191年と伝わるそうですから、平安時代が終わって鎌倉時代始まってすぐくらいの時代になるようです。
以前に正月の初詣に参拝したことがあって、その時は大勢の参拝客でにぎわっていた記憶があるのですが、1月も7日ともなると参拝客は当方を入れても5組だけのゆったり参拝です。
ある年の正月に参拝しようとした際には途中の道中の豪雪のため断念して引き返したことがあったことを思えば、この晴天には違和感を感じてしまいます。
鳥居を抜けて境内に入ると、まず正面に拝殿がありますが、松の内とあって今年の干支の酉の絵馬がかけられています。
この神社の酉は、ニワトリとヒヨコの可愛らしい図柄になっていますね。道真公の神社ですから絵馬には「合格」の文字もあります。
海津天神社の少し変わっているところは本殿がデンと構えているのではなく、約10棟の社が並んで建てられていることでしょうか。
本殿(天神社)を挟んで「大鍬神社」と「小野神社」があり、他にも「貴船社・恵比寿社・稲荷社・白山社」などの摂社が並びます。
これだと祈願したい内容に併せて社が選べるといった感じですね。
「天満宮」の勧請は鎌倉初期ということでしたが、「大鍬神社と小野神社」については社伝によると、9~10世紀が創祀とされていますので天神社の勧請以前よりあった神社のようです。
御祭神は「大鍬神社」が大己貴命(おおなむちのみこと)、「小野神社」が天押足彦命(あまのおしたちひこのみこと)が祀られているそうです。
海津天神社は“1571年(比叡山焼き討ちの年)に織田信長の兵火にあい社領を失ったとされています。
なぜ信長は湖西の神社にまで兵火を及ぼしたのか不思議だったのですが、これは浅井長政の高島郡侵攻と関係があるのかもしれません。
その後の1576年に高島郡司 磯野員昌が本殿を寄進し、1585年には豊臣秀吉が社領を寄進して以降は歴代の将軍から朱印状が与えられてきたようです。
磯野員昌という人を調べてみると、佐和山城主にして元浅井家家臣、転じて織田家家臣、信長の勘気にふれ追放、最後は帰農。なかなか数奇な運命の方みたいですね。
神社は本殿の右には「大鍬神社」「恵比寿社」「八坂社」「稲荷社」が並び、石段の上には「愛宕社」と「白山社」の社が並びます。
石段を登った突き当たりには「愛宕社」の社がよく茂った木々の中にひっそりと鎮座していました。
本殿の左には「小野神社」「靖国社と国狹槌社」「貴船社」が並びこちらにも上へ行く石段があります。
石段の上にあるのは「金毘羅社」。これより先は神の領域ですので進むことは出来ません。
梅苑の梅の木は一部に蕾が膨らんで花が開きかけているものもありましたが、開花はまだ当分先といった感じです。
雪の下から草木の新しい芽が出てくるのも季節的にはまだ先なんだけど、一度は雪が降ってくれないと冬の季節感が感じられませんね。