大津市歴史博物館で開催されている「仏像をなおす」展では、比叡山延暦寺・圓常寺・西教寺・日吉大社が主に展示されており、ふと思い立って西教寺へ参拝することにしました
博物館の隣には「圓満院」、その南には「圓常寺(三井寺)」「長等神社」があり、北上して「近江神宮」を越えると神社仏閣の多い坂本の町に入り、「日吉大社」をさらに北へ行くと「西教寺」がある。
坂本辺りには大きな寺院が点在しており、さすが比叡山のお膝元と感心しますが、大津は比叡山開山前の飛鳥・白鳳時代には短期間とはいえ都(大津京)があった地ですから仏教文化の盛んだった地になります。
滋賀県では天台宗が各所で信仰されていた時代がありますが、大津周辺・湖東・湖北とその地に元々あった信仰と溶け合っているため、地方ごとに特色がみられます。
西教寺は聖徳太子が恩師である高麗の僧慧慈・慧聡のために創建したとの伝承があり、平安期には慈恵大師良源(通称:元三大師)が荒廃していた寺院を復興したという。
室町時代になると、真盛上人が入寺されて堂塔と教法を再興されますが、信長の比叡山焼き討ちでは災禍を被ってしまいます。
西教寺の復興は、近江国を与えられた明智光秀が復興の援助をしたといい、太平洋戦争後に西教寺は天台宗真盛派の総本山として400ヶ寺以上の末寺を有する寺院となったようです。
総門から入り参道を進むと、京都の大寺院を思い起こさせるような塔頭寺院が並び、サクラの樹が参道にかぶさるようにしていて春には桜、秋には紅葉スポットとして人気が高い寺院です。
ゆるやかな登りの参道の先には勅使門があり、門を迂回して境内の中心部へと入ります。
お昼前とはいえ、気温が上がり汗がしたたり落ちますが、参拝者が多いのは本堂前の「風鈴参道通り抜け」を見にきている人が多いからなのでしょう。
勅使門の参道を挟んだ左手には宗祖大師殿があり、琵琶湖側には見事な彫刻をあしらわれた唐門があります。
唐門は大正期に建てられた四脚門ですが、築地塀の真ん中に建つ門からは豪奢な印象を受けます。
手水舎では吐水する龍の下にアヒルのすくい人形が涼し気にプカプカと浮いています。
小さな子供連れの親子がおられましたが、子供がここを離れるのを嫌がっていましたので、アヒル人形はは子供のハートを鷲掴みにしていたのでしょう。
本堂は1789年の再建で重要文化財に指定された建物で、本尊には丈六の阿弥陀如来坐像(平安期・定朝様式)が祀られている。
阿弥陀如来坐像は重文に指定されており、像内には木造五輪塔柱が納められていいたといい、附修理銘札は大津市歴史博物館に寄託されているといいます。
西教寺は信長の比叡山焼き討ちの際に焼失したとされるが、地元坂本城の城主であった明智光秀の尽力もあって再興したという。
光秀は西教寺の檀徒でもあったとされており、明智光秀と一族の墓が境内に祀られています。
光秀は焼き討ちに対して批判的で信長に中止を諌言したとも、積極的に進めたともされますが、墓所があるというのは慕われていた証ということでしょうか。
本堂の裏には客殿(重要文化財・桃山時代)があり、襖絵や小堀遠州の作庭とされる庭園を含む庭園が複数ある。
書院の欣浄廊には桃山時代の「西教寺二十五菩薩石仏」が安置されており、破損がひどくなってきたため2004年に屋内に移動し、屋外には新たな石仏を安置したという。
西教寺には拝観を兼ねて「風鈴参道通り抜け」を見に来られる方が多く、デジカメやスマホで撮影をされる方が絶えませんでした。
風鈴は涼し気な音色から暑気払いとして楽しまれていますが、音を立てることにより邪気を払災いが起こらないという信仰の名残りとされます。
西教寺では1500個の風鈴を吊り下げた風鈴参道が設置されていて、ライトアップもされているようで、風鈴参道は本堂の前まで続きます。
参道を歩いている時は、残念ながらほぼ無風状態でしたので“風鈴の音色に包まれて”というわけにはいきませんでしたが、一瞬だけ風が吹いた時は涼し気な音色が一斉に鳴っていました。
本堂前の参道の木枠の端から光秀の飛び出し坊やの姿があります。
滋賀県は飛び出し坊や発祥の地ですから県内の道路で飛び出し坊やに出会うことが多く、バリエーションも非常に多いので、滋賀の文化のひとつですね。
イラストレーターのみうらじゅんさんは、自分のキャラをイメージした飛び出し坊やもコレクションされているとか...。
博物館の隣には「圓満院」、その南には「圓常寺(三井寺)」「長等神社」があり、北上して「近江神宮」を越えると神社仏閣の多い坂本の町に入り、「日吉大社」をさらに北へ行くと「西教寺」がある。
坂本辺りには大きな寺院が点在しており、さすが比叡山のお膝元と感心しますが、大津は比叡山開山前の飛鳥・白鳳時代には短期間とはいえ都(大津京)があった地ですから仏教文化の盛んだった地になります。
滋賀県では天台宗が各所で信仰されていた時代がありますが、大津周辺・湖東・湖北とその地に元々あった信仰と溶け合っているため、地方ごとに特色がみられます。
西教寺は聖徳太子が恩師である高麗の僧慧慈・慧聡のために創建したとの伝承があり、平安期には慈恵大師良源(通称:元三大師)が荒廃していた寺院を復興したという。
室町時代になると、真盛上人が入寺されて堂塔と教法を再興されますが、信長の比叡山焼き討ちでは災禍を被ってしまいます。
西教寺の復興は、近江国を与えられた明智光秀が復興の援助をしたといい、太平洋戦争後に西教寺は天台宗真盛派の総本山として400ヶ寺以上の末寺を有する寺院となったようです。
総門から入り参道を進むと、京都の大寺院を思い起こさせるような塔頭寺院が並び、サクラの樹が参道にかぶさるようにしていて春には桜、秋には紅葉スポットとして人気が高い寺院です。
ゆるやかな登りの参道の先には勅使門があり、門を迂回して境内の中心部へと入ります。
お昼前とはいえ、気温が上がり汗がしたたり落ちますが、参拝者が多いのは本堂前の「風鈴参道通り抜け」を見にきている人が多いからなのでしょう。
勅使門の参道を挟んだ左手には宗祖大師殿があり、琵琶湖側には見事な彫刻をあしらわれた唐門があります。
唐門は大正期に建てられた四脚門ですが、築地塀の真ん中に建つ門からは豪奢な印象を受けます。
手水舎では吐水する龍の下にアヒルのすくい人形が涼し気にプカプカと浮いています。
小さな子供連れの親子がおられましたが、子供がここを離れるのを嫌がっていましたので、アヒル人形はは子供のハートを鷲掴みにしていたのでしょう。
本堂は1789年の再建で重要文化財に指定された建物で、本尊には丈六の阿弥陀如来坐像(平安期・定朝様式)が祀られている。
阿弥陀如来坐像は重文に指定されており、像内には木造五輪塔柱が納められていいたといい、附修理銘札は大津市歴史博物館に寄託されているといいます。
西教寺は信長の比叡山焼き討ちの際に焼失したとされるが、地元坂本城の城主であった明智光秀の尽力もあって再興したという。
光秀は西教寺の檀徒でもあったとされており、明智光秀と一族の墓が境内に祀られています。
光秀は焼き討ちに対して批判的で信長に中止を諌言したとも、積極的に進めたともされますが、墓所があるというのは慕われていた証ということでしょうか。
本堂の裏には客殿(重要文化財・桃山時代)があり、襖絵や小堀遠州の作庭とされる庭園を含む庭園が複数ある。
書院の欣浄廊には桃山時代の「西教寺二十五菩薩石仏」が安置されており、破損がひどくなってきたため2004年に屋内に移動し、屋外には新たな石仏を安置したという。
西教寺には拝観を兼ねて「風鈴参道通り抜け」を見に来られる方が多く、デジカメやスマホで撮影をされる方が絶えませんでした。
風鈴は涼し気な音色から暑気払いとして楽しまれていますが、音を立てることにより邪気を払災いが起こらないという信仰の名残りとされます。
西教寺では1500個の風鈴を吊り下げた風鈴参道が設置されていて、ライトアップもされているようで、風鈴参道は本堂の前まで続きます。
参道を歩いている時は、残念ながらほぼ無風状態でしたので“風鈴の音色に包まれて”というわけにはいきませんでしたが、一瞬だけ風が吹いた時は涼し気な音色が一斉に鳴っていました。
本堂前の参道の木枠の端から光秀の飛び出し坊やの姿があります。
滋賀県は飛び出し坊や発祥の地ですから県内の道路で飛び出し坊やに出会うことが多く、バリエーションも非常に多いので、滋賀の文化のひとつですね。
イラストレーターのみうらじゅんさんは、自分のキャラをイメージした飛び出し坊やもコレクションされているとか...。